「つくることで抵抗する」@BOOKS AND PRINTS
※個人的見解を書いている長文、個人的吐露なので読まなくて良いです。
備忘録。
いつもなら、いつどこでどんなに見たい展示があっても、自分の置かれた環境や立場、金銭面などから100%諦めるのに
先日、なぜか「これは行かなければ!」と思いたったため、
まったく馴染みのない土地を訪れた。
それは、下記のとおり、このトークショーを体験するためだ。
”※東京、名古屋から日帰りもできる時間帯です!”
笑える。。必死…。・・・笑ってはいけない。
東京の人!!名古屋の人!!名指しされてるよ!
・・・・・・。
この記事を制作した人が個人的な偏見のもと、呼びかけてますね。
このイベント好きそうな人は東京や名古屋には必ずいる!と。
信じてやまない感。
ちなみに私は縁もゆかりも情もない香川という滅亡地在住。
東京や名古屋じゃなくてごめんなさい。
会場となっている浜松市は行ったことがない。
行こうとも思わない。
用事がない。
縁もない。
だが、私は冒頭で述べたように、”コレは!”という閃きとともに行くべきであるという謎の使命感に駆られ、強行突破で夜行バスの往復チケットを手配した。
社会に出て今まで、はたらくこと(単なる飯のタネ=生活費を稼ぐ)に人生を支配されて常に精一杯。生きてても何も楽しくない。
”つくること”という、その行為と感情を自分に許すことなく、それは間違っている。大人として間違っている。芸術、創作、創造とはお金のある人がやること。と言い聞かせて、自分の中でしょっちゅう暴れる創造欲を力づくで封印していていつも苦しい。私の親族は美大を出ていながら創造性は全くない。卒業制作は何のための受験デッサンと教育と4年間だったのか・・と思わせるクオリティ。人間性においては弱い立場に高圧的で嘲笑。ユーモアも繊細な感受性もない。ただ玄人好みの美術知識と受験を突破した評価基準が謎なデッサン力だけ。私の創造性を幼いころから全否定し、生業としてのクリエーションを否定して追い打ちをかける。私以外に私の理解者がひとりもいない。つくること、アートを生業にすることは”悪”という洗脳が解けない。私の誰にも言えない本当の心はいつもいつも助けを求めて泣き叫んでいる。止むことはなくいつも喚いている。
なんか性格や感受性が歪んでねじれて、もうどうにもならない。
田舎社会のストレスとつくりたいのにつくれない環境と境遇を呪う巨大な手に負えない強固でマッチョなストレスでつぶれて今にも死んでしまいそうだ。
私の中でずっと消えない創造心というか、創造熱というか、創造欲を
これから死ぬまで私はどうすればよいのだろう。
ずっとずっとずぅー---------------っと独りで考えてきた。理解者は独りもおらず。
親族も友人も知人も、私の場合周りには学生卒業とともにクリエイションも卒業した人間ばかりだった。私は次第に孤立して、自分のなかのつくりたい気持ちと周りの無理解がしんどくなって、湧き上がるデザインもアイデアもみるみる腐っていった。福利厚生の整った職について働け働け働けというプレッシャーだけ。
朝から晩までレジ、クレーム処理、配送、事務など好きでもなんでもない
作業の仕事はどこまでいっても割り切れずにただ苦しく空しくロボットになったような。
私が”つくる学生”だった15年ほど前から、素敵なお仕事やご活躍をされていた二人に注目していたが、年齢とキャリアを重ねて進み続けた、今という現在地で何を話すのか。”つくること”と私はこれからの短い人生、どのように付き合い折り合いをつけ、赦し諦めたりするべきなのか。
わたしは周りに”つくるひと” や ”つくること”が皆無なので、自分で二人の言葉からヒントを得たかった。最初から答えはないと分かったうえで、私は浜松に乗り込んだ。
浜松のような土地(日本のどこにでもある地方都市)で、いくらカッコいいお店やイベントがあっても、止まったら死ぬサメのように働く、都会の感度が高い方々、トークするお二人の関係者、知り合いなどは来ないという読みのもと、きっと会場は込み合ってはいないだろうと思った。もしも同じ内容で場所が東京だったら行かなかったと思う。微々たる貯金を削って行動に移すまでの閃きは無かったと思う。
会場となったビルは、
浜松にありえないほどクールで味のある建物にひしめくさまざまな業種のお店。広くはなくても、それぞれのフィロソフィーを感じるこじんまりとした店舗群。そのビルの最上階?のスペースが会場だった。
若木さんが主宰する書店より上の階にあった。
今回のイベントも目的だったが、若木さんがこんな地方で細々とでも
家族や地域の学生ら、若者の協力を得ながら存続させている場所(BOOKS AND PRINTS)に興味があったから、イベントまでの時間、本屋の方に行ってみた。
本屋の入り口に入る前から言葉にならない、とてもクリエイティブな風を感じた。いやその空間から漏れる空気か。なにか説明しきれないような何かが階段の踊り場、店の外に流れていた。
”これは間違いない”
”ここに来てよかった(劣悪夜行バスで一睡もしてなくても…)”
なぜ、そのように感じたのか。
それは、若木さんが写真を撮り始めて出会った場所、国、人、空気、景色、感情、匂い、音、味・・・など
若木さんの人柄や人生観、写真との関係そのものがそこ(BOOKS AND PRINTS)に佇んで存在しているからだと思う。とても心地よい。
