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5.エホバの証人の教理の考察⑦「輸血拒否」

おそらくエホバの証人の教義の中で、もっとも論争されてきた教義と言えるでしょう。

エホバの証人が輸血を拒否する理由

エホバの証人は、血の禁令を以下の聖句を根拠に説明します。(いずれも新世界訳2019日本語)。

創世記9:4
「ただし,血を含む肉を食べてはならない。血は命だからである。」
使徒15:29
「すなわち,偶像に犠牲として捧げられた物,血,絞め殺された動物,性的不道徳を避けていることです。」

他にも律法には血の神聖な用途についての禁令がありますが、クリスチャンは、モーセの律法から解放されていると考えますので、律法時代以外の上記2つ、つまりノアの時代とクリスチャンの時代に(エルサレム使徒会議で)発せられた禁令を有効と考えるのです。

また、血の禁令は食用だけでなく、医療用にも及ぶとされ、輸血の禁止を信条としています。エホバの証人は血が「神聖」で「命を表す」ゆえに儀式における神への犠牲以外の「誤用」は許されないと考えているのです。

聖書が述べていること

まず、当然のことながら、古代に輸血という医療行為はありません。(もちろん洋の東西を問わず、血を薬として飲用する習慣は古代から存在しますが)。したがって、「聖書がなんと述べているのか」という問いには、「何も述べていない」というのが答えになるでしょう。

しかし、確かに血の「飲食」の忌避は古代ユダヤ人に顕著に存在していました。それはクリスチャンにも受け継がれ、テルトゥリアヌスなどの著作にもそのことが見えます。時代が下ってルターの発言にもそような忌避が表明されています。

それでも、輸血が存在しない時代の「飲食」についての禁令なわけですから、輸血の拒否を聖書の命令と関連付けるの非常に難しいと言えます。もちろん、解釈は無限大であり、何でもOKということになります。しかし、飲食についての戒律を、医療上の問題にもちこむのはそもそも問題があります。

キリスト教はその時代時代に必要な変容を遂げながら、現代に至っています。エホバの証人はそれを「背教」や「腐敗」と言うかもしれません。しかし、初期クリスチャンたちは、ごく早い時期から様々な問題に直面してきました。新しく信者になった異教徒たちの習慣の許容度、ローマ当局の政治的変化にどのように対応するか、兵役の問題、下っては地動説などがあります。結局エホバの証人も、この歴史の延長線上に発生したものであり、科学の発展と聖書の記述を「調整」(解釈)しながら教義を変化させているのです。(もはや天動説は受け入れないわけです)。きつい言い方になりますが、現在のエホバの証人は、科学と聖書の両方を「都合良く」解釈していると言えます。

他者はこの問題をどのように扱うべきか

ただし、この問題を考慮する場合には、感情論になりやすいことや自らの宗教的、また医療上の信念からの「攻撃」になりたすいということも認める必要があります。エホバの証人が「頑なに」この信条を信じているのと同様に、彼らを批判する外部者もそれぞれの信念を「頑なに」主張することになります。

それで、可能な限り誤解や偏見を無くした状態でこの問題を議論するのは良いと思われます。

まず誤解されていることとして、エホバの証人は医療そのものを敵視しているという考えがあります。(さすがに日本ではこれはないでしょうか…)。エホバの証人は現代の医療をほとんど受け入れます。むしろ、詳しい(医療オタクのような)人が多いとも言えます。ゆえに、輸血は緊急時以外の医療においての選択肢の一つであり、無輸血治療もその選択肢の一つであるということです。もっとも、これは医学が進歩し、エホバの証人の信条を受け入れる余地が広がってきたということでもあります。

また、何度か申し上げていることですが、このNOTEで考慮する問題は、「聖書的か」というような解釈の問題ではありません。ここで考えるのは、聖書を現代に適用することの是非や、その適用の一貫性についての問題を取り上げます。

