見出し画像

助けられる、救われる。不作為への変換に救われる。

Zoomを開いている。待機だ。講座はまだ始まっていない。

ピアノをメインとしたBGMが流れている。心地よい。言葉のない曲だ。一定のリズムを繰り返している。

音楽に救われることがよくある、気がする。

手放しがたい思考を少し離してくれる時もあるし、音楽から困難の捉え方を学ぶこともある。

私は今、「救われる」ということについて考えたい。

言葉のニュアンスだが、「救われる」というのはすべて自分に起因することなく立ち直るという印象がある。自分の力もそこにあるとき「助けられる」という言葉の方がより適切なのではないかと思っている。

本当に私は音楽に救われているのだろうか。本当は、音楽に救われるのではなく、今までの自分の歩みにより感受性が育ち、たまたま音楽と出会い、勝手に汲み取って自分で立ち上がっているのではないかと思う。

だから「音楽に救われる」と言うよりも、「音楽に助けられる」と言う方が適切なのではないかと思うのである。

しかしこのままだと、落ち込んだ時、自分の力も用いなければならないことになる。これはきついことではないですか?なんの力も湧かないときに自分も何かしなければならないと自覚することは。

これが自分の楽な姿勢だと思える体勢になりたい。「助けられる」という言葉が主にあるとき、その体勢を「とる」ことになり作為的である。

しかし「救われる」世界線にあれば、不作為でその体勢に「なる」ことができる。作為が不作為に変わり楽になる。

また、「救われる」というのはより依存的だ。感謝の文脈に出てきたとき、ありがとうの度合いが「助けられる」と言う時より大きくなる。今日は深堀りしないが、感謝は自分まで笑顔にすると思っている。救われたと思い感謝することでなお救われる。すごい。



結論、「助けられる」という言葉を使う方が現実に即しているが、「救われる」と言える姿勢の方が楽になれるし、さらに恩恵までついてくるということになった。
現実を正確に記述することだけがいつも善いわけではない、と思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?