エルトゥールル号遭難事件まとめ

◆エルトゥールル号遭難事件を簡単にいうと

”世界一の親日国”と言われるトルコ共和国。
現在も助け合いの友情が続く、魅惑の国トルコと日本の関係ですが、この関係が始まったのはなぜでしょう。

彼らが”日本人ダイスキ!”と言ってくれる事には理由があります。
それは1890年に起こった「エルトゥールル号遭難事件」が始まりでした。

◆それは1890年9月16日 嵐の夜に起こりました

いつもは静かな海も、台風で大荒れだった夜のこと…。
灯台守は何も起こらないことを願いながら、いつものように日誌を書いていた。

そこへ突然、今にも倒れそうな血だらけの外国人が助けを求め転がりこんできたのです!
いきなりの出来事に驚きながらも、前夜末の暴風雨から付近で難破したことを察し、真夜中の町に協力を要請した。

言葉が通じない彼に万国信号書を出し片言ながらもどこから来たのか?と問いかけると、彼は震える指でトルコの位置を指差した。
難破したのはトルコの軍艦エルトゥールル号であった。

要請を受け駆けつけた町民達が目にしたのは、海岸に溢れる多くの遭難者の姿…。
見たこともない外国人に戸惑いながらも、町民総出の救出活動を行い、69名の命を救うことができた。

町人たちは食糧もままならない中で自分達の蓄えである食糧を遭難者に与え、あり合わせの着物を着せ懸命に介護にあたった。総勢587名の犠牲者を出したこの大きな事件は、翌朝、樫野の区長から大島村長に伝えられ、村長は神戸港の外国領事館に援助を求めて生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配するとともに、県を通じて日本政府に通報した。

知らせを聞いた明治天皇は、政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。亡くなった人達は丁寧に葬られ、そして翌年の1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブルに無事生存者全員送り届けられたのである。この事件は後にエルトゥールル号事件と呼ばれ、帰国したトルコ人によってトルコ全土に伝えられた。この事件をきっかけに日本とトルコ、和歌山県とトルコの友好関係が始まったのです。

◆エルトゥールル号遭難事件が絵本化

この時の事を後世に伝える為には、子供の頃から知って欲しい!と考え、2018年に私本田と妻の小百合で絵本制作がスタートしました。
この絵本はネットでも買えますし、Youtubeでも朗読付き動画をご覧頂けます。
https://www.youtube.com/watch?v=rJ6sdL8YI0I

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◆そして時は流れ95年後

1980年9月22日イラン・イラク戦争勃発。
戦争な長く続き、1985年3月17日にイラクのフセイン大統領(当時)は突如「48時間後以降にイラン上空を飛ぶ飛行機を全て撃墜する」と声明を発表。

実はその時・・・、各国在イラン外国人達は様々な方法で避難を開始するも、未だ国内には日本人200名以上が取り残されていた。
助けを呼ぶも当時の自衛隊は人道的救援も含めて海外への航空機派遣を想定しておらず、また日本ーイラン間の長距離運行ができる機体も配備しておらず、民間機に救援を要請するも、安全上の問題があり救援は出せないとの返答、在イラン日本大使館は各国に支援要請を送るも、どの国も自国民の救援で手一杯、とても日本人を助ける程の余裕はなく、取り残された日本人達は絶体絶命の窮地に追い込まれる。

しかし、最後の最後で当時の野村大使が親交のあったイスメット・ビルセル在イラン・トルコ特命全権大使に救援を要請したところ、なんとトルコ政府が救援機を用意、215名の日本人が脱出する事となる。
この時、なんとタイムリミットの1時間15分前だった。

また、その裏ではトルコは自国民よりも日本人の救出を最優先し、この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は陸路自動車でイランを脱出する事となる。

この時、日本では「なぜトルコが!?」と理由が分からず大きな話題となる中、当時の駐日トルコ大使はこう語る「エルトゥールル号の恩を返しただけです」と。

エルトゥールル号遭難事件からイラン・イラク戦争までの事が両国合作の映画化!!
涙の超大作です、ぜひご覧下さい。
日本・トルコ合作映画「海難1890」

ここまでの流れをもっと詳細に知りたい場合はWIKIをご参照下さい。
WIKIPEDIA

◆そして現在も続く友好の物語

現在では互いに地震や災害時に真っ先に救助にでかけたり、互いに文化交流を積極的に行ったり、現在でも友好関係は続いています。
この関係の原点となったのが”エルトゥールル号遭難事件”なのです。

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