結論から申し上げれば、このNOTEの「輸血拒否」に対する姿勢は以下の通りです。

同意できるかどうかは別にして、成人の考え抜かれた決定であるなら、生命に関わる「輸血拒否」であっても、それは信仰の自由である

これに納得いかないという方も多いかもしれません。医療従事者の方達であれば、救命を第一とする観点から、やはり納得できないという方もおられるでしょう。

しかし長い歴史の中で、大義のために命を捨ててきた人はたくさんいます。現代は、命の価値が上昇し「命の価値は地球より重い」とまで言われるようになりました。これは確かに重要な考えで、現代人が「進化」(私は今はそう思っています)の過程で獲得してきた大切なものだと思います。特に人間の政治は不安定であるゆえに、このような基本的な人権を政府が尊重することは重要だと思うのです。とはいえ、「命より大切なものはあるか」という問いには、まだ様々な答えがあるのです。(安楽死や尊厳死の問題なども含めて、問題はたくさん残っています)。

とはいえ、例外として考慮されるべきなのは、未成年者(特に乳幼児)の輸血拒否です。先進国の多くの裁判で成人の輸血拒否の権利は認められていますが、未成年者に関しては、親権を一時的に停止してでも、認めないというところは多いです。これは健全な判断だと思います。未成年の方達には、自らの信仰の価値をしっかり認識する時間や、自分の命の使い方をじっくりと考える時間が必要でしょう。大人になってからでも決して遅くないと思います。もちろん、子供達の権利を軽視したいとは思っていません。それでも、若いときには多くのことをまず学び、経験してほしいと思います。その上で自分の生き方を決定してほしいと思うのです。ただし、どの年齢なら「大人の決定」とみなすかは別の大きな問題です。これは、法的にも今後さらに各国で議論が続くでしょう。

いずれにしても、エホバの証人の「輸血拒否問題」については、もう少し理性的な議論が必要だということです。ここで新約学者の田川建三氏の意見を引用したいと思います。(太字NOTE筆者)

しかし、誤解を避けるために敢えて記しておけば、信仰の故に輸血を拒否するなどということは、単にそれ自体として考えれば、絶対にやめた方がいい。そういう仕方で生命を落とす、落とさないまでも直せる病気を直さない、といったことは、現代世界に生きる生き方として正しくない。そして、そういうことを強制する信仰は正しくない。 このことをはっきり指摘した上で、しかし、これを「正しくない」とわざわざ大声で叫びたてることの方がもっと正しくなく、更に、ひどく危険である、と言う必要がある。単純に考えても、他の人の行動や信条について、これは正しくないとわざわざ大声で言いたてるのであるとすれば、ほかに指摘すべきことがいくらでもある。指摘すべきことというのが、その人の行動や信条が他の多くの人々や社会全体に対して迷惑を与え、害を加えている場合である。それに対して、「エホバの証人」の信仰の場合は、自分達だけの間での信仰の行動であって、他に対して害を及ぼすような類の事柄ではない。問題は、ほかに指摘し、糾弾すべき悪がいくらでも世の中にころがっているのに、そういうことについてはうんもすんも言わない「世論」が、「エホバの証人」の信仰が「異常」だとなると、よってたかってわいわいと糾弾しようとする、その姿勢にある。このように見れば、世論の動向の方がよほど異常であるということがわかってくる。何故とりたてて「エホバの証人」ならばわいわいと文句を言われるのか。これはまさに宗教弾圧の特色である。・・・ ・・・つまり、彼らが社会の大勢からいみ嫌われるのは、彼らの信仰と行動とが一致する誠実さの故である。その誠実さの中身が場合によってはいかにナンセンスであろうとも、このように誠実さを貫かれると、たてまえと現実を区別することによって腐敗の構造の中にうまく身を保っている社会の大勢は、まさに自分達の腐敗の構造がそれによってあばかれるのを恐れる。だから、社会の大勢は既成宗教と一緒になって信仰宗教のひたむきでごり押しの信仰を憎悪するのである。(「指」1985年7月号より)

私は、この田川氏の意見に賛成したいと思います。彼が冒頭で述べているように、たしかに「現代世界に生きる生き方として正しくない。そして、そういうことを強制する信仰は正しくない」のです。しかし、その彼らに外部者がどんな態度で臨むかが試されているということなのでしょう。命がかかっているのだからと、「ヒューマニズム」を振り回すだけでは、単なる感情論に終わってしまいます。

