「夜が明ける」を読み直しました


タイトルにある通り、西加奈子さんの「夜が明ける」を読み直しました。

色々な事情があり「読み直さなければならない」状況になって再読したのですが、初読とは全く違った感想を抱いたので、以下に書きます。

⚠️ネタバレしまくっているので未読の方は気をつけてください。

はじめに


遡ること1年と数ヶ月前、私はこの本を読みました。そのとき私が感じたことは、

どこが救われたんだろう?

です。


私はこの本に大どんでん返しがあることを信じて読み始めました。そして、それがないことに失望してしまいました。
アキは死んだし、「俺」はフリーター。
もっと、こう…なんでしょうね、例えば林がバッシングを受けて離婚するとか、東国の末路が悲惨になっていたとか、誰かに報いを受けて欲しかったのかもしれません。
それは少なくとも作中では描かれませんでした。
当時の私はモヤモヤしましたが、今読み返すと明確に「救い」の描写が詰まっていました。
1年前の思い違いを訂正する形で感想を述べようと思います。


「俺」の救い


「俺」は劣悪な労働環境やハラスメントによって鬱状態になっていきます。カッターを手にしている時か、林へのアンチコメントを見る時が1番安らぐ時間であると。
それは林への憎しみ・恨みから来る行動です。「俺」は自分の親父が死んだ時でさえ、直接的な恨みは持たなかった。それは彼がまだ「勝者」だったからです。
まだ夢を持っていた。どうにかして生き抜いてやるという野心があった。納土のように、中島さんのように。
しかし彼は恨みに囚われてしまった。それは彼自身の弱さではなく環境がそうさせたから。
遠峰の「恨んだら負け」の言葉のように、彼は「敗者」にまわってしまった。
負けてしまったんです。全てに。
林にドヤされたとき、押見にハラスメントを受けたとき、ホテルで中島さんを見てしまったとき。
何回も何回も「俺」の心は悲鳴を上げ、もがき、諦めた。


ところで、「俺」がおかしくなっていく描写について大きく2つにわけられます。
1つは商店街のロケが上手くいかないことからマスターテープを紛失したこと、キッチンスタジオの設営が上手くいかなかったこと。
もう1つは胃腸炎発覚から仕事を辞め、鬱々と過ごす日々。
この2つの場面は時間の流れ方が異なると感じました。
1つ目はとにかく目まぐるしく、仕事しかできない日々。故に疾走感というか、スピードが尋常ではない。これは「俺」自身にまだ闘志の炎が宿っていたからだと思います。

反対に、2つ目はかなりゆっくりとした時間が流れていたように感じました。実際の月日で言ったら1つ目の方が何年も長いのに。これも、「俺」が恨みによって負け、「敗者」になったがゆえの弛緩だと考えます。

時間の感覚が異なると感じたのはこの差であり、「恨んだら負け」の伏線であると思いました。

話を戻します。


そんな彼の「敗者復活」こそがこの物語における「救い」であると考えます。
人物で言うと森、納土、田沢……
モノで言うとアキの日記……
それらが彼に救いの手を差し伸べたわけです。
本当に些細なものかもしれません。
それでも「俺」にとっては十分だった。
「俺」は負けてもなお立ち上がった。
その気力こそが「俺」にとって最大の救いになったと感じました。

アキの救い

簡潔に言うと、アキを救ったのは
アキ・マケライネンと「俺」です。

つまり彼の救済は高校時代で終わっていると思います。

過激な表現かもしれませんが、蛙の子は蛙です。
つまり、貧困を抜け出すことは極めて困難だということです。
「俺」は元々貧困だったわけではありません。故に「もう一度這い上がってやる」という気概がありました。

アキにはそれがありませんでした。

貧困、虐待、異形、吃音……
彼が何の後ろ盾もなしにこの世の中を生きて行くことは難しい。
だから作者も彼に特大な救済を与えなかったのだと思います。
彼が現実をどう捉え、どう飲み込み、生きたかは正確にはわかりません。

この物語の語り手はアキパートにおいても「俺」だからです。

真相はアキの拙い日記の中。それさえも疑ってしまえば何もわからない。
彼にとってアキ・マケライネンと「俺」だけが彼の心を震わせたという事実が本当の事として鎮座している。
また、アキは誰も恨みませんでした。
母親も、東国も、暴行を加えた青年たちも、何もかも。
その点においてのみ彼は「勝者」であり、「俺」と同種類の救いの対象にならなかったのではないかと思います。

彼は最期、幸せだったのでしょうか。
アキ・マケライネンではなく深沢暁として死んでいったと思いたいです。

まとめ


アキにとっての救いは「俺」でした。
そして「俺」もまたアキによって救われていきます。
この救いの連鎖を作者は描きたかったのではないでしょうか。

「生きていればいいことがある」とは綺麗事で、陳腐な表現です。

ですが、必ず救いの手が差し伸べられます。

その手に気づけるか、手を取れるか、それを「救い」と思えるか。

その違いが全てを変えるのだと思います。


この本から得られるものを言語化することは非常に難しいと思います。ですが現代の社会問題に切り込んだ作品という評価は私にはできません。これは2人の男が救いを求める物語です。そして読む人に絶望的な救いを与える、そんな作品であると思います。

お目汚し失礼いたしました。

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