近所にあったら週に一度は通いたい。近隣学生だったら働きたいくらい。
嘘のない素直さに満たされた空間は、人に居心地の良さを与える。
チル。リラックス。和む~
今回のイベントにちなんで店の奥には林さんの書籍やバックナンバーなどが!私はたびたび『here and there』を気になりつつ、購入し損ねていたことがあったため、ネットで調べるも古本としても出回っておらず半ばあきらめていた号がなんと販売されていた。内容を確認してから購入できたのは嬉しかった。
というのも浜松よりも数倍いや数百倍、地方の田舎の僻地に住んでいると、
慢性的に文化的なものやリアルな買い物に飢えており、干ばつもしくは飢餓状態なのありがたかった。誰かが仲間とクリエーションしたものを自分の手に取れていることがたまらなく尊かった。誰かの作品、商品を手に取って購入することは同じ日本に住んでいても、決して当たり前ではない。
なんであれ、お金を出して買う時は、実際に見て触って品質、内容、必要性を確認してから購入したい。だが、地方はそうはいかない。許されない。
そんな願望は、人間の私が「空を自由に飛び回りたい!」と言っているようなもの。嘆くだけ願うだけ無駄。無理なものは無理。こういった地方僻地あるあるによる数々の絶望が私の精神をみるみる蝕んでいるのがわかる。結果的に私に残る既に微量の生きる希望までも腐らせていく、居住環境…
コロナによる離職にあっていなければ、ひっそりとまじめに働き有給使って海外に行くことを生きる意味として頑張れていたのに。私の人生は38歳にして本当の意味で既に終わっている。
新幹線も通ってないような老人と子育て世代のみの地帯では、量販店、フランチャイズだらけなので買い物は専らヴァーチャル空間で、ほとんど後悔しかない通販と配送会社に頼るほかないのだ。田舎や僻地は通販、配送会社さまさま。
店内の本やレイアウト、ディスプレイ。無造作に置かれたものたち、古い建物との調和。セレクトされた本の顔ぶれ。
この若木さんが大切に守り維持してきた場所には、行った人にしかわからない良さがある。機会がなく私は画像でしか認識していない非現実的な場所だったのが、今回思い切って行動にでたことがきっかけで、その場所は紛れもなくリアルな、”本当の場所”だった。東京、名古屋と言わず、私は日本国内とも限定せずいろんな国の人も来たらいいじゃん。って思うお店だった。
機会があれば行くといいよ。すべての人におすすめ。
そしてビル丸ごと味わい深いから、おそるおそるビルに潜んでいるお店を探検してみてはいかがでしょうか。おすすめ。
ということで、やっとトークショー。
時間です。
書店を後にして、古ぼけたビルの古ぼけた階段を上って会場を目指すと・・・
くんくん。
ほのかない香りが階段あたりに広がっている。
最上階を目指しているのでビルの天井からは晴れた日の光が
さんさんと降り注ぐ。
トークショー会場は天国なのですか?と、疑うほど。
柔らかい香りと光り。
その香りの正体はバジル。前日だったか当日だったか若木さんのお知り合いが育てたバジルの木。立派な枝ぶりの。
よくある植木鉢とか料理用をイメージするかもしれないが、それではない。
がっちり立派な枝。もりもり育ったローズマリー群を想像していただきたい。それに近い。
それが会場スペースの隅とかに数か所、吊るしてある。
シナモンバジルだったかホーリーバジルだったか。
スペースの入り口で体温を測って空間に足を進めると、バジルと差し込む光によって浄化された空気がいっぱいに広がっていた。思わず私は数回深呼吸してしまった。何言ってるの?と言われること承知で言いたいのだが、
ふたりのトークの内容は初めて聞いたはずなのに、前にどこかで聞いたような内容に思えた。東京でも名古屋からでもない私ははるばる野を越え山越え海越え来たのだから、最後に何か質問しようと思っていたけど、自分でも驚くほど何も質問したいことは無かった。かといって退屈だったとかつまらなかったわけではない。だからといって、めちゃくちゃ貴重な話が聞けた!という収穫感もない。というか、ナニ話してたかほぼ忘れたし、覚えてないし、記憶があいまい。感想残そうと思ったのにとりたてて感想がないなんて・・・
トークショーの満足度?
それよりも、このビルと、若木さんの本屋さんと、このトークショーのための空間演出がたまらなくよかった。
私がわざわざこの場所にやってきたのは、永遠に死ぬまで”つくること”や”つくっているひと”に魅了されながら、”つくれない又はつくることが赦されない”自分の境遇や人生を呪うことしかできないという事実を再認識するためと、上記で述べた予想外の大収穫を得るためだったようだ。
トークショーを聞きに来たけど、トークショーじゃないことで心が満たされた。言葉にならない小さくあたたかい感動をした。
私にとっての結論としては、林さんと若木さんは”つくれる運命、境遇の人”ということだった。
この場所でこれからもイベントをしていったり、スペースを展示会に使ったり、いろいろ発信していくようだ。
もう行くことは無いと思うけど、行って良かった。
ヒントや答えを探しに行って期待通りにそれが見つからずに
思いがけない出会いで感動することもまた尊い。
むしろそっちの偶然の方が意気込んで獲得しようとすることよりも私は好きかもしれないし、本当の深層の部分では私はそっちを求めて生きているのかもしれない。と
ありがとうございました。
これを読んでくだすったあなたも、偶然の産物も