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『PSYCHO-PASS』における悪のカタチ。誰が槙島聖護を生み出したのか。

 5月の新作劇場版に向けて、『PSYCHO-PASS』を見返しているけれど、これがめっぽう面白い。『2』も好きなのだけれど、描かれる悪の形、ひいては「槙島聖護」という存在があまりに魅力的すぎて、シリーズの中でも群を抜いて一作目が面白いと今でも感じる。『3』は……まだ保留でお願いします。

 人間の心理状態や性格などの数値化が実現し、犯罪行為に手を染める可能性の高い者を「潜在犯」として裁くことが可能となった近未来の日本。治安維持のため奉仕する公安局の刑事は「監視官」と呼ばれ、これまた犯罪係数が高い刑事を「執行官」として飼いならし、街に潜む潜在犯を狩る。巨大なインフラによる管理統治と相互監視が織りなすユートピア、その恩恵の裏に内在するディストピア性を交互に描く『PSYCHO-PASS』は、システムや社会秩序のレールから外れた者を容赦なく排除することでクリーンな社会を維持しようとする。ところが、現行のシステムでは裁けない悪が存在したらどうする?という問題提起が服を着て紙の本を読んでいる。これが槙島聖護である。

 システムに従属する在り方を否定し、シビュラによる統治を転覆させるために複数の凶悪犯罪を手助けし、自身もシビュラへの直接攻撃やバイオテロの実行のため行動するなど、強烈な印象を残す槙島聖護。彼は犯罪係数が正しく計測されない「免罪体質」という性質があり、シビュラ法治の世界においては裁くことが出来ない悪としての最大の特権を持ち合わせている、無敵のような存在だ。朱の友人を彼女の目の前で殺害し、しかしドミネーターの引き金を引くことが出来ない、というショッキングなシーンと共に彼のイレギュラーぶりが鮮烈に描かれる。

https://psycho-pass.com/archive/sp/character/tv1.php

 無論、彼の行った行為は許されざるものばかりだ。しかし、免罪体質であるということはすなわち、「他人とは違う」「異物である」というレッテルを社会(シビュラ)から押し付けられたも同義である。人間から自由意志を奪うシビュラ(かつては“ビッグブラザー”と呼ばれたであろう)を悪とした時、そのシステムからこぼれ落ちた者も悪となり得る。槙島聖護という名の大量殺人鬼を生み出したのは、理想化された社会そのものなのではないか?という問いが中盤から提示されていく。

 その上で本作はさらなる飛躍を見せる。この社会を統治するシビュラとは、人間の生体脳を繋ぎ合わせた広大なシステムであり、彼らは槙島聖護のような免罪体質者を自らに取り込むことでイレギュラーを潰し、完全になろうとする。スマホのアプリがアップデートで機能が改善したり拡充したりするような動機で、犯罪者の脳を取り込み肥大化していくシステムが、社会のインフラとして蠢いているという醜悪さ。この第1期には原案・脚本として虚淵玄が関わっているけれど、『魔法少女まどか☆マギカ』におけるコスト問題、言うなれば「健全な社会維持のために犠牲になっている誰か」の視線がふいに襲い掛かってくる、その恐ろしさが露悪的で面白い。

 ディストピアものであれば、この世界を統治する仕組みこそが「悪」であり、それを打破しようとする者は革命者として英雄になるか、安寧を奪われて処刑されるのが顛末だろう。それに従うなら『PSYCHO-PASS』は異例中の異例であり、シビュラシステムという悪から槙島聖護という悪が生まれ、その悪行によって犯罪係数を高める者が犯罪者として裁かれ続ける。悪というものは社会の「外」よりやって来て、「内」側を破壊する。と思えば、すでに社会とは悪そのものを内包し、悪が同族を喰らうことで平和が維持されている。一度稼働したシステムはもう止められないという不可逆性こそ、常守朱が抱える嫌悪感の正体なのだ。

 それらを踏まえると、本作の結末は苦くとも、実に大人だな、と思ってしまう。シビュラがすでに日本社会全体に根付くインフラである以上、それを転覆させることは朱一人では不可能だし、シビュラによって恩恵を得ているという事実や社会の雰囲気を日々感じているからこそ、一概に切り捨てることもできない。シビュラもまた、朱を「人々がシビュラの本質を受け入れるためのサンプルケース」として泳がせることで、自身の新たな進化(深化?)を模索する。人間もシビュラも、生きていかねばならない。だからこそ、今のところは共存する。いや、しなければならない。人が社会を選ぶのか、社会が人を選ぶのか。この問いを常に抱き考えていくことが『PSYCHO-PASS』シリーズの基礎として強く打ち付けられていることは、後の作品からも強く感じられる。

 そうした悪の輪廻の中で、槙島聖護だけが血の通った人間として映えるのは、彼だけが肉体を持つということのみにあらず、「孤独」に対する強い拒否感こそが全ての犯罪の動機に接続していることが示唆されている点にある。シビュラ統治下では“正しく”裁かれない槙島は社会の中では常に異物であり、当のシビュラは自分たちの一部になれと彼に合一化を迫るのみ。ゆえに彼は槙島聖護という「個人」をさらけ出せる社会を、関係性を欲し、やがては狡噛慎也にたどり着いた。そして最終決戦において槙島の笑顔を引き出したのは「自分の存在の代わりはいない」という実感であり、その充足を得てから狡噛によって裁きを受ける。

 自身が常に人生を歩むプレイヤーたらんとし続けた槙島聖護が、機械的かつ冷徹なシステムからの一方的な判定でなく、人間(狡噛)から一人の人間として裁かれることで収束するこの物語は、彼がこの管理社会に投じた小石に過ぎない。しかし、一度広がった波紋は確実に社会を次の段階へと変革させていく。その方向性が良しにしろ悪しきにしろ、社会で爪弾きにされてきた個人が一矢報いる結末は、不謹慎だが痛快に感じないだろうか。あるいは、強烈な疎外感を日々感じながら生きている人間がいるとして、その人の中に「槙島聖護」の因子が全くないと、果たして言い切れるだろうか。

 槙島聖護は圧倒的な悪のカリスマであり、社会の根幹を揺るがすテロリストであり、自分を見つけてほしいと泣き喚く子どもでもある。その末恐ろしさと同居する切なさのようなものに、つい感情移入してしまう。だからこそ槙島聖護は忘れがたく、『PSYCHO-PASS』は傑作なんだと、言い切ってしまいたい。

余談:鹿矛囲桐斗という「限界」

 冒頭に“『2』も好きなのだけれど”と書き出しておいて、その気持ちに一切偽りはないし、片方をアゲて片方をサゲるみたいな論調はしたくないのだけれど、1期2期とでは「悪」の在り方に継承と変化があるな、というのは持論としてありまして。

 『PSYCHO-PASS2』における悪=シビュラでは裁けない犯罪者たる鹿矛囲桐斗は、とある航空機墜落事件の唯一の生存者ではあるが、その身体は自分以外の犠牲者の身体を繋ぎ合わせた複合体である。故にシビュラには「生きた死体」として認識され、その犯罪係数を測ることが出来ないどころか、一人の人間としてすら扱われないというカラクリがあった。鹿矛囲もまた、槙島同様に生まれ持った体質(鹿矛囲の場合は後天的だが)によって社会の「外」に置かれた人物であり、その苦悩が数々の凶行への引き金になったことが語られる。

 それに対する物語の落としどころは、「シビュラが集団としてのサイコパス判定を導入する」というもの。個人では裁けなくとも、集団であれば潜在犯認定するだけのレンジを持つということだが、そうなれば潜在犯は増える一方だし、