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武術史の余白に:「国術」黎明期における修剣痴と「搏撃(bójī)」(その1)

◇ある一枚の写真から生まれた疑問

修剣痴(1882-1959)は、中国の三つの時代を生き抜いた武術家です。

清朝末期に生まれ、中華民国の動乱期に国民党系軍の部隊で武術教官を務め、そして中華人民共和国の誕生を見届けました。

青年期,河北の地において形意拳、祁氏通背拳大架式(老祁派)、および祁氏通背拳小架式(少祁派)を学び、これらに自らの経験、独自の工夫を加え、五行通背拳へと理論化、体系化させました。

下記に掲載した一枚の写真は、1942年頃、修剣痴60歳の記念に撮影されたと伝えられるものです。



写真のなかで修剣痴は、中国の伝統的な衣装ではなく、洋装(シャツ、ベスト、ズボン)です。写真左側は“猿猴縮身勢”、右側は“猿猴深背勢”[1]のポージングと伝えられています。

[1]むしろ”猿猴出洞勢”に近いのではないかと思います(個人の感想)。

どうやらこの写真は、二枚の写真を合成し、あたかも二人の修剣痴が攻守双方を演じているかのように構成されています。このため、写真右側の“猿猴深背勢”は、左側の修剣痴に圧を掛けるように下を見下ろし、前足に重心が置かれています。

とても不思議な写真です。

なぜ、修剣痴は、洋装で、この二つの拳勢で、記念写真を撮影したのだろうか。自分にはずっと疑問でした。

実は修剣痴には、撮影年次不明ながらも洋装(ネクタイ、スーツ姿の)写真が他にもあります。下記の写真です。



しかし、当時、一部の国粋主義的武術家たちからは、なぜ中国の武術家ともあろう者が“洋鬼子”の服を着て写真を撮るのだ、とずいぶん批判を受けたようでもあります。

一方、この写真は、修剣痴が、中国の古い伝統に根差した武術の継承者でありながらも、西洋の文化に対して、虚心坦懐に接することができたことを示唆しているのではないか。こんな解釈もできるのではないでしょうか。

◇猿猴出洞を巡る個人的疑問と湖南「搏撃(bójī)」動画の衝撃



上掲の写真の右側に写るポージングは、修氏五行通背拳の「猿猴出洞」という短い二路(往復)編成の套路の冒頭に現れるシグニチャ動作に酷似しています(重心は前よりですが)。

個人的には、この動作が他の通背拳の技に比べても些か“味道(趣き)”が異なるように覚え、言い知れない違和感を覚えつつ練習を重ねて来ました(今でもそうです)。

この構え(通常、通背拳での構えは、右手(開手)が前、後ろの左手(開手)は、前手の肘から腹の高さに置く「引手勢」)、動きはどこか違う。はたして通背本来の技なのだろうか。という違和感です。

そして、武術関係の調べ物の過程で、偶然ある動画を発見したことから、この違和感はある直観に変わりました。その動画が以下です。

動画は湖南“(国民党軍)第四路軍技術研究班表演撲撃”と伝えられるものです。動画前半では、オーソドックス・スタイルでグローブを着け、ジャブを繰り出しながら前後に移動するシャドーボクシング形式での練習の様子が、また後半では対人練習の様子が映されています。

注目されるのは、この動画前半に映された兵士たちの構え(拳の高さ、重心のバランス)です。南京中央国術館で研究されていたとされる「中央国術館時代的散手搏撃拳架」構えの写真(下記)とよく似ていることです。

南京中央国術館で研究されたとされる”散手拳架”の写真

また、この「撲撃」及び「散手」の構えは、1930年代当時の一般的なボクシングの構え(前拳の位置が顔より低い)に比べても、前の拳は顔面・顎あたりに置かれ、独自の工夫が加えられているように思われます。

この二つの写真を、前掲の修剣痴の写真と並べたものが下記です。重心が前寄りに置かれていますが、両拳の高さ、位置関係は驚くほど良く似ています。「猿猴出洞勢」は、ボクシングの影響を受け、編み出されたものなのでしょうか。

◇三つのイメージをつなぐもの

上掲の三つの拳架(構え)の間には何らかの強い関連性があるように思えてなりません。

調査をすすめるうちにわかって来たことは、1920年代、上海において西洋人からボクシングを学び、南京中央国術館において「搏撃(bójī)」[2]としてその技術を伝え、同国術館における散手研究に貢献したある武術家兄弟が、その後湖南省に移り住み、「湖南长沙的第四陆军担任教官」として「搏撃」の指導をしていたことがわかりました。 

[2]発声してみると「搏撃(bójī)」とBoxing[ˈbɒksɪŋ]とは発音的には良く似ているように思います。

1930年代、修剣痴は湖南主席(軍閥地方長官)何健に招待され、湖南省に滞在、長沙において実施された対抗(擂台)形式の試合による「湖南国術考試」の裁判(審判)を務めたほか、軍部隊における武術教官として活躍していました。

以上から、些か大胆な推論として導かれるのは、修剣痴は湖南の地において、南京中央国術館に「搏撃」として伝えられ、散手技術の研究にも応用研究がなされた西洋拳(ボクシング)に触れ、これをかなり関心を持って研究し、自らの通背拳に技術的に応用できないかを模索していたのではないか、ということです。

しかし、その後、修剣痴の書き残したある「拳譜」を調べていた際、「搏撃拳術相兼併(並)用之法則」という項目のなかで、ボクシング技術と通背拳術とを比較研究していることがわかりました。文献的にも修剣痴が「搏撃/ボクシング」に強い関心を示し、研究を重ねていたことがわかったのです。

以上を踏まえ、次回の投稿では、まず南京中央国術館と湖南の地に「搏撃」をもたらした武術家兄弟についてとりあげることにします。


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