「リアリティ番組」との向き合い方
仲の良い先輩から無言でスクショだけのLINEが来た。人気リアリティ番組新シーズン配信決定の報せ。
いわゆる「リアリティ番組」には比較的親しんできたほうだと思う。
今まで観てきたのはこんなところ。
・『TERRACE HOUSE ALOHA STATE』
・『TERRACE HOUSE OPENING NEW DOORS』
・『TERRACE HOUSE TOKYO 2019-2020』
・『バチェラー・ジャパン』シーズン1, 2, 3
・『バチェロレッテ・ジャパン』
・『ザ・ジレンマ』('Too Hot to Handle')シーズン1
『ザ・ジレンマ』はイロモノ要素が強いので除くとして、リアリティ番組では、登場人物同士の関係性が次第に紡がれていく様を追っていけるところが好きだ。
しかし、これまでこの「リアリティ番組」というフォーマットが生んできた犠牲、そして2020年についに本邦でも起きてしまった自殺の件を考えると、こういった番組を手放しで楽しむことはもうできないし、すべきではないように思う。
それでも観たいという気持ちがある。人様の人生の一部をコンテンツとして消費することが醜悪であるということはある程度承知の上で、自分を正当化するための線引きをする。それが今回のねらい。
「現実」と「リアリティ」
適切な線引きをするためには、まずは「リアリティ番組」というものがどんな特徴を含んでいるかを把握したい。何が番組を「リアリティ」あるものたらしめているんだろう。
直訳すると「リアリティ」は「現実」ということになるが、本当に「リアリティ番組」は現実を映しているのだろうか?
これは、個人的にはYesでもNoでもあるように思う。
「実在する人物が織りなす実際の出来事を映している」という意味ではYesだし、「ありのままの現実を映している」という意味ではNo。
映画やドラマのようなセリフレベルの台本が無いという意味では、それらと比べて「リアリティ番組」の現実度合いは高い。一方で、ありのままの現実ではあり得ない。なぜなら「リアリティ番組に向けて人を集めている」という時点で既に、制作側の作為が入っているからだ。
ただし「番組の作為に基づいて集めた時点で現実ではない」というだけでは少し屁理屈っぽいだけな気がするので、他にも作為が入りうる部分を挙げてみる。
・番組のフォーマット
・シーズンやエピソードごとに想定される大まかなプロット
・上記のフォーマットやプロットに基づいた、出演者の選抜
・編集
・スタジオ側?の意見
正直、「リアリティ番組」に厳密な「リアリティ」を求めて、上記の要素を排したところで、冗長でつまらない映像が産み落とされてしまうだけのように思う。
多くの人が「リアリティ番組」の視聴を通じて、登場人物やその人の行動、人物同士の関係性の変化といったものに感情を動かされるのは、上記の作為によって感情に訴えかけるだけの味付けがされているからだと思う。おそらく今後も「リアリティ番組」では、上記の作為が制作上の前提となる。そこで、受け手としては作為の存在に自覚的になる必要があるように思う。
どう向き合っていくか
味付けの例えをそのまま引っ張ると、味付けが自分の好みに合わないからといって素材そのものを悪く言うのはお門違いだ。「リアリティ番組」の場合、味付け側が受け手のネガティブな感情を誘引しているということが常にあり得ている。
こういった特性を考えると、「リアリティ番組」の出演者に見える形式で誹謗中傷をするというのは、二重の意味でまずいことだ。まずはそもそも、誹謗中傷を発信すべきではない。そして、その誹謗中傷をもたらした原因が誹謗中傷される側には無い、という可能性がある。
そんな構造を抱えた「リアリティ番組」なんて無くなってしまえばいい、という意見も理解できる。それでも自分は今後も観たいという気持ちがある。ドラマや映画では観られないような、登場人物同士の関係性の微細な変化を見て、共感したり、敬意を抱いたりできるから。どの要素がドラマや映画とは違うのか、まだ言語化できていないけれど...
さまざまな作為がありえ、その裏側を正確には知り得ない以上、受け手としては映ったことを映った通りのこととして断定せずに、「自分はこう思った」と常に意見を個別化するのが健康的な向き合い方のように思う。これは「リアリティ番組」だけでなく現実の人間関係にも必要な態度だ。
メタ的な楽しみ方として、「どこに作為が入ったか」ということを想像・検証しながら見るのもありかもしれない。ただしこの場合も、得られる情報が極めて限られているので、完全にニュートラルにはなり得ないことを承知した上で、なるべくニュートラルでいようとするその不完全さすらも楽しむというのが必要そうだ。
これから始まる『バチェラー・ジャパン』の新シーズンでは、作為によって成立させられるいわゆる「悪役」的な人物も含め、敵ながらも仲間という特殊な構造ゆえに生まれる「マブ」感を愛でられたらと思う。