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[無料] マレーシアで私が愛した日式カフェTOKIO CAFEの思い出

ふと、google mapでマレーシア時代にマークした飲食店たちを久しぶりに眺めていた。私が暮らしていた時から、何年も過ぎているし、整理でもしてみようかと、思い立ったのである。

つらつらと眺めていると、懐かしい思い出が蘇ってくる。
しかし、私が当時、愛用していた飲食店の多くは、既にクローズしており、なんだか寂しい気持ちになるのであった。

会社のオフィスがあった近くに、私が足繁く通っていた一軒の飲食店に目が留まる。日式カフェがあった。TOKIO CAFEという。

閉業。そうか、この店もクローズしていたのか。
そして、当時の記憶が鮮やかに蘇ってくるのである。

私が働いていた場所は、マレーシアのシリコンバレーと言われていたサイバージャヤにあり、2013年当時は政府機関のお膝元であったことから、基本的にハラル系の飲食店しかなかった。日本の食文化に慣れきっていた私にとって、豚肉すら食べることができないことは大変ストレスであった。

このあたりのことは記事にしてるので、そちらをみて頂きたい。

私のマレーシアへの赴任が決まり、AirAsiaという格安航空で空港に着いたのは早朝であった。初めての海外赴任ということもあり緊張していたし、狭い機内で8時間にも及ぶフライトでは一睡もすることができなかった。

フライト疲れと一睡もしていない疲労で朝からフラフラであった私の元に、現地に先入りしていた芥田君(仮名)が迎えにきてくれた。

彼は、これまでの数ヶ月、オフィスの施工管理をしていた。
ようやくオフィスが完成したので、私も増援として送り込まれたのであった。初期メンバーは、私と彼の二人だけである。

さて、現地について驚いたのは、オフィスには机も椅子もないことであった。芥田君は涼しい顔で「床で作業できるじゃないですか」という。

まじか。あれから10数年たち、彼も随分と歳を重ねたが、基本的に今も変わっていない。芥田君はそういう人なのである。

聞けば、まだ私が住む部屋には家具も何もないのだという。
「え。じゃ寝れないじゃん。コンド使えるって聞いてたし。」
と私がいうと、「あ、そっすね。じゃ今から家具買いに行きましょうか」と涼しい顔で芥田君。

彼はそういう人です。で、もう色々とあったのですが端折ります。

一睡もせず、精神的にも不安なまま、慣れない海外で朝から車で移動、そして買い物、また移動、そして買い物。疲れた・・・。

そして、買い物が終わると、今度は部屋の清掃である。
休む間もなくベッドの組み立てなど、何時間もブルーワーカーと化す私。
一応、ソフトウェアエンジニアなんですが。そして現地の責任者として赴任したはずなのだが・・・。

と思いつつも、組み立てているのは、今夜寝るための自分のベッドである。嫌も応もない。

そして、気がつけば夜の23時になろうとしていた。

その間、食べたのは、軽い昼食だけである。空腹と疲労で、既にフラフラとなっていた私。とりあえず、私のベッドは完成したが、まだブルーワーカー作業は色々と残っていた。しかし、私は既に体力に限界であった。

「芥田君。そろそろ作業を終わりにして、飯食わない?」と声をかける。

芥田君は、とても嫌そうな顔をしながら
「まだ作業残ってるんですよね。もう限界っすか?」
と私の心にトドメの一撃をさす。何度も言うが、彼はそう言う人なのである。

そこは大人の対応でスルーしつつ、作業を切り上げ、そしてマレーシアで初めての夕食に向かったのが、会社近くにあったTOKIO CAFEなのであった。

この時、私が食べたのは、シンプルなカツオ出汁のうどんである。
うどんにコシはなく、なぜか緩々ではあったが、あっさりしたスープは、私の心に染み渡ったのである。涙が出そうになるほどに美味しかった。

あの悪夢のようなマレーシア初日の出来事は、今となっては笑い話ではあるけれど、あの一杯の素うどんの美味しさは、今でも忘れない。

その後、日本から次々に若手スタッフ達がマレーに来て一緒に仕事するようになり、彼らもこのカフェの常連になっていくことになる。

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東京での忙しい日々から、マレーシア・ベトナムの豊かでのどかな場所へ。そこでの生活は、私の心に新たな色を加え、見えない境界を拡げました。「何事も経験してみないと分からない」という事を感じ、私の考え方も大きく変わりました。自分と深く向き合い、自由に、そして本当に望む場所で生きるための勇気を胸に刻んでいきたいあなたへ。

足掛け7年に渡ってマレーシア・ベトナムでの生活を体験しました。海外の人達と一緒に仕事をして感動した事や、日本と海外の採用の違い、気をつける…

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