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5.エホバの証人の教理の考察⑮~主の晩餐(記念式)の歴史的側面

エホバの証人の年中行事で一番重要なのは、「主の記念式」です。「主の晩餐」ともいい、形式は違えど多くのキリスト教に共通する重要イベントです。カトリックのミサやプロテスタントの聖餐式など各派様々な呼び方があり、意味や頻度なども違いがあります。今回のnoteでは(エホバの証人も含めて)その意義や教義の問題には深く立ち入りません

ここで扱う問題は、その歴史的背景(時間的問題)と、福音書の日付問題についてです。エホバの証人は、「主の晩餐は年に一度、ユダヤ暦のニサンの月の14日過越の食事の晩に祝う」としていますが、これが歴史的、福音書の記録的に「正しい」と言えるのかを考えます。この点を扱う理由は、エホバの証人が「聖書が書かれた時代の信仰形態に従っている」としているからです。

もちろん、歴史解釈すら多様なものがあるので、目指すのは蓋然性の高い結論に過ぎません。(逆に言えば、絶対的な古代史はわからない)。また、今回は、エホバの証人の「記念式」や福音書についてのある程度の知識を前提にして書いております。


1.一世紀の過越しはどんなものだったか

まず、「過越」という出来事について、出エジプト記に以下のように書かれています。

あなたはそれを、この月の十四日まで取り分けておき、夕暮れにイスラエルの会衆は皆集まってそれを屠る。そして、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。その夜のうちに肉を火で焼き、種なしパンに苦菜を添えて食べる。

日本聖書協会「聖書協会共同訳」出エジプト12:6-8

この物語は、アビブ(後のニサン)14日の「夕暮れ」に犠牲をささげて、血を戸口に塗ると、神のみ使いの攻撃がイスラエル人に対しては「過ぎ越され」、その後、日が暮れた15日の食事(後に「過越の食事」として記憶される)後にエジプトを出たという話です。過越祭は、この「大いなる救出」を記念する祭りです。

この旧約聖書の記述は(定説では)、「過越の犠牲は14日夕」、「食事は15日」とされますが、日数の数え方の問題や出エジプト記の成立過程の問題など色々と議論はつきません。ただここで一番重要なのは旧約聖書を書いた「人(達)」がどう考えていたかではなく、イエスの生きた1世紀にはどうだったのか(どう解釈されていたのか)ということです。

先ほど引用した、出エジプト記の「夕暮れ」という言葉の(イエスの時代に近い)パリサイ派の伝統的解釈では、「午後三時頃から日没」(「出エジプト記」関根正雄p142)とのことですから、イエスの頃も「犠牲」は14日で、「食事」は15日と理解されていたと思われます。

こんな風に解説している論文がありました。(もっともオーソドックスな説明)。

イエスの時代、ユダヤ人による過越の記念は,2段階で行われていた。
①第1段階は、小羊の屠殺から成り、これはニサンの月の14日の午後(日没前)、エルサレムの神殿で行われた。
②第2段階はニサンの月の14日に続く夜、過越の晩餐のとき、家族ごとに生贄を食べることであった。
なお古代における日付の考え方では、夕方、日没とともに新しい一日が始まる。したがって。ユダヤ教における過越の祭はニサンの月の15日に行われる晩餐(セデル)をもって始まるということになる(吉見1997:95)。

秋山学「『14日派』に学ぶ」文藝言語研究 文藝篇71 2017 (太字筆者)

また、この「過越」とその後に続く「除酵祭」(無酵母パンの祭)は、元来明確に区別されなかったようですが、所謂「中間時代」(聖書に載っていないマラキ以降の時代~イエス以前)に、「過越の祭りの生け贄および祭り自体と、種を入れないパンの祭りとの区別化が進んだ」(「中間時代のユダヤ世界」ジュリアス・スコット)とも言われます。