ちなみに田川氏はその著書「歴史的類比の思想」の中で、ジンバブエで知り合ったエホバの証人について語っています。彼はアンゴラの難民で、野菜売りで生計を立てていて、田川氏のところにも売りに来ていたようですが、あるとき結核になって亡くなるのです。彼を気遣う田川氏に最後に言った言葉が、「自分には信仰があるので大丈夫」というものでした。田川氏はエホバの証人の信仰を褒めているわけでは決してないのですが、その素朴な信仰を評価しているのです。この記述の文脈は、当時のアフリカのキリスト教世界への批判があるのですが、ライスクリスチャンではない「貧しい野菜売り」のキラリと光る信仰に目が行ったのだと思います。田川節ですけれども。

私も彼らのそのような誠実な信仰を否定するつもりはありません。ただ、後悔がないようにしっかり考えて信仰することを強くお勧めしたいと思います。他者としては、上記のような留保点はあるものの、彼らの信仰を尊重するというのが、このNOTEの姿勢です。

この教義の矛盾点

これまでも繰り返し述べた通り、宗教の教義というものは(あまりに違法であるということでない限り)基本的には自由だと思います。しかし、「輸血拒否」の教義に関係して、あえて指摘したいのは、以下の二つの点です。

1.全血と「血液分画」(血液製剤)を分ける考え方について

特に90年代から、この「分画」は良心的に受け入れる方向への「援助」がなされるようになりました。

塔1990年6月1日「読者からの質問」
エホバの証人は,免疫グロブリンやアルブミンなど,血液分画の注射を受けますか。
受ける人もいます。それらの人は,聖書は血液から抽出された微小な分画もしくは成分の注射を受けることを明確には禁じていない,と考えています

… 免疫グロブリン(免疫たんぱく)は血液分画にすぎないとしても,『血を避けていなさい』と命じられているのだから,その注射を受けるべきではないと考えてきたクリスチャンもいます。それらのクリスチャンの立場は単純明快です。血液成分はどんな形態のものであれどれほどの量であれ,一切受けつけないのです。
他方,献血者の血漿のごく微小な分画しか含まず,病気に対する防御機能を高めるために用いられる,免疫グロブリンのような血清(抗毒素)は,命を支える輸血と同じではない,と考えてきた人もいます。それで,そのような人たちの良心は,免疫グロブリンやそれに類似した血液分画を取り入れることを禁じないかもしれません。

… 血漿中の幾らかのたんぱく分画が別の人(胎児)の血液系の中へ現に自然に移動するということは,クリスチャンが免疫グロブリン,アルブミン,あるいは同様の血漿分画の注入を受け入れるかどうかを決める際に考慮できる,いま一つの要素となるかもしれません。正しい良心を抱いてそれができると考える人もいれば,できないと結論する人もいるでしょう。これは各自が神のみ前で個人的に決定しなければならない問題です。

上記「読者からの質問」の議論は、「分画」は全血や主要成分とは違い、良心的に受け入れる余地があるという議論になっています。しかし、血液の主要成分と、血漿の分画は量の違いがあっても、血液の重要な成分であることには変わりないはずです。結局この記事によって、血液中の「分画」を血液とは別物という「逃げ道」を用意したことになります。

90年代後半の巡回訪問時(年2回各地域を管轄する責任者の訪問指導がある)の長老の会合では、血液分画が「限りなく白に近いグレー」ゾーンの問題だとも言われました。分画を受け入れるかどうかは、良心の問題であるとしてきたので、積極的に勧めはしないけれども、救命率が上がる「分画」を受け入れても良いのだという暗黙のコンセンサスができあがりました。その結果、私の調査では約8割の信者が「分画を受け入れる」ようになっていました。これは、ある意味での「規制の緩和」でした。

この後、ものみの塔誌2000年6月15日号の「読者からの質問」では、「良心の判断」で決定することについてさらに説明されます。

人によって意見も,良心に基づく決定も異なるのであれば,これは取るに足りない問題なのでしょうか。そうではありません。重大な問題です。とはいえ,根本的な点は簡単明瞭です。上記の資料が示しているように,エホバの証人は全血や主要な血液成分の輸血を拒否します。聖書はクリスチャンに,「偶像に犠牲としてささげられた物と血と……淫行を避け(る)」よう命じています。(使徒 15:29)それより細かな事柄,つまり主要成分のどれにせよ,それから取った分画については,各々のクリスチャンが,祈りながら注意深く熟考した後に良心に従って自分で決定しなければなりません。

