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五行通背拳『小連環』を考える-修剣痴武術の形成・発展・継承とその変容についての一試論(その肆)


【解説】ヘッダー写真は1932年湖南国術考試に裁判(審判)として参加した武術家たち。左から、劉百川、王潤生、修剣痴と伝えられる。

今回の投稿は技術的な考察を少し離れ、歴史的な文脈のなかで套路『小連環』の誕生を考えてみたいと思います。
 
修剣痴系通背拳の代表套路『小連環』がどのような背景で創編されたのか?
 
この問いかけは、そもそも伝統的に単操(単練)重視の祁家通背拳を学んだ修剣痴が「套路」の再評価に踏み出したのはなぜかと言う問いに繋がります。

1 はじめに-あるエピソードから

大連の通背拳修行者の間には、興味深いエピソードが伝えられています。
 
このような話です。
 
王禄伝(別名、王潮一)は、単操の練習に打ち込み、套路は全くできなかったが散手では無類の強さを誇っていた。そんな王が仕事の用向きで哈爾浜へ出向いたときの話。
 
王は師伯にあたる程福魁のもとを挨拶のために訪れた。程は修剣痴の初期の徒弟として知られていた武術家である。
 
程は王を暖かく出迎え、酒や豪華な食事を振舞った。お腹が膨れ、酔いもまわり始めたところで、師伯の程は王にこう切り出した。
 
「なあ、王よ。ワシは小連環という套路を知らんのだ。学んでみたいのだが、ひとつ教えてくれんものかな。」
 
これに対して、王はきっぱり、こう答えてしまった。
 
「わたしも知ら(出来)ないんです。(我也不会)」
 
この言葉を聞いて師伯の程は心中穏やかならなかった。
 
自分がこれほど丁重に王をもてなし、頭を下げて頼んでいるのに、その態度は失礼ではないかと。ただ、激しく王を責めることはなかった。
 
しかし、王が程の顔を見れば、程の不満は手に取るようにわかり、その場は気まずい雰囲気になってしまった。王は大連に戻るや直ちに師父である王耀庭に事の顛末を報告した。
 
話を聞いた王耀庭はその場で筆を執り、すぐに手紙をサラサラとしたため、急いで人に託して程のもとに届けさせた。その手紙には、王はほんとうに套路を知らんのです、と書かれていたとか。
 
どうやらこのエピソードは、大連の通背拳修行者たちの間で、「本当に強いやつは套路なんてやらない。大切なのは単練(単操)!」というニュアンスを込めて語り継がれているようです。
 
些か横道にそれましたが、以下、本題に戻ります。

2 套路『小連環』はいつ頃つくられたのか?

今日、大連に伝わる修剣痴系通背拳を代表する套路のひとつが『小連環』です。それでは、この套路はいつ頃、創編されたのでしょうか。
 
民国時代の映像資料が限られるなか、この検証作業は極めて困難です。
 
資料源は「拳譜」等の武術文献、或いは武術家の歴史証言(オーラル・ヒストリー)にならざるを得ません。
 
資料源のなかで比較的手堅いと考えられるのは、拳譜の経年検証です。
 
修剣痴は1931年、35年、47年、51年、更に53年の各年に主要な通背拳の拳譜や武術理論書を書き残しています。
 
『小連環』は「民国辛未年(1931年)」に記された最初期の拳譜において確認できます。そして、『小連環』拳譜は、1930年代から50年代を通じて、拳譜・武術理論書が書き換えられるたびに少しづつ改訂されていきます。
 
興味深いのは、『小連環』が拳譜上、初出確認できる1930年代初頭は、修剣痴の人生における重要な転換期でもあったことです。
 
修剣痴は1930年代、大連を離れ、湖南省を訪問し1932年に長沙で開催された武術大会の審判を務めた後、同地に留まり、軍隊(国民党系)付の武術教官を務めていました。
 
この滞在中の見聞が後々、修剣痴通背拳の体系化、就中、各種套路の整備に大きな影響を与えていくことになると考えられます。

3 祁家通背の伝統は「単練(操)為主」なのに、修剣痴はなぜ「套路」を再評価したのか?