聖書学者のE.P.サンダースは、70年の神殿崩壊以前の「過越祭」りについて以下のように解説しています。

現代の多くのキリスト教学者たちは、「過越祭」とは厳密にはニサン月一五日の食事に当てはまるものであり、それ故にニサン月一四日は過越祭の前日である、と考えている。(資料略)これは時代錯誤的であり、旧約聖書に始まる古代の証拠にまったく反している。そこでは、過越祭は一四日目であると述べられている(出エジプト記一二6、レビ記二三5)。
七〇年以前のユダヤ教では「過越祭」とは厳密には動物であり、過越祭の日とはその動物が犠牲に献げられる日であった(資料略)。その食事は除酵祭の一日目即ちニサン月一五日に催された。ところが神殿破壊以降、ユダヤ教の慣習における過越祭はその食事を指して言うようになったのであり、七〇年以後のこうしたユダヤ教の展開が、現代の学者たちによって与えられている時代錯誤的な日付の説明となる。

E.P.サンダース「イエスーその歴史的実像に迫る」p440(太字筆者)

つまり、現在の神殿がないユダヤ教にいたる歴史の中では、ニサン15日の食事が一番重要になり、それが「過越祭」と言われているため、イエスの時代を考える際にも、このあたりを混同している学者は多いということです。確かに、言葉上の問題ではありますが、日本の参考書でもそのように書いているものは多いです。そのため、複数の参考をを比較すると、ますますわからないということにもなります。

まとめますと、基本的に1世紀当時の歴史的な状況はどうなのかという点が重要であり、ニサン14日の犠牲(過越祭)、ニサン15日の過越の食事(除酵祭初日)というのが歴史的事実のようです。


2.主の晩餐の初期形態

では、キリスト教時代に始まる「主の晩餐」はどうでしょうか。以下で述べることは、あくまで大まかなイメージであり、福音書や1~2世紀の記録から分かることをまとめています。

ユダヤ教の歴史や、1世紀のキリスト教の研究からすると、もともと主の晩餐は通常の食事と一体化したものだったようなのですが、だんだんと「親睦の食事」(愛餐)と特別な主の晩餐(儀式)が分離されていったというのが実状とされます。いずれにしても最初は共同体の助け合いを含めた親睦の食事に、イエスの言われた言葉を思い出すイベントが融合していたということのようです。ユダ12節にそれが「愛餐」と表現されていますが、その部分の聖書協会共同訳聖書のスタディー版脚注には「初期のキリスト者は愛餐の食事の一部として主の晩餐を分かち合った」と解説しています。

また、村山盛葦氏の論文からも引用しておきます。

現代の教会生活に馴染んでいる者は、聖餐、食事、礼拝を一連の活動として捉えることに違和感を覚えるであろう。これについて留意点が二つある。ひとつは、初期キリスト教において聖餐と食事(愛餐)は区別されていなかったことである。パウロが伝える聖餐の制定の言葉にあるように(1コリ11:23-25)、パンの聖別→食事→杯の聖別という流れがあり、食事と聖餐は一体であった。信者以外は聖餐に与れないことを明言する「ディダケー」(9-10)(1世紀末~2世紀初め)においても、なお聖餐と愛餐は区別されていなかった。イグナティオス書簡(2世紀初め)においてもその区別は未分化であった(「スミルナのキリスト者へ」7-8)。区別が明確になったのは、殉教者ユスティノスの時代(2世紀前半)になってからと思われる(『第一弁明』66.167.1)。

村山盛葦「コリント教会の聖餐と饗宴」(基督教研究75)2013(太字筆者)

上記の部分では、主の晩餐の初期の形式についてコリント第一11章が挙げられていましたので、新世界訳から引用しておきます。(「表しています」の訳の是非についてはここでは触れない)。聖書学的には、福音書より古い主の晩餐についての最古の記録とされます。

主イエスは、裏切られようとしていた夜、パンを取り、 24 感謝の祈りをしてからそれを割り、こう言いました。「これはあなたたちのための私の体を表しています。このことを行っていき、私のことを思い起こしなさい」。 25 食事が済んでから、杯についても同じようにして、こう言いました。「この杯は私の血による新しい契約を表しています。それを飲むたびに、このことを行い、私のことを思い起こしなさい」。 26 皆さんは、このパンを食べ、この杯から飲むたびに、主の死を広く知らせるのであり、主が来るまでそれを続けるのです。

ものみの塔聖書冊子協会「新世界訳2019」コリント第一 11:23-26(太字筆者)