王国宣教06年12月号の折り込み「保存版」には、さらに踏み込んだ表現がなされています。

決定を下す際,次の点も考慮に入れます。まず,すべての血液分画を受け入れないとする場合,ウイルスや病気と闘うためのある種の薬物や,血液の凝固を助けるある種の薬物なども受け入れない,ということを理解しているだろうか。また,自分がなぜ特定の血液分画を受け入れるか,それとも受け入れないかを担当医に説明できるだろうか。

「分画」すべてを受け入れないとしている信者は、各会衆に少数ながらも一定数おられます。この記事の雰囲気は、「すべて受け入れない」人にたいして、それがとてもリスクが高いことをほのめかし、「分画を受け入れるように」という暗黙の文意があると思います。現にこの記事を考慮したのちに、「分画」を受け入れることにした人は多いのです。

しつこいようですが、私個人としてはこのような「緩和」や「良心の問題」とする考えは大いに結構だと思っています。このNOTEでは強制や拘束の強化などに異議を唱えてきましたので大賛成です。しかし、ここで問題として提起したいのは、分画のみを「緩和」し、全血や主要成分の使用は禁止する、ということに矛盾があるのではないかということです。

同時に、全血の使用は禁止しているにも関わらず、「分画」の使用だけ「良心の問題」としてしまうのは、組織の逃げではないかという点も指摘したいと思います。また、分画を受け入れた場合の懲罰規定はありませんが、全血や主要成分を受け入れた場合は、懲罰規定がある(実際には懲罰ではなく「断絶した」つまり、棄教したとみなす)のは扱いにあまりに違いがあるのではないかということです。

つまり、分画も含めて血液すべてを避けるべきだという教義なら矛盾はなく、理解できるのです。(価値判断は別にして)。また、輸血はそもそも、分画も含めて禁止で良心的判断の余地はないということであれば、これもまた筋が通っています。もちろん、この場合当然救命率の低下が予想されるわけで、組織は信者と共に、道義的責任を負う勇気も必要となるでしょう。

しかし、現実のエホバの証人の教義や解釈は、非常に半端なものになっています。これは結局、輸血拒否の教義に「良心」の余地を持ち込んで、教義の緩和を図ると共に、組織自体が免責されるよう図っていいるのではないかという疑義を抱かせます。

私個人としては、今後この輸血を受け入れるかどうかの問題は、すべて良心的な問題として扱うように変更すべきだと思います。それは実質上、輸血拒否の教義を取り下げることを意味するでしょう。教義を「保持」するとしても、「聖書に血を避けるよう命令があるので、中には輸血を拒否する人がいるかもしれませんが、それはその人の良心です」という表現止まりになることと思いますし、そのようになる日を望んでいます。

2.血液の分画が献血などで供給されていること

また、分画を受け入れる場合、それは多くの場合献血によって供給されているということとも矛盾します。エホバの証人は輸血を受け入れないので、当然献血もしないわけです。献血はしないが、分画は使うというのはやはり矛盾であり、誠実さには欠けると言えます。(もちろん、私もあまり献血をしないので、人のことは言えませんが)。また、エホバの証人の場合血液の貯蔵は禁止しています。(聖書で「地に注ぎ出されるべき」とされていることから)。しかし、分画を製造するためには「貯蔵」されなければなりません。この点でも、「分画」を良心の問題としながら許容することには矛盾があります。上記ものみの塔2000年6月の記事には確かにこの問題が意識されていて、「貯血する故に拒否する人もいる」と記載されています。しかし貯血した自己血の輸血すら禁止しているので、これも矛盾することになります。


エホバの証人の「輸血拒否」という信条そのものの是非はここでは別にして、医療上の血の使用を避けることに関係した矛盾点を考慮してきました。結局これも解釈の問題なのだから「矛盾しない」と言われればそれまでなのですが、ここで取り上げたほんの数例は、根本的な問題でもあります。入信時には、是非ともこの問題を過小評価せず、深く考えていただきたいと思います。


信者たちの良心に介入する「統治体」

近年、医療現場で働くエホバの証人たちにとって事態は悪くなっています。これまで、経営者ではなく、雇用されているエホバの証人の看護師が輸血や堕胎などを医師の指示で支援する場合、それは良心の問題であるとしてきました。以下の記事がその一例です。