それではなぜ、1930年代に套路『小連環』が創編されたのでしょうか。
 
この問いかけは、先ほど述べた通り、なぜ修剣痴は、「単練(操)為主」を重視する祁氏通背拳の伝統から離れ、数多くの套路を創編するようになったのかという問いに繋がるものでもあります。これが今回の投稿の主題です。
 
 これにはいくつかの理由が考えられます。

<理由1> 武館経営の行き詰まりと「飯のタネ」としての套路の有用性

修剣痴は、1920年頃、大連に通背武館を設立したと言われます。開館当時、修剣痴は、祁家通背門の伝統的教学法に則り、「単練(操)為主」、弟子たちにひとつひとつの技に繰り返し時間をかけて丁寧に練り上げさせ、一つの技(単操)に精通しなければ、次の技を教えないという指導をしていたと伝えられています。
 
やがて、弟子たちの間に、
 
「こんなやり方で本当に強くなれるのか」
 
「なぜ他門派のように套路は習えないのか」
 
という不満が燻るようになり、ひとり、またひとり、通背武館を辞め、他門派に乗り換える学生たちが増え、武館経営は徐々に行き詰まって行ったようです。
 
背に腹は代えられず。
 
食べていくため、修剣痴は、学生ウケが良い「套路」を教えるようになったと言うのが実態のようです。つまり「套路」は最初、修剣痴にとっては、何よりも「飯のタネ」だったと考えられます。
 
この話を傍証するひとつのエピソードが伝えられています。
 
後年、修剣痴は、徒弟の王耀庭が武術指導で生計を立て始めた頃、弟子たちに単操ばかりを練習させているという話を聞き、自らの武館経営が苦しかった時代の経験から、弟子である王の生活を心配して、こう諭したそうです。

「おまえ、そんなもの(=単操)教えとったら喰いっぱぐれるぞ。ワシもそういう時期があったがな。套路を教えなきゃダメだ。(你教这个没有饭吃,我是经过的,你应该教套路。)」

<理由2> 湖南省国術考試(擂台)が与えた衝撃と套路の意義再発見

修剣痴は、1930年代、湖南主席(軍閥地方長官)何鍵[*1]に招待され、湖南省に滞在、長沙において実施された対抗(擂台)形式の試合による「湖南国術考試」の裁判(審判)を務めたほか、軍隊(国民党系)付の武術教官として活躍しました。
 
[*1] 何鍵。軍閥出身。武術振興に熱心で、省内に国術訓練校(後に国術館)を設立したほか、部隊付の“技撃大隊”や“技術研究班”の設置を指導、“撲撃(西洋式ボクシング)”の研究を奨励するなどかなり革新的な取り組みを進めていたようです。
 
そして、この湖南省で実施された擂台での試合結果は、修剣痴をはじめ、当時の伝統武術家たちを震撼させるものだったと言われています。
 
湖南省での国術考試は、「散手対抗、不分級別、以打擂台的方式」、即ち体重別のクラス分けを行わない擂台形式での対抗試合であったことが伝えられています。また、この考試には、湖南省域内の各県から3~5名の選手が選抜され、計400名ほどの武術家が参加したほか、湖南省国術訓練所の学生や、部隊付の技術大隊の隊員も出場したと言われています。
 
各県から選抜された参加者のなかには、10年、20年以上にわたる武術修行を重ねたものが少なくなかったものの、驚くべきことに、「優勝(上位成績優秀者)」30名のうち29名は国術訓練所と技術大隊からの出場者であり、且つわずか1年足らずの訓練をしただけの選手がかなりの人数を占め、なかでも上位3名は国術訓練所の学生であったという話が伝えられています(以上、趙錫金著 『大連通背拳簡史』 72-73頁 )
 
この擂台試合を見守った当時の審判(武術家)たちがどれほどの衝撃を覚えたのか、それは私の想像を超えます。
 
ところで、伝統的な武術家同士の“交流試合”とはどんなものだったのでしょうか。
 
私の師匠がかつて某雑誌編集部のインタビューに答え、興味深い証言をしています。少し長いのですが、以下、引用します。

「自由に技を出して打ち合う試合も、ずいぶんやりました。道場破りではないのでお互いに怪我をさせるような打ち方はしませんが、勝ち負けははっきりさせなければならないので少しばッと一発打ち込んでスッと離れる。

10年以上もやっている人ならば、これでどちらの実力が上かぐらいはわかるものです。(中略)バーンと当たればそれで十分。終わりです。」

(福昌堂「格闘王9 実戦カンフー読本 功夫天下」  1988年 53-54頁)