この聖句をそのまま読むだけでも、「パンの聖別→食事→杯の聖別」という順番だったことは明らかです。頻度についても、そのまま読むなら不定期かつ頻繁と読めます。

まとめますと、初期クリスチャンたちは、①「食事会(愛餐)」+「主の晩餐」という形式で、②年に複数回行っていたということになります。対して、エホバの証人は、上記で考えた初期クリスチャンたちの「主の晩餐」とはいずれも違った解釈をしています。①「主の晩餐と愛餐(食事会)は違うもの」であり、②「年に一度行うべき」というものです。

まず、以上の聖句そのものを推論して、各個人が考えてみる必要があります。(これが絶対正しいと言っているわけではありませんので)。


3.エホバの証人の聖書翻訳の問題

同時に、関係する聖句の翻訳の問題も大きいのです。「主の晩餐」に関係した以下の2つの聖句を考えます。

■ユダ12節の「愛餐」

例えば、前述のユダ12節の「愛餐」という言葉を、新世界訳2019では「食事の席」と訳しています。(新共同訳も「親睦の食事」)。つまり、「普通感」を強調して訳しています。

田川建三はこういう翻訳を批判し、「愛餐」と「主の晩餐」を意図的に分けようとする教会のドグマ的翻訳と批判しています。(ユダ註p409)。(最新の聖書協会共同訳では改善され「愛餐」となりました)。

■コリント第一11章のパウロの言葉

上記で引用した、コリント第一11章23-26節の主の晩餐についてのパウロの言葉の直前21,22節をエホバの証人はこのように翻訳します。

21 自分の食事を先に済ませていて、主の晩餐の時には酔っている人もいれば、一方で空腹の人もいるからです。 22 皆さんには食べたり飲んだりするための家がないのですか

ものみの塔聖書冊子協会「新世界訳2019」コリント第一 11:21,22(太字筆者)

エホバの証人は、この聖句を根拠に、「食事を済ませている」のだから「主の晩餐」は食事ではないと説明します。ただ、エホバの証人の説明には出版物によって差異があり、「家で過食して参加」と解釈する資料と、「持ち寄りの弊害」の両方があります。どの場合も共通するのは、「主の晩餐」は食事の席ではないという解釈です。

しかし、冒頭の「自分の食事を先に済ませていて」という翻訳に問題があり、文全体もおかしくなっています。「先に家で」とギリギリ解釈できる意訳にすることで、主の晩餐は通常の食事とは別だと主張したいのだと思われますが、他の翻訳と比べると明らかに意味が違います。

同じ部分(21節)を他の翻訳と比べてみます。

21 食事のとき、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。

日本聖書協会「聖書協会共同訳」(太字筆者)

21 すなわちそれぞれが食べる時に自分の晩餐をとっている。だから、腹がへっているものがいるかと思うと、酔っているものもいる。

田川建三訳(太字筆者)

田川訳の註では、原文のギリシャ語には「前もって」(あるいは「先に」)という「時間的」意味はないと述べています。つまり、「主の晩餐に来る前に家で食べる」というニュアンスは原文にはないということです。(もちろん、そういう人が実際にいたかどうかは別の問題)。

つまり、この部分のギリシャ語本文の意味は、みんなが集まった会場での「食事の時」という場面設定の言葉なのです。パウロがここで警告しているのは、主の晩餐(つまり食事会)の時に、(特に富裕者が)持参した(豪華な?)食事を他者や貧者に配慮もせずに「がっつく」行為についてなのです。それゆえに、「他者に配慮できないみっともない貪欲な食べ方をするぐらいなら、家で食べなさい!」という風につながるのです。

ちなみにパウロは、その後の29-32節で、『主の晩餐を不敬に扱った結果、既に病気や死という「罰が」及んでいる』と警告しています。この点について、柏井忠夫氏は「当時の人々の極めて通俗的な考え方」(「新約聖書の聖餐論 : コリント人への第一の手紙11章23-34の釈義」1966)と述べていますし、田川訳の註では、「祟りががある」という前近代的な脅しであると説明しています。

