女の子らしさの呪縛
学生時代、モテテクの本を読んではくりかえし実践してた。
男子から好意も持たれがちだった。嫌なこと言われてもいつも笑顔で受け流して、男は転がすのがいいとか本気で思ってていた。
男が思う理想的な家庭的な女子を演じて、裁縫セットと絆創膏持ち歩いて。
私は自分をいい女だと思ってたけどそれはただ、都合のいい女だっただけ。
「女子力高いね」「女の子らしいね」と言われることが当時の私にとって最大の称賛で、そこそこ成績もよかったのに、頭がいいねと言われることより、女の子らしさを褒められるほうが嬉しかったのだ。
でも、自分を偽り続けることにつかれて、素の自分に戻った。
好かれることを意識して、塗り固められた自分を好きになる男なんて見た目と外面だけしか見えない薄っぺらいやつだと勝手に嫌悪感を抱いてた。
幼いころから、モテテクといった、いわゆる男性から選ばれるためのしぐさや行動、言動を本という形で刷り込んでいくことはどうなのか。
小学生中学生の時に私には好きな人がいて、その人に気に入られたくて、好かれたくて、このモテテクを実践していたように思う。小学生や中学生たちも私と同じように、好きな人に好かれたくてその本を手に取るかもしれない。
好きな人に振り向いてもらいたいという思いは強い。行動も言動も変えてしまう。学生の時は藁にもすがるような気持ちで実践してみたり、小学生の頃は消しゴムに名前をネームペンで書き、ばれないように使い切ったら両思いになれるといったおまじないも実行したことがあった。
そんな風に、小さいころから、男性の機嫌を伺い、好かれようとするために、無償のケアの労働をすることを美徳としていいのだろうか。
彼女たちが大人になり、社会に出たとき、仕事ができるだけではなく、気配りを求められたり、結婚して家庭内の仕事をすべて負担させられたり。
合コンのさしすせそという言葉が一昔前にはやったが、これは、男性を無条件に尊敬し、知っていたことでも知らないと無知を強調し、男性の気持ちをよくさせるというようなテクニックだが、そのような小手先で引っ掛かるような男を手に入れて何がうれしいのか。
このようなモテテク本を読まされて育ってきた女性は、ケアの労働を一人で担うことに疑問を抱くことが簡単なのか。私は簡単ではないと思う。
統計によると、12時間以上働く女性の家事負担は2時間が一番多いのにもかかわらず、同じ12時間働く男性の家事負担が0時間が半数以上占めるという。仕事しているから、仕事で疲れているからというディスコースが許されるのは男側のみなのだ。
女性は疲れていようが、仕事ができようがどちらにせよ、家庭内の、愛という名のもとに期待される無償労働を強いられる傾向にあるのだ。独身であったとしても、家事を外に外注し、仕事のみに集中したとしたとしたら、世間からの風当たりは強いのではないだろうか。男性なら何も言われないのに。むしろ男性であれば、「早く嫁を貰えよ」など、女性を家政婦としか見ていないような発言をされることが多いかもしれない。
https://twitter.com/jbnrsk_arata/status/1278542081145794562?s=21
これは、前述したモテテク本の影響が全くないといえるだろうか。いや、かなり大きい影響を与えているのではないかなと推察している。
男性の面倒を女性がみる、男性に奉仕するということ、それらが小さいころから刷り込まれ、良しとされていること。この類の本は女性の可能性を狭めてしまうように感じる。
私は、自分を偽ることに疲れきって、自分を偽るのをやめた。
家庭的な女の子に見せることをやめ、不特定多数の男性に媚を売ることをやめた。自分のために、メイクをし、服を選び、料理する。
一切の制約がなくなったようで、気持ちがすごく楽になって、今最高に人生が楽しい。
今の私を好きな人だけが近くにいてくれる。
私も好きな人たちだけを大切にすればいいから。
無理に、女の子らしさ、の鋳型にはまる必要はないのではないかと思うのだ。みんなが女の子らしくなる必要なんてない。
自分らしく、自分が、幸せなように。
各自が模索していくのも人生の楽しみかもしれない。
読んでいただきありがとうございました。