自分のセクシャリティを認めるまで①-Xジェンダーであることとポリアモリー・所有の概念
私は自分のセクシャリティについて、ずっと放置してきた。
そのものが外から見えないようにフタをしたままで。
だんなと結婚することに迷いはなかったし、なんだかんだこどもも産めて、何気なく日常生活を送ってきた。
でも、私の本質のセクシャリティは、ことあるたびに意識に訴えてきた。
それを私は、小さな違和感として感じ取っていた。
セクシャリティと言うと、世間一般の興味として「同性が好きなのか/異性が好きなのか」という性的指向が中心になっているように感じるけど、セクシャリティを作る要素はそこだけじゃない。
そういうことも含めて、30代後半でやっと自分のセクシャリティがわかってきた。
37才でわかったのは、私はポリアモリーと呼ばれる分類がしっくりくること。
38才でわかったのは、自分が中性だということ。
どちらも悪いことだという認識のもとずっと生きてきたから、意識的にも無意識的にも自分を責めていた。
自分のセクシャリティを自認できたら、それを肯定し、さらなる意味で認めていく作業ができる。
自認できていないと、自分で肯定してあげることができない。
私の記録が、他の方にとっての自認に役に立てたらうれしく思う。
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私のように、どこかにセクシャルな違和感を感じながら、普通の妻・母親として生活している人たちに読んでもらえたらうれしいです。
本来の自分を見つけて、安心で安全なペースで解放に進んでいけますように。
ご自身がそう決めたら、最高で最善のタイミングで物事が進もうとしていきますよ。
乗れる流れに乗ってください。
私の例が、その勇気になれたら幸いです。
自分の性について迷走してきた私の結論↓
【私は私のセクシャリティそのものを見つけ、受け入れ、本質のセクシャリティから生まれる愛の表現をしていくことでまわりの人たちと一緒に豊かになるんだと、今ははっきりわかる】(この記事の有料部分より抜粋)
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私自身の性別の自認は、Xジェンダー。
一般的な女性が普通にできることでも、私にはできないことがあるし、一般的には男性がしたいと思うことを、私もしたいと思うことがある。
戸籍やパス度的に男性になりたいわけではなく、戸籍や体が女性であることは受け入れている。
精神的には中間を選ぶのが心地良い。
極めて男性的なことをするもの嫌だし、極めて女性的なこともしたくない。
刈り上げるのは嫌だけど、フルメイクするのも同じくらい嫌。
ここにたどり着くまでは、それすらもあやふやだった。
幼児の頃から、興味があるのは男の子向けのおもちゃや付録だった。
マンガも、コロコロ、ジャンプ、マガジン。
妹の読んでる“なかよし”や“りぼん”も読んではみるけど何かが違った。真剣に入り込めなかった。
幼稚園の時の記憶で、赤い上履きを履くのが嫌だったことをはっきり覚えている。男の子の水色が良かった。
小学生になったら、男子とよく遊んでいた。
男子と腕相撲して、ここでシェアできないような不潔な遊びもして、そういうのが楽しかった。
中学年になると、女子が女子らしさを増してきて、私との違いがより強くなった。
私の腕相撲相手の男子を好きだという子が、私がその男子と触れ合っていることが許せずに泣いてしまい、その女子の友達からも嫌われるという理解不能な展開もあった。
結局、中学生になっても私は男子と一緒の気分で遊んでいた。
高校生になったら、友達関係も大人になって、私を受け入れてくれる女子たちに恵まれた。
自然と、男子ではなく女子といるようになった。
私にかまってくれる友達は、「男の子みたいでかわいい」と言ってくれるお姉さん肌の女子が多かった。
外見も、小学生の頃から男の子っぽかった。
女らしい妹と一緒に出掛けて、私にかけられる声は「お兄ちゃん」。
私はそれが嫌じゃないどころかうれしかった。
母もわかってるから、それを訂正しなくなった。
女の子だって伝えると、相手もバツが悪くなってしまうしね。
中学生になっても女性らしい体つきにならないまま、生理が来た。
自分のことを「完全な女性ではない」とどこかで思っていたから、生理が始まってうれしいような、女性に確定したことが悲しいような複雑な気持ちだった。
生理中だと思われることも、ナプキンを持ち歩いてるのもバレたくなかった。2枚重ねておいて、さらにポケット付きの生理用パンツを使っていた。
大学生の時に初めてセックスをして、行為に違和感は無かった。女性であることに違和感は無いように感じた。
体はやっぱり女性らしくなく、胸も小さいし、ちょっと運動すると筋肉が付きやすかった。
会社に3年勤めて辞めた時、少し立ち止まる余裕ができて、自分の性別について考えることになった。
やっぱり私は男性になりたいのではないか。
体と心の性別が違う、というやつではないか。
男性として生きて、男性として働くとしたら…と考えた。
そうして、おなべバーのことを検索していた。
当時、そこで見た店員さんたちがあまりにオッサンだったことに私はひどくガッカリした。
女性が男性になったらきれいでカッコいいという期待を抱いていたけれど、ビール腹を出して無精ひげでゴロゴロしてるその画像は超残念だった。
そして、その道を考えることはなくなった。
