映画『14歳の栞』制作陣による「聖域」侵犯
この投稿では映画『14歳の栞』を批判していますが、この批判は大人(制作陣、教員)に対するものであり、生徒に対するものでは一切ありません。
昨日、『14歳の栞』という映画を観てきた。3月に公開が始まっていたらしいが、公開前・当初からその存在を知っていたわけではなく、5月のいつだかにTwitterのタイムラインでこのツイートを見かけ「観てみたい」と思った。
この「観てみたい」という思いは、「自分が楽しめる作品だろうから観たい」というポジティブなものではなく、「この作品に対してモヤモヤを抱いているから観たい」というものだった。
既に公開を終えている映画館が多く、比較的行きやすい池袋の映画館では公開を一時的に休止しており、再開を待つ必要があった。幸いにもその間、抱いたモヤモヤを言語化する時間を設けることができた。言語化した結果が、これらのツイート群。
観終わった今も、ここで言語化した考えは変わっておらず、「この映画は聖域を侵犯しており、問題である」という立場だ。むしろ、Twitterに投稿した論点以外にも、自分の立場を補強する点が2つあった。以下、この映画が構造的に抱えている3つの問題点を記す。
構造上の問題点①撮影が入り込むことの不可逆性
これはTwitterで既に触れている論点だが、個人的に一番重く捉えているので改めて考えを記す。「撮影が入り込む」という大人が持ち込んだ作為によって、本来あり得た世界線が成立しなくなってしまったということ。
撮影の許可(誰の許可なのかは不明だが)が取れている以上、多くの人はこの撮影に反対していない、と判断できそうだ。さらに、インタビューのフランクな雰囲気や、インタビューで生徒たちが「本音」らしき言葉を紡いでいる雰囲気から、この撮影の存在は、多くの生徒にとってポジティブなものだったと想像できる。これは私の妄想だが、「楽しかったし貴重な経験になった」「撮影があったおかげで部活に身が入った」という生徒がいてもおかしくない。つまり、結果論だけに拠れば、この撮影が入ったことは生徒たちにとって良いことだった可能性がある。
しかし私は、撮影が生徒たちにもたらした結果の良し悪しに関係なく、この撮影が入り込むことを問題と捉えている。
この撮影は、生徒の行動、そしてそれらが影響し合って起こる生徒たちの関係性に、必ず何かしらの変化をもたらしたはずだ。「結果良かったならいいじゃん」という考えもあるかもしれないが、その検証は、今この世界線が撮影の入り込んだ世界線である以上、絶対に不可能だ。「この撮影が特定の生徒にネガティブな影響をもたらした」「この撮影がクラス全体にネガティブな影響をもたらした」といったことを反証できない。
学校生活で起こりうる「●●さんが転校していなかったとしたら」「●●先生が異動したとしたら」といった事象でも、その仮定がもたらす結果と現実のどっちがよかったのか、という問いを検証することはできず、同じく不可逆である。しかしこれらの事象は学校生活で起こりうることとして全員が暗黙のうちに了解していることであり、個人的に問題ない。というより仕方ない。
「3学期の間クラスの様子が撮影され続ける」という大人の作為で起こったきわめて特殊な状況によって、本来あり得た世界線という「聖域」が消失したことが問題だと思う。
構造上の問題点②プライバシー配慮の限界
この映画に登場する生徒たちは、これからもそれぞれの人生を歩んでいきます。SNS等を通じて、個人に対するプライバシーの侵害やネガティブな感想、誹謗中傷を発言することはご遠慮ください。どうかご協力をお願い致します。
これは、観客に配られる「学級だより」風のプリントや、上映開始・終了時に映される注意事項だ。この注意事項の内容自体に問題点は無いように思うし、観客はこれを遵守せねばならないと思う。
しかし、実際に映画を観終わった上でこの注意事項を読むと、観客を信頼しすぎている制作陣の怠慢にしか思えない。それくらい、悪意を持った人が観たらいろいろとできてしまう情報がこの映画には含まれてしまっている。具体的に列挙するとそれはそれで問題なので、ここでは詳細な記載を控える。
