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彼氏=足長おじさんからの脱却

先日からtwitterで少し話題を呼んでいた「足長おじさん」。

東京カレンダーの連載でちょっと話題になっていた。

34歳・女性が住む街「豊洲」。適齢期の女性がぶちあたる「知ってしまった不幸」と「知らない不幸」(1/2)[東京カレンダー]


記事を読みながら、「私が今まで付き合ってきた人は、全員“足長おじさん”だったなぁ」ということを、なぜかその瞬間に悟ったのだ。

世間一般の足長おじさん的概念からは外れるかもしれないが、

彼氏という存在は私にとって

精神的安定をくれる人、お金をくれる人、ものをくれる人、タクシー代わりになってくれる人、ごはんを食べさせてくれる人などと、

様々な部分で「なにかを提供してくれる人」だったように思う。

だからこそ、各々に担当を振り分けるかのように、同時期に何人もの足長おじさんがいたこともあれば、すべてを担当してくれたがために1人の足長おじさんで十分だったこともある。


先月別れた足長おじさん的アラフォー彼氏は、

★住む場所

★お金がないときの生活費全て

★精神的安定

と、その時欲しかったものをすべて提供してくれていた。

もちろん、私自身も少しは彼へGIVEしていたつもりだが、明らかに相手からのGIVEの方が大きかったように思う。

結婚する気はあったが

「これではずーっと成長しない自分のまま」ということも分かっていた。

それに気づきながらも、4年もの間、そんな想いを無視しつづけていたのだ。


そんな時、

6年前に自然消滅してしまった相手と再会し、話をする機会があった。

会わなかった6年間で、相手は目に見えて成長していたのに、私は……。

次の日、私はこれまでの彼氏に援助してもらっていたことをすべて書き出して、その紙を燃やした。

そして、彼氏に別れを告げた。


足長おじさんからの脱却は、過去の嫌な自分とも別れだったように、今は思う。

足りないところを補うために、

私は自身に向き合うのではなく、人に頼ることで補っていたのだろう。

だが、それでは永遠と、補ってくれる相手としか結びつくことができない。


なにが幸せかは未だによく分からないし、

足長おじさんとの別れで成長できるかは分からないけれど、

あの頃よりも前を向いて、

楽しく考えられている自分がいるのだけは、確かなのだ。

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