たまたま見た画像がそうであったのは、「あなたの持っているセクシャリティとは違っているよ」というメッセージだったんだと今は思う。
潜在意識からのメッセージ。
以来、男性になろうとは思わず、男か女かの二択しか知らなかった当時の私は、女性として生きるものなんだなと感じ取った。
女性として生きるものなんだと割り切った後は、そのまま違和感なく恋愛結婚し、30才で出産もした。
感動的な出産というよりは、淡々とした出産だった。
37才で性エネルギーを使ったヒーリングに出会って、性エネルギーを使えるようになった。
そこから私の性のブロック解放が急速に展開した。
付き合う人たちが変わった。オープンな関係の中で、普段思っていることを話したら、「あなたはポリアモリーじゃないか?」と指摘された。
もちろん、肯定的に。
ポリアモリーという言葉も概念もそこで初めて知った。
私は、好きな人が何人もいることがある。こどもの時からそうだった。
だからと言って、遊び心ではない。
いちいち本気になる。
ひとりとしか付き合ってはいけない前提が(私の中に)ある以上、私は何人にもに対する自分の中の「好き」という気持ちを殺してきた。
そうして、自分の気持ちを唯一殺さずに選び抜かれることになったのが、だんなということになる。
彼のあり方が好きだし、結婚生活の中でいろいろあっても、現在もいい感じの「好き」でいる。
ここから独特な世界に入るのだけれど、私は所有の概念も薄くて、だんなが他の人を好きになってもいいと思っている。
それはだんなのことを嫌いだからではない。
自分が他の人のことも好きになる気持ちの罪悪感を薄めるためでもない。
それが私の愛の概念として自然なことであって、それだけのこと。
他の意味は入ってこない。
だんなの性を独占しようとも思わない。
仮に、だんなと他の女性との間にこどもが生まれたとしても、その子が存在することがうれしい。会いたいし、かまいたい(笑)
これからそういうことがあるかもと想像してみることは、ワクワクする。
契約やお金の概念など、作り上げてきた様々な制約があるからそう簡単に思い通りに進むことはないかもしれない。
(特に制約の強い日本に生まれたことは変えられないが、それすら超えて時代ごとひっくり返ろうとしている流れを感じている)
でも、一度それらの概念を取っ払って、純粋な自分の愛の概念を見てみることは、本来の自分を発見することにつながる。
最近の過剰な不倫報道も、不倫をした方が加害者・された方が被害者という配役にされている。
「うちのパートナーは素敵なんで、当然と思います」って、笑い飛ばしてくれる人が現れたとしたら、素敵なパートナーシップだと思う。
ポリアモリー的思考。
ポリアモリーということは、私にとっては恐れることなく簡単に公表できること。
次の記事では、私のセクシャルの中でいちばんカミングアウトしにくいことを書くつもりです。
追記①:化粧品は控えめに使うけど、使ってるところは絶対に見せたくない。外出しててテカッてくるのが気になっても、人の目に触れるところで何かするのは無理。トイレの個室じゃないとダメだ。結局、化粧品は持ち歩かないけど。
薬局にコンドームと眉毛の色変えるやつ買いに行った時の話。コンドームはサクッと買えるけど、眉用マスカラという名前もわからなかったし、自力で探してる時になかなか見つけられなくて、そんな時に知り合いが通りかかったりしないだろうかって顔は赤くなるしリアルに汗もかいた。
追記②:女性的なことに苦手意識があるのは、幼少期に作られた思い込みのせい、という説。
それを修正すれば、女性として不足しているものが戻ってきて、女性らしくできて、もっと豊かな人生になる、という理論。
自己啓発に行くと、どの先生からも、女性らしくすると良いというアドバイスをもらった。
他の点に関する修正は変化が出て、成長できた実感も得られている。
でも、性別に関する修正だけは、いろんな角度から取り組んでもどうしても変わらなかった。
ざわつきながらマツエクしたこともあるけど、罰ゲームのようで居心地が悪かった。
女性的なことをいろいろやってみた結論。
「女性として何かが不足している・欠如しているわけではない。むしろ男性要素を抑えつけている苦しみがあった。」
「女性らしさを高めて豊かになりたいわけではない」
私は私のセクシャリティそのものを見つけ、受け入れ、本質のセクシャリティから生まれる愛の表現をしていくことでまわりの人たちと一緒に豊かになるんだと、今ははっきりわかる。
追加③:もし、人生の岐路で検索したおなべバーに、ステキな男性像を見ていたら。
そして、男性ホルモンを使うことで、男性器が生えてくるものならば、私は男性として生きたいと思って、そうしていたんじゃないかと、年々現実味を増して思う。
男性の体になれないという現実にすねている結果、女性の体を受け入れて生きてるのかもしれない。
まさに、タラレバの条件付きの話だけど。
このへんは、2023年現在も、自分自身の性について行ったり来たりしながら揺れてるところ。
かと言って、今の私は、女性として性的に感じること、その姿を見せることにも全く抵抗がない。
それが私。
だからXジェンダーではあると思う。
でも、XジェンダーだとかFTMだとかが、探し求める最終的な答えじゃないよね。
私は私。
何を喜んで、何を表現したいのか。
何をしたくないのか。
探し続けるのはそっち。それを探し続ければいい。
この記事で詢川 華子さんのnote企画に参加します。
締め切り日前日の夜に見つけました。すべりこみバンジー!