あえて制作陣の立場に寄り添うのであれば、たくさんのぼかしをかけることや、情報の露出を控えることによって、作品の完成度の低下につながりうる。でもこの映画に、生徒のプライバシーが侵害されるリスクを抱えてまで描きたいメッセージが果たしてあるだろうか? 私は無いと思う。嫌な言い方をしてしまえば、大人が自分の青春と重ね合わせて「エモい〜」となるためだけ(冒頭の監督のツイートの雰囲気から、そういった方向性の消費を狙っていることが窺える)に生徒に抱えさせるリスクにしては重すぎるように思う。注意喚起することは、「リスクを抱えさせること」の免罪符にはならない。
これは邪推だが、「生徒個人に対する誹謗中傷」を避けるよう繰り返し繰り返し発信することによって、制作陣への批判も避けるように受け手のトーンを操作しようという思惑すら感じてしまう。
構造上の問題点③「同意」の限界
※これは実例が1つしか無いので「構造上」ではないかもしれない
インタビューの中で、とある出来事について「言いたくない」と明確に意思表示をした生徒(Aさんとする)がいた。もちろんその場でインタビュアーがAさんにその出来事について詮索することはなかった。
しかし別の生徒が、その生徒個人に対するインタビュー(Aさんはいない)で、その出来事の内容を語った。
これは明確に問題を抱えている。Aさんが「言いたくない」という意思表示をした理由として、主に2つの方向性が想像できる。
①その出来事について自分から口に出すことがはばかられた
②どんな出来事だったのかを、インタビュアー、ひいては他の生徒や先生、観客など他の人に知ってほしくなかった
このうち、Aさんに対するインタビューで特に詮索していない様子から、①は守られていることになる。(もし映像に出てきていないだけで詮索していたとしたら最悪だが、それはさすがに無いと信じる)
しかし②については、別の生徒が内容を語った時点で崩れてしまっている。もしAさんが「他の人に知られたくない」ために出来事の内容を言わなかったとして、その内容が作中で開示されていることを知ったとしたら?想像するだけで胸が痛む。
「撮影への同意」がどういった形態を取ったのかは不明だが、このAさんの一例だけでも、生徒の気持ちが尊重されない分岐があり得てしまう。ここまでの問題点が発生していることも踏まえ、私は本作の制作陣が、こうした分岐を1つ1つ精査し、丁寧に許可を取っているとは思えない。
なぜ、学校に入り込んだ撮影がありそうで無かったのか
学校に入り込んで撮影するという形式自体が、こうした構造上の問題を抱えてしまう。だからこそ、これまで学校を題材とした作品は、実話をベースとした演技やフィクションが担ってきたように思う。仮に学校に入り込むことがあったとしても、それは何らかの問題を提起するための、必然性があるドキュメンタリーであって、「エモい」を引き出す装置にとどまるものでは決してなかったはず。(この辺り、しっかりこれまでの作品について調べた上で述べていないので、反例あれば教えてもらいたいです。反例の存在が、本作の問題点を無くしはしませんが。)
学校での撮影で、生徒を守るための方法論が確立しているかどうかは分からない。分からないけれど、割とすぐ思いつきそうなこの形式が、ありそうで無かったものであり続けたのは、作り手たちの良識によるものだったのでは無いかと推察する。そういう意味でも、この作品はこれまで守られてきた「聖域」を侵犯しているように思う。
ありそうで無かった別の理由として、許可を取りづらいことが挙げられるが、こんな背景があったようだ。
「実現した要因には、担任の先生の協力も大きかったです。取材の前から、ご自身で授業中にカメラをまわし、『学級通信』として保護者向けにシェアなどもしていたそうで、保護者ともメールなどでコミュニケーションを頻繁にとられている先生だったからこそ、皆さんに集まってもらって直接プレゼンする場を設けていただくことができました。」
「『あるあるが、あるすぎて、くるしい…』中2のクラス全員に50日間密着映画に反響、14歳の希望と苦悩を今映す意義」
https://www.oricon.co.jp/special/56056/
ここまで制作陣に対する批判を述べてきたが、最後は、この問題を抱えた構造から生徒を守る最後の砦になるどころか、むしろ加担した当該教員への物申しで締めたい。これだけの労力を映画のために費やすなら、それを生徒1人1人の指導・支援に費やしてほしい。生徒の充実した学校生活やそれをもとにした成長に、「撮影」なんて飛び道具、そもそも要らないのだ。
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