しかし、この部分でも、エホバの証人はそのような印象を与えないため、翻訳をできるだけマイルドにしています。エホバの証人は31節「有罪とされることはないでしょう」と未来形に訳しています。(乱暴に言い換えると「そんなことをしていると罰が当たるぞ」という未来形)。しかし、原文の意味は「条件法(仮定法)」(何々していれば、~なかっただろうに)であり、「裁かれることはなかったでしょう」(聖書協会共同訳)、「裁かれなかっただろうに」(田川訳)という訳が正確のようです。つまり、パウロは、もう「病気や死というバチが当たっている」と、極めて厳しく現在や過去のことを述べているのです。それゆえに、「通俗的」「前近代的」と学者達に評されているということです。

さて、このように調べて見ると、明らかに当時は「共同の食事(愛餐)」と「主の晩餐」は明確には分かれておらず、それゆえに「食べ方」(マナー)の問題も発生したことがわかります。エホバの証人の解釈や翻訳はかなり無理があるものです。


4.エホバの証人の根本的な誤解

エホバの証人は「主の晩餐」を年に一度祝うわけですが、ここに最も大きな誤解がある気がします。つまり、最も根本的な問題は「主の晩餐を祝う頻度」にあると考えます。なぜ誤解するに至ったかを考えて見ます。

この点で、エホバの証人が様々な学者の学説を引用する場合の方法から分かることがあります。(いずれもニサン14日記念式を擁護するための引用)

歴史家ヨハン・ロレンス・フォン・モスハイムは、2世紀の小アジアのクリスチャンに関して、イエスの死の記念式を「ユダヤの第一の月[ニサン]の14日に」執り行なうのが習慣だった、と記しています。後代になって、キリスト教世界において年に一度より多い頻度で執り行なうことが通例となりました。

ものみの塔03 1/1 31ページ 読者からの質問(太字筆者)

実は、この部分に既に誤解があります。この歴史家が述べていることは、既に本考で述べたように事実です。しかし、これはあくまで「復活祭」について述べたものです。さらに、引用の方法で問題なのは、「イエスの死の記念式を」という主語を勝手に与えていることです。本来は「復活祭を」と補うべきところです。さらに、「後代になって・・」以降の部分は、学者の発言ではなく、エホバの証人の見解を述べたものですが、文が続いているので、学者の見解とも誤解されます。同様のことが、別の記事にもあります。

ある参考資料には,こう記されています。「小アジアのそのクリスチャンたちは,クオートデシマン[十四日教徒]と呼ばれた。いつもきまってニサン14日に過越祭<パスカ>[主の晩さん]を祝ったからであった。……その日は金曜日のこともあり,他のどれかの曜日になることもある」。―「新シャフ-ヘルツォーク宗教知識百科事典」,第4巻,44ページ。
歴史家J・L・フォン・モスハイムは,西暦2世紀の慣習について注解し,クオートデシマンが記念式をニサン14日に守り行なったのは,「キリストの事例には律法のような力があると考えた」からである,と述べています。

ものみの塔03 2/15 14ページ 11節(太字筆者)

ここでは二つの参考文献が引用されています。(一つは前掲のモスハイム再登場)。問題は今回も同じで、一つ目に対しては文中に括弧書きで「主の晩餐」と補っていることと、二つ目には「記念式を」と主語を勝手に付けていることです。これらの資料はどちらも「復活祭」についての解説です。歴史的に初期クリスチャンたちはユダヤの祝日を継承して祝いました。(J.ダニエルー「キリスト教史1」p179)。故に、「過越祭」はギリシャ語でパスカと呼ばれましたが、継承した「復活祭」も本来はパスカと呼ばれていたのです。それを勝手に「記念式」(主の晩餐)に置き換えては、まったく違う話になります。

ちなみに、エホバの証人が好んで取り上げる「14日派」(十四日教徒)ですが、彼らがこだわっていたのは、あくまでも「神殿で犠牲が捧げられる日であるニサン14日」です。「ユダヤ教徒たちが小羊の屠殺を行っている間,自分たちだけの集会を開き,断食をしていた」(前掲:秋山学2017)と言われます。(つまり、晩餐ではない)。14日派を始め、小アジアのクリスチャンは、使徒ヨハネの伝統を守っていたと言われ、教父ポリュカルポスも14日を主張したことは有名です。しかしこれも「主の晩餐」ではなく、「復活祭」(原義は「過越」)をいつ祝うかの論争でした。結果として、ローマ側は14日直後の日曜を選択し、紆余曲折あって今に至ります。(これは、亡くなった日が重要なのか、復活の日が重要なのかという論争でもあり、日付の論争は現在でも続いている)。