以上からわかるのは、手を交えたとしても、「良いのが一発入ったら」その時点で技量の優劣が判明したと考え、相手に無用な深手を負わせたり、相手のメンツを徹底的に潰すようなことはしない。これが伝統的な武術家同士の“交流試合”の作法であったと理解できます。
 
これに対し、“擂台”形式の試合は、大勢の観客が見守るなか、相手を完全に倒す(無力化・戦意を失わせる)か、あるいは一定の時間・複数ラウンドを闘い切りポイント(有効打)を稼ぎ、勝敗の白黒を明確に付けなければならないという点で、上記の伝統的な“交流試合”の作法とは決定的に異なります。
 
こうした試合形式では、長時間動き続ける持久力、試合ルールに適合した有効打を連続して繰り出せる能力(連環技法)、素早い攻防転換の戦術等への習熟が出場選手にとって重要となります。(このため、南京中央国術館では散打研究に関連して、学生たちに、伝統武術の招法とともに、撲撃(ボクシング)、摔跤を訓練させていたことは有名です。)
 
おそらく修剣痴は、擂台形式の試合の「裁判(審判)」として、修行歴の浅い国術訓練所の若手選手の前に、修行歴の長い伝統武術修行者が次々と敗退していく光景を目に焼き付けながら、今後、このような形で武術の実力が試される新しい時代になったとき、自らの武術をどう時代に適合さえ、生き延びさせていくかについて、様々な思考実験を行っていたと想像できます。
 
それでは、当時、修剣痴は何を考えたのでしょうか。これを探る上でヒントとなる文献があります。

修剣痴後期の徒弟である劉泊泱の生誕110周年(2018年)を記念して徒弟たちが作成した記念文集の冒頭にはこう書かれています。少々長いのですが以下、引用・訳出します。

「解放以前の1930年代の中国においては、民衆の暮らしぶりはとても苦しかった。生活のためにも、武館の経営をやりくりするためにも、広く徒弟を集める必要があった。いかにすれば徒弟たちが五行通背拳に興味を覚え、武館に留まってくれるのか。つまり、技撃としての独自の実戦性を保ちながら、しかも見た目の良さ(观赏性)を両立できるのか。そうできるのなら、徒弟たちは、永く鍛錬を続けて行けるだろう。

だが、そのためには、単操の招勢のみを教え、(教えられる)套路がないという現状を変えて行かなければならない。単操(の練習)は面白みに欠け(枯燥)、技の連続性にも乏しい。(単操のみでは、)実戦において、連続して攻撃し続けることができず、また、攻防の駆け引きを霊活に行うこともできない。

(中略)

劉泊泱は修剣痴大師とともに、議論や研究を重ね、迷踪(秘宗)拳の套路を参考にしながら(借鉴)、五行通背拳の各種単操を選んで合理的に組み合わせ、実戦の場における連続した攻防の招勢に適用したものとなるように整え、修剣痴大師の許可のもとに、五行通背拳の(徒手)套路と器械套路とを(修大師と)共に作りあげた(共同创编)のである。」

(呉維中編 「猿臂神掌 劉泊泱」2018年)

この文章には、套路の目的として実戦場面を想定した攻防の駆け引きや、連環技法(連続攻撃)の習得が挙げられており、また、五行通背拳套路の創編が修剣痴と劉泊泱[*2]との共同作業として行われたことが明記されており、大変興味深いです。
 
引用文を踏まえれば、修剣痴は、湖南省擂台の光景に衝撃を受け、伝統的な祁家通背拳の「単練(単操)」を中心とする武術体系を見直し、擂台散打への応用も念頭に、実用性の高い套路の創編に取り組んでいったものと考えることができそうです。
 
修剣痴にとって、套路は、最早単なる「飯のタネ」ではなく、対抗性競技(擂台)の試行に象徴される武術の近代化という大きな流れに沿って、自らの武術を新たな時代に適合させていくための一つの方途という位置づけを与えられていったのではないかと考えます。
 
[*2] 劉泊泱(1908年-1985年)は、もともと高玉春に師事し迷踪(秘宗)拳を修め、若干22歳で武館を開設した天才肌の武術家であり、各種の徒手套路や長短の器械を学び、六合大槍にも優れていたようです。
  劉泊泱が修剣痴に師事したのは1932年頃とも、37年頃とも伝えられています。これを踏まえれば、修公と劉泊泱とが共同で套路を創編し始めたのは、1930年代半ば以降、おそらく修剣痴が湖南省滞在及び南方歴訪を終え、大連へ帰還した後と見るのが妥当でしょう。
 劉泊泱はおそらく身体能力に優れ、修剣痴の要求する套路の動きをその場で直ちに再現し、また秘宗門套路で得た知見を活用しながら、通背套路の創編にあたり、修剣痴に有益な助言を与えていたと言う協力関係が存在していたと推察されます。

