セクシャリティ分類とボーダーレスをシンプルに。
「FTX、ポリアモリー、パンセクです」というのが、私を表現する上で、今のところいちばんフィット感があります。
この表現で概ね間違ってはないけど、どの分類にも、究極的に一致しているわけじゃないです。
私にはFTXじゃない部分もあるし、ポリアモリーじゃない部分もあるし、パンセクじゃない部分もあります。
セクシャリティは、ひとりひとりが何かしら異なっていると思ってます。
例を挙げてみますね。
FTXという概念は、数ある分類の中でも、割と自由感があって好きです。
FTXにもいろいろあって、例えば、胸が要らないと感じる人もいれば、会う相手によって胸を調節する人もいれば、胸が気に入っている人もいます。
そう、FTXというひとつの分類の中にも、胸ひとつとっても違う感覚があるんです。
それはさらに細かく見た時には、異なるセクシャリティということになりますよね。
また、自分のことでも思いますが、その時その時の状況に応じて、限りなく男性的だったり、限りなく女性的だったりもします。
そんな状況別のバランスまで含めたら、全く同じセクシャリティの人は存在しないはずです。
それに…例えば、恋愛対象は異性なんだけど、なぜか特別にひとりだけ同性を好きになった、ということもありますよね。
現実には、そういう分類しきれないことだってあります。
「自分のセクシャリティは、私!」と言っていたFTXの人の言葉が印象的で忘れられません。
その通りだなって思いましたし、時間が経つにつれて、ますますその通りだと思います。
そう言っていた時の雰囲気も、とってもカッコよかったんです。
LGBTQのQ(クィア)にも広い意味合いがあります。
ジェンダーが中立または存在しないものとするニュートロワ、
男性と女性の両方の要素が混合した、アンドロジン。
アジェンダ―とジェンダーレスも違う意味があるらしい。
個人的には、この辺の細密な分類になると、厳密な違いを理解できるかというと言い切れません。
私はアンドロジンでもあると言えると思いますが、その割合設定も、人によって違うものみたいです。
そういう割合の違いなども含めたら、セクシャリティについてはもう、「自分以外はみな異性」だと私は思ってます。
一気にシンプルになって、私はそれが落ち着きます。
最近、認知が広まってきているポリアモリーについても、「認知が広まってきているが故の攻防」みたいなものを感じます。
ポリアモリーの定義には「パートナー以外の人と恋愛関係になることを、関わる全てのパートナーの合意を得ること」が含まれてます。
ポリアモリーの概念を、浮気に利用しているポリアモリーじゃない人がいるとかいないとか。
多重恋愛に合意があると潔くて、合意が無いとただの浮気…という感覚も私にはしっくりきません。
「比較すると、ポリアモリーが優れている」みたいな雰囲気や主張を目にすることがなんだか悲しいです。
自分のパートナーが、他の人との関係をオープンにするかしないか、またはオープンにする時期を選ぶ自由もあるんじゃないかなと思っています。
もちろん、私のこの考えが優れている、と主張したいわけじゃないです。
一定の分類の枠の中で仲間意識を必要以上に固めてしまうことに、恐ろしさを感じているんです。
もともとは、セクシャルなあり方の違いをはっきりさせて、受け入れようとして、セクシャリテイの分類をしてきたんじゃないでしょうか。
そこに優劣や、肯定・否定を持ち出すと、ボーダーをはっきりさせたい意識が生まれて、分離の方向に戻っていく気がしませんか?
セクシャリテイの分類がよくわからなくなったり、分類間でなんだかピリピリした雰囲気を感じたら、
《みんなが異性だし、どの人の考えやあり方も尊重する》
という意識でいると、あまり頭を悩ませなくていいかもしれないね、って思います。
それはまた、シンプルなボーダーレスのスタイルのひとつ、にもなるんじゃないでしょうか?
ボーダーには、あいまいさを許しておくくらいが良さそうと個人的には思っています。
もしかしたら、そのボーダーを越えることも、将来的にあるかもしれないですしね。
私は自分をパンセクと思ってますが、この先女性しか好きにならないかもしれません。
そういう意味では、あいまいさを残しておくことは、未来の自分への可能性を許すことでもありそうです。
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