違いがわかっていて引用しているなら、悪質なことですが、善意に解釈するなら、エホバの証人の執筆者たちはこれらが「主の晩餐」のことだとすっかり「思い込んでいる」のだとも言えます。しかし、本来各資料をしっかり読んでいれば、自分たちの信条とは異なることがわかるはずなので、やはり批判は免れられません。(ちなみに引用があまりに古い資料。モスハイムは18世紀。「新シャフ・・」は20世紀初頭。これも問題)。

この「誤解」や「混同」が発生する理由は、エホバの証人が「復活祭」を「異教の風習だ」として、考慮に入れないからです。しかし、歴史的に言えばエホバの証人の言う「記念式」はどちらかと言えば、「復活祭」に近いものなのです。(それゆえに、「復活祭」の資料を間違って引用している)。本来日常で祝う「主の晩餐」を認めず、「復活祭」も認めない結果、初期クリスチャンの習慣から一番離れた「記念式」というものを祝うことになっています。これは皮肉なことです。「復活祭」は聖書に出てこない!とエホバの証人は考えますが、初期クリスチャンにとってそれは「過越」(パスカ)でした。

正直に言えば、私はエホバの証人として育ったので、この考え方を受け入れにくいのです。(「復活祭」は発想外にあったので)。しかし、虚心坦懐に聖書を読むだけでもこの考え方が自然だと思えるようになりました。

冒頭でも申しあげましたとおり、ここで論じているのはどの宗派の教えが正しいかということではありませんそうではなく、1世紀がどうだったのかという話です。したがって、今日の多くのキリスト教会が言うように「1世紀はそうだったけれども、伝統的に今ではこう決まっている」という主張なら、むしろ何も言うことはありません。(歴史の本質と聖書主義の弊害は既に論じてきました)。しかし、エホバの証人は、「1世紀と同じ」と主張するところが問題なのです。

エホバの証人の信じていることの中には、このような多くの誤解や混同(意味の入れ替わり)があります。次に考える福音書の日付問題についても同じです。


5.福音書の記述の相違(最後の晩餐はいつか)

これは古代から良く知られていることですが、そもそも、イエスの死の日付自体、福音書によって異なります。マタイ、マルコ、ルカはニサン15日(過越の食事の日)とし、ヨハネだけが14日(過越祭の日)としています。

これについては、エホバの証人を始め保守的なキリスト教では、聖書は不謬という信条から、矛盾はないと考えます。また、聖書学者の間でも引き続き色々な議論が続いていますから、ここでまとめていることも絶対ではありません。ただ、歴史的な状況証拠も併せて考えると、あまり強引な解釈が入り込む余地はないと思われますので、とりあえずは「矛盾があると思われる」ということで進めます。

■共観福音書の記述

まず、共観福音書を代表してマルコでの記述は以下の通りです。

12 無酵母パンの最初の日、慣例として過ぎ越しの犠牲を捧げる日に、弟子たちがイエスに言った。「過ぎ越しの食事を、どこに行って準備したらいいでしょうか」。・・17  夕方になってから、イエスは12人と共に来た。

ものみの塔聖書冊子協会「新世界訳2019」マルコ 14章(太字筆者)

ここでは、犠牲を捧げる過越(祭)の日(ニサン14日)に既になっていて、その晩(ニサン15日)の「過越の食事」をこれから準備しようとしていることは明らかです。そして「夕方に入ってから」とあるので、「過越しの食事」とイエスの捕縛は日付が変わったニサン15日ということになります。これは単純に伝統的な「過越しの祭り」~「過越の食事」という順をそのまま記録したものです。共観福音書は、「過越の食事」と「主の晩餐」を一致させているわけですが、その神学的な意図はここでは論じません。

しかし、エホバの証人はそれを認めず、こう説明します。

12-16節で描かれている事はニサン13日の午後に起きたと思われる。それは過ぎ越しの準備で、「夕方になってから」つまりニサン14日が始まってから過ぎ越しが祝われた。(マル 14:17,18)