<理由3> 国民体育としての「国術」への眼差し

先ほど、修剣痴が湖南省において、軍隊(国民党系)付の武術教官を務めたと記述しました。この時、修公が具体的にどのような指導を行っていたかについて、詳細な記録は確認できません。(兵士たちに武術を指導する目的は、一般的には、兵士の基礎的な体力増強のほか、白兵戦時の近接格闘(CQC)における対処能力向上と理解されます。)
 
湖南省主席の何鍵等の上層部が修剣痴による部隊指導の様子を視察する機会もあったでしょう。政府・軍部の要人による視察の場面を想定した際に考えられるのは、兵士たちによる何らかの集団演練(集体演練)[下記に参考映像]です。

上記の動画は、1930年代に湖南省で開催された武術大会の模様を撮影した記録映像です。
 
兵士たちが一糸乱れず、集団で同じ套路を打つ。これだけでも部隊の規律や一体感をアピールすることができます。極めて分かりやすい武術指導の成果です。
 
この関連では、20世紀初頭、先駆的な取り組みがありました。

軍籍に身を置く武術家 馬良(講武堂出身)が、欧米式の軍事教練にヒントを得ながら、兵士たちへの武術指導を集団で行う方式を含む「中華新武術」を提唱したことです。
 
馬良の著作では、「口令(令号)」に従って、集団が同じ技を演練する武術指導法が解説されています。それは、集団での「単式」の練習から、「連環技法」の練習を経て、二人一組での「対人練習」へと繋ぐ、極めて体系的な学習プログラムでした。
 

(馬良著 「中華新武術初級拳脚科」1917年)


今日であれば当たり前のことでしょうが、20世紀初頭においては、このような号令による集団での武術指導は、かなり斬新な法式であったはずです。

これは一人一人の能力・特質を踏まえながら丁寧に、時間をかけて指導をしていく伝統的な祁家通背の武術指導法とは大きく異なり、短期間で一定規模数の人員を一定水準の練度に高めることを優先する指導法と言えます。
 
そして、注目されるのは、修剣痴が晩年に上梓した武術理論書「国術之領」(1951年)に、『小連環』の動作解説に続き、「皆以口令。集体教練。(号令に合わせ、集団で教練する。)」という記述があることです。
 
この一文は『小連環』という套路が、集団での演練を念頭に整備された套路であった可能性を示唆するもので、修剣痴が湖南において兵士たちを集団教練した経験を反映した結果かも知れません。
 
ところで、武術が「国術」という新たな概念で語られるようになったのは、1927年に樹立された南京国民党政府の統治下においてでした。
 
南京中央国術館は、中央政府指導のもとに、武術の発掘・研究・指導者育成を図ることを目的に設立された機関であり、この時代の国民党政府の取り組みを象徴するものです。
 
この初代館長である張之江(1930年代、湖南省での武術大会にも臨席し、表演。前掲の動画を御覧ください)は、以下のような言葉を残しています。

「強国の本は強種であり、強種の本は強身にある。而して強身の本は、国術を以て唯一の方針としなければならない。」

(「訓令全国学校定国術為体育主課案」における建議(1928年5月))

「国を強くするためにはまず種族を強くしなければならず、種族を強くするためにはまず身体を強くしなければならない。」

(中央国術館設立大会宣言(1928年3月))

「国術は体用兼備であり、強身強種と同時に白兵戦闘の技術を増進することができる。」

(中央国術館設立大会宣言(1928年3月))

強国-強種-強身を貫くものとして武術。これが、すなわち「国術」です。このように「国術」には、大変強い政治的な意味合いが込められています。(南京中央国術館については、林伯原著 「近代中国における武術の発展に関する研究(1998年)」第五章 中国における武術のスポーツ的確立(1927-1949)304頁以降を参照、一部引用)
 
この時、武術は単に個人にとっての制敵護身の技術から、国家に役立つ人材の育成という新たな使命を与えられるに至りました。
 
1928年5月、南京国民党政府は教育部主導のもとに「訓令全国学校定国術為体育主課案」を採択し、学校体育のなかにおける「国術(武術)」科目の正式な編入、強化を進めていきます。
 