塔99 4/15 29ページ 「読者からの質問」
医師は看護婦に,看護婦の通常の務めの一環として,ある目的で血液検査を行なうよう,あるいは中絶を受けに来た患者の世話をするよう指示するかもしれません。看護婦は,列王第二 5章17節から19節に記されている例に基づいて,自分には輸血を命じたり堕胎を行なったりする権限はないので,患者のための福祉的な務めは行なえると判断するかもしれません。もちろん,その場合でも,『神のみ前で汚れない良心を抱いて行動できるよう』自分の良心を考慮に入れなければならないでしょう。―使徒 23:1。

しかし、それは2018年に改訂されます。この章でも度々引用しているR.フルリは、2018年6月15日付けの手紙でどのように変更されたかを報告しています。(2020,p11)。この手紙では、上記のようなケースでも問題が良心に任されることはなくなり、無条件に聖書の原則違反(悪行)となりました。フルリは、「統治体」が信者の良心をも支配するようになったことに警鐘を鳴らしています。近年良心の幅はますます狭められていると言えるでしょう。(一方で、「分画」の使用についてだけは良心の余地を拡大している)。

フルリは、「古代ユダヤ人たちは、血抜きしていない肉を食べることはできなかったが、彼らはその肉を非ユダヤ人に売ることができた」と述べ、古代に比べても、現代のエホバの証人の良心の幅が狭められていることを強調しています。たしかに、この例に違わず社会で暮らすエホバの証人たちは、失職や転職を余儀なくされ、追い詰められつつあるといえるでしょう。(しかし、信仰の篤い信者たちは、積極的にこの変更に従うだろう)。


まとめ

歴史的に見て、現代の多くの社会は基本的人権を尊重しており、命の価値を重要なものとしています。これまでにも述べた通り、このこと自体は、とても良いことであり、人類の幸福にも資するものでしょう。これは、憲法など規制対象が国家であるばあい大変重要ですし、個人対個人でも、この原則を尊重することは現代社会の基本原則でもあります。(例外な国はまだまだありますが)。

しかし一方で、信教の自由も保障されなければならず、自由な信仰は人権の一部をもなしています。古来より大義や思想信条のために命を犠牲にすることをいとわない人たちがおり、問題は単純ではありません。

この議論の「現代的」前提条件として重要なのは、あくまで「自分の命の用い方」であって、他の人の命ではないということです。大義のために「他人の命」を犠牲にすることは、戦争の際などに多く主張されることですが、当然許容されるべきではないでしょう。人間はあくまで有限であり、絶対的真理を主張しえない以上、自らの正義を「他者」にまで及ぼすことは危険なのです。

冒頭でも述べました通り、このような前提や条件の下で、「成人の」エホバの証人の輸血拒否の信条は尊重されるべきです。(未成年者は法律が判断する)。ただし、輸血が命の境目になる場合、是非とも生きる選択をしていただきたいというのが本音です。

最後に私が申し上げたいことは、多くのエホバの証人が、その輸血拒否という社会的にも人生においても大きな決断について、信者以外の家族と十分に話し合っていないということです。これについては、組織も度々話し合いの重要性を指摘していますが、入院や緊急事態になって初めて話し合う場合も多いのです。摩擦や軋轢を避けたいという思いはわかりますが、じっくり話し合うべきでしょう。信者ではない家族も、感情的にならないように注意していただきたいと思います。自分のご家族の信条について、是非自ら調査していただきたいと思います。一般書で参考になるものは少ないですが、優れたノンフィクションとして「川崎の輸血拒否事件」を扱った、大泉実成氏の「説得」をお勧めしたいと思います。最近は文庫化され、入手しやすくなっています。

この問題には、医療の現場、宗教者たち、法曹界、人権活動家などが様々な意見を持っています。場合によってはそれらは感情的にぶつかり合い、本人たちはどこかに「置いてきぼり」になります。重要なのは、信者(患者)本人に寄り添うことであり、どんな決定を下すにしても、それを理解することです。(同意するかではなく)。

これ以上は、このNOTEの論議の範囲を超えますので、ここまでにしたいと思います。お読みいただき、ありがとうございました。

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