ものみの塔聖書冊子協会「新世界訳スタディー版」 マルコ14章 注釈

ここではなぜか、「過越の犠牲を捧げる日」がニサン13日とされます。しかし、犠牲は当然14日に捧げられることは確かなので、これはまったく歴史的にも無理な解釈です。これもユダヤの習慣を正しく理解していないことから来ています。共観福音書は明らかに「ニサン15日晩餐+死亡説」を採用しているのです。

■ヨハネ福音書の記述

一方のヨハネ福音書にも、時間軸を把握する上で重要な聖句があります。これはイエスが逮捕された後の記述です。

そこで彼らはイエスをカヤファのところから総督の官邸に引いて行った。それはもう早朝であった。しかし彼ら自身は総督の官邸内に入らなかった。身を汚さずに過ぎ越しの食事をしようとしてであった。

ものみの塔聖書冊子協会「新世界訳2019」ヨハネ 18:28(太字筆者)

ヨハネは、イエス捕縛後の段階(早朝)でまだ「過越の食事」(ニサン15日)はしていないと書いています。つまりヨハネはそのまま読めばイエスの捕縛がニサン14日であるとしていることになります。これは、ヨハネがイエスの最後の晩餐を決して「過越の食事」と呼んでいないことからもわかります。つまり、イエスは最後の「過越の食事」を食べずに(普通の晩餐で別れの言葉を告げて)亡くなったということになります。

もちろん、そうなると共観福音書とは一日ずれるので、ヨハネの記述はもっとも論争が多いと言えます。この聖句についての、エホバの証人の説明は以下の通りです。

身を汚すことに関する問題があったため、次のような記述が残されています。「彼ら自身は総督の官邸内に入らなかった。身を汚さずに過ぎ越しの食事をしようとしてであった」。(ヨハ 18:28)それらのユダヤ人は、異邦人の住まいに入るのは身を汚すことであると考えました。(使徒 10:28)しかし、ここに述べられているのは「早朝」の出来事ですから、過ぎ越しの食事が行なわれた後でした。注目すべき点として、この当時は過ぎ越しの日とその後の無酵母パンの祭りを含む全期間が「過ぎ越し」と呼ばれることがありました。この事実に照らして、アルフレッド・エダーシェイムは次のような説明を行なっています。すなわち、過ぎ越しの日には自発的な平和の捧げ物がささげられ、翌日、つまり無酵母パンの祭りの最初の日であるニサン15日には、義務として課された別の捧げ物がささげられた。もしピラトの裁きの広間で身を汚してしまうなら食べることはできなくなるとユダヤ人が恐れたのは、この第2の捧げ物のことであった、という説明です。―「神殿」、1874年,186,187ページ。

洞察-1巻 1255ページ 「過ぎ越し」(太字一部筆者)

エホバの証人の上記説明では、無酵母パンの祭り(除酵祭)全てを「過ぎ越し」と呼ぶので、その間の食事は「過越の食事」だと言います。さらにアルフレッド・エダーシェイムの引用があり、「ニサン15日にも二番目の犠牲がある」という説明を根拠に、ユダヤ人たちが述べた「過越の食事」はそれであるので、福音書間の矛盾はないと説明します。

ただここでもやはり違和感があるのは、そのアルフレッド・エダーシェイム(Alfred Edersheim)の引用です。(エダーシェイムは19世紀の神学者。キリスト教に改宗したユダヤ人)。引用されている「神殿」(Temple―Its Ministry and Services)を読んでみたのですが、この人はエホバの証人とは違い、あくまでイエスの死も「過越の食事」も15日だと言っています。(なのでエホバの証人と常に1日ずれる)。彼は、ヨハネ福音書と共観福音書の間には矛盾はないと前提しつつ、「15日始め(夜)に既に過越の食事は済んでいるが、15日(日中)にももう一度犠牲が捧げられるので、16日始め(夜)?にも大事な食事がある」と説明しているのです。彼の説明は、エホバの証人の教えとは基本的に違うのであり、14日説はあり合えないと繰り返し他の章でも述べています。

結局エホバの証人は、「いいとこ取り」をしているのです。しかもここでは、括弧での直接引用ではなく、間接的な引用です。今回の引用は、誤解しているというより、意図的に特定の部分が「欲しかった」としか思えないものであり、これはルール違反でしょう。

念のため、以下にエダーシェイムの「神殿」の原文のアドレスを貼っておきます。私の英語力はかなり怪しいので、英語が堪能な方は是非直接お読みください。("Christian Classics Ethereal Library"。米カルバン大学の古典的なキリスト教名著が読めるライブラリサイト)。

■蓋然性のある結論

ここまでの情報をまとめると、下記「図1」のようになります。(繰り返しますが、「そのまま読めば」の話)。

図1 歴史上の過越と、福音書の記述

図1のように、1世紀の過越の祭の過程(日程)は明らかですが、イエスがどの時点で亡くなったかは、共観福音書とヨハネ福音書では違いがありました。(これは聖書学でのあくまで定説)。

では学問的にはどちらが正しい(と思われる)のかという話ですが、近年指摘され定説になりつつあるのは、ヨハネ福音書の記述が具体性があり史実に近いのではと言われています。その場合(図1のように)ニサン14日に「通常の夕食」~「イエスの刑死」ということになります。ヨハネが、ニサン14日に神殿で屠られる子羊をイエスに投影していると見るかどうかは諸説あります。

ただ、単純に考えると、過越の時期の犯罪者の処刑には非常に気を遣ったはずです。各地から人が集まり、「聖地にローマ軍が駐屯している」という状況を考えれば、当然のことでもあります。実際にユダヤの暴動が起きているのもそういう時期です。そう考えるとヨハネが記録するように、イエスの処刑が、過越の重要な食事の日(15日)を避けて、ギリギリ過越祭(14日)とされたのも現実味があります。(前述のように「汚れたくない」とユダヤ人が言っていることも含めて)。その意味でも、ヨハネの提供する記録には蓋然性があると言えそうです。

エホバの証人が、「過越の食事がニサン14日」と信じていることについて言えば、それはやはり無理がある解釈だと言えます。14日を主張する場合は、「過越の食事」を「捨てる」(ヨハネのように14日の普通の晩餐とする)しかないのです。

エホバの証人の場合の問題は、共観福音書かヨハネ福音書かなどの問題以前に、1世紀の「過越祭」や本来の「過越の食事」についての誤った見解にあると言えます。結果として上の図のように、最も福音書の記述や歴史的な背景に一致しないという結果になってしまっています。歴史的に一致すると思われるのは、「イエスの死が14日だった」(だろう)ということだけです。


6.では「史実」のイエスはいつ亡くなったのか?

日付という意味であれば、前述の通りニサン14日か15日ということになりますが、何年何月何日ということになると、非常な困難が伴います。結論から言えばわからないということのようです。

以下、今回主要な参考書にしたE.P.サンダースの「イエスーその歴史的実像に迫る」(教文館)に依拠してまとめて見ます。(以下「イエス」と略)。

まず、ユダヤの太陰暦(月の満ち欠け)による前述のような情報があるということは、天文学から確定的なことがわかるのではと思いがちですが、実はそれもかなり難しいようです。

福音書はイエスが死去した日に関しても一致していない。さらにこのことは、我々にはそれが何年であったか分からない、ということをも意味する。共観福音書に従い、イエスはニサン月十五の金曜日に処刑されたことに同意するとしても、我々にはその正確な年は分からない。というのも現代において古代のユダヤ教暦を算定しても、ニサン月十五日が金曜日に当たる年はいつであったのかが明らかにならないためである。

「イエス」p84(太字筆者)

これはどういうことなのでしょうか。「数々の研究をもってしても、全ての人々の満足のいくようにその問題を解決することが出来ていない」(「イエス」p402)のは、ユダヤ暦というもののシステムに関係します。

天文学の計算を使い、「閏年」「29日の月」「30日の月」を算定して、暦を特定し過去に当てはめることはできます。しかし、それはあくまで「計算」です。しかし、ユダヤ暦は人間による「観測」に基づいていたことが、問題を複雑にしています。つまり地上の観測者は、空を見上げて、「太陽との合に続く、微かに赤みを帯びた最初の三日月」を探したと言われます。(「イエス」p403)。当時の大気の状態、天気、観測者の手法などの詳しい情報はまったくわかりませんから、このような「人力」の調査は、大きな不確実性になります。