学校教育の場においても、軍隊と同様、大勢の生徒たちが一堂に会し、集団で練習する形式が一般的となり、このため「口令(号令)」を使用した武術指導が普及していきます。上掲の1930年代の湖南省武術大会動画においても、女学生が徒手武術の対練型を演練するなど、大変興味深い歴史的事実がわかります。
 
修剣痴は、1931年の拳譜の「自序」で、「国術」という概念にはまだ触れていないものの、自らの武術(なぜか「五行拳」と呼称)が、「軍や警察の各界人士のみならず、年若き女性も皆練習できる(不唯軍警各界閏門中少女皆可練習)」と記し、武術が万人に開かれたものである点を強調していたことは特記されてよいと考えます。
 
修剣痴は、1930年代、湖南省における国術考試の開催や、国術訓練所における学生指導、また、軍隊における訓練科目としての武術指導、そして、学校教育の場における女子学生も対象に含めた武術指導など、極めて実験的な取り組みについて見聞を広めるなか、中華民国期に生まれた「国術」の考え方に強く共鳴しつつ、『小連環』をはじめとする通背拳套路の創編、改訂を進めていった可能性が考えられます。

こうした湖南省滞在体験を経て、後に執筆された「国術之領」(1951年)の序文で修剣痴はこう記しています。

「拳術の道は小さき技とは言えども、国家の盛衰、民族の強弱と密接な関係を有している。(夫拳术之道,虽为小技,然与国家之盛衰,种族之强弱,有密切之关系。)」

(修剣痴 著 「国術之領」序 1951年)

この序文冒頭部分は、修剣痴が武術の国家的使命や社会的役割について明確な意識を有していたことを窺わせます。

そして、この「国術之領」においては、上述のとおり、套路『小連環』を号令に従い集団で練習できると説明しつつ、これ以外にも(一)幼い子どもたちでも取り組め、「一人で練習しても良いし、集団での教習も行え、号令により操練する(一人単練或者集体教練。皆以口令操練)」易筋経的な健康体操(「易筋操之原則」)、また、(二)通背拳の基本功や単操(摸魚式、獅子張口、順手索羊など)から養生効果の高い動作をとりあげ、高齢者から幼女まで取り組める練功法に改編したもの(「健康益寿操之法則」)、更には(三)通背拳の単操を組み合わせつつ内功を重視して編成された比較的ゆったりとした動きの套路「小周天」を紹介するなど、武術が国民の体育(からだそだて)に資する可能性を研究、提案して見せています。

1949年、国共内戦が終結、新中国が発足します。
 
中国共産党政権の下、1952年、国家体育運動委員会は、民衆への普及を図るため、正式運動種目として、「武術」を位置付けます。これは国民党政府時代の刻印が押された「国術」から政治的決別を図るため、新中国が打ち建てた新たな概念用語です。
 
しかしながら、修剣痴が晩年に記した「国術之領」は、上述のとおり、幅広い年齢層の健康の維持・増進にも資する武術の在り方をも構想していたと考えられます。これは簡化二十四式太極拳や八段錦なども含めた国民のための体育(からだそだて)としての武術の可能性をも展望したものであり、新中国時代の「武術」をある意味先駆けるものだったと言えるかもしれません。

おわりに

後半は『小連環』という枠を超えてしまいましたが、『小連環』の誕生を巡る歴史探索は、必然的に修剣痴の武術観の変遷を辿りなおすことにもつながる作業でした。
 
修剣痴による套路の再評価、『小連環』等の套路の創編は、最初は武館の経営難を改善するための対策として始まりましたが(第一期)、湖南省における散打競技審判を通じた経験を契機に、連環技法等技撃性の高い要素を取り入れた套路の有用性への気づき(第二期)を経て、集団教練などを通じた国民体育としての武術の可能性を展望する(第三期)など、重層的にその意味合いを豊かにしていったと考えられます。
 
修剣痴の晩年は、中華民国から中華人民共和国へと政治体制が移り変わる、激動の転換期でした。

修剣痴が晩年に思い描いた、来るべき社会における武術の姿は未完のままに終わりましたが、彼の残したメッセージは、現代を生きる我々通背拳修行者たちにも力強く、そして深く響いて来るように感じます。
 
長文を最後までお読みくださり、ありがとうございました。

来年は更にオタク度を増して、研究を進める予定です。皆様、良い新年をお迎えください。

(2024年12月27日 脱稿)

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