また、当時の暦を決定する「当局」の責任として、その年の天候も加味されて暦が決定されたようです。例えば天候不順で作物が不作になり「除酵祭」に大麦が献上できないなどという一大事になった場合は、「追加の一ヶ月を置閏した」(「イエス」p404)とも言われます。サンダースは不確定要素を考慮しない場合の天文学的最善の選択は西暦33年のニサン14日としていますが、それでも立証はできないと言います。定説では通常30年を挙げる場合が多いようですが、学説は他にもたくさんあって、36年(40年代も!)あたりまであるようです。

サンダースの結論を引用しておきます。

わたしは、何らかの年代の正しさを立証したり、あるいはその誤りを立証したりすることを、試みているのではない。むしろわたしは、われわれの典拠が提示する歴史的な難しさの「雰囲気」を読者に与え、そして人がいかにある一つの時点に飛びついて、その他すべてをそれに適合させようとしてしまいかねないかを例証したい、と考えてきた。(中略)。年代順配列は最も適切な例を与えてくれる。年代の範囲は、イエスの死をピラトゥスの総督在任期間中(後二六年―三六年)に位置づける限り、われわれがイエスの生涯を理解するにあたっての、真に重要な問題ではない。実際のところ正確な年代は、パウロの生涯を含めた初期教会を研究する際には、より重要である。というのも、われわれは初期キリスト教の発展を考慮に入れるために、それがどのくらいの期間にわたるものであったかを知る必要があるからである。したがって、便宜的な切りのよい数字を設けるために、そしてわれわれには確実なところは分からないことを認めるために、私は後三〇年を、イエスの死去したおおよその年として受け入れたい。

「イエス」p411(太字筆者)

この考え方は、歴史を学ぶ者として非常に重要だと思いました。もちろん、扱っているのが宗教の経典である以上、信仰の目で見る人達の権利も尊重されるべきでしょうけれども、おおよその「事実」も知った上での信仰であれば、歴史的に宗教が犯してきた過ちを再度おかさないように助けられるのではと思う次第です。


7.まとめ

以上長くなりましたので、このあたりにしたいと思います。今回のまとめでは、イエスの死と過越について、特に歴史的な観点から考えました。1世紀の過越祭福音書の情報の問題、そして1世紀の「主の晩餐」のイメージなど、最も基本的な部分だけ考慮しました。

いつも繰り返しますように、ここで論じたことが「絶対」ということではありません。学説もたくさんありますので、蓋然性が高いものをまとめてみたに過ぎません。同様に、エホバの証人の信じていることも、本当に「絶対」であるのかいつも確認してみるのは重要だと思います。もちろん、「信仰する」とは特定の宗旨に深く同意することですから、疑ってばかりでは信仰も成立しないでしょうけれど、すくなくとも「調べ続ける」ことは重要だと思います。

私も、人生の多くの部分をエホバの証人として生き、エホバの証人の教えや聖書は「絶対」だと信じていました。ただ同時に、「全てのことを確かめよ」(テサロニケ第一 5:21)という聖書の勧めも(現役時代から)重要だと思ってきました。したがって、今後も「調べ続ける」ことが人生では重要だと思っています。

今回参考書にしてきたサンダースの言葉を最後に引用します。

古代史は難解である。それを扱うには、とりわけ良識と諸典拠に対する優れた感覚とがもとめられる。我々の典拠にはイエスに関する情報が含まれているが、ある文章は百パーセント正確で、ある文章は作り話である、などと独断的に決定することによっては、その情報を突き止めることはできない。真実とは常に中間のどこかに存在するものであろう。再三すでに述べてきたことであり、さらに何度も繰り返すことになるかもしれないが、幾分一般的な水準において、我々はイエスが後26年から36年に懸けてのある時期に活動してきたことを知っている。福音書――そしてその問題に関して言えばヨセフス――を現代の百科事典の記事にしようと試みたり、一つの文章は完全に正しくそのほかの文章は完全に間違っていると想定したりするのは、誤った判断である。

「イエス」 p87(太字筆者)

今回も長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。

(今回で教理の考察を一段落させたいと思います。病気もありまして、頭があまり働かないこともあり、区切りを付けたいのもあります。次回まとめ的なものを書いて、その後は折々の雑感をできる限り綴ってゆきたいと考えています)。


▼今回の参考書(バランス感覚が素晴らしい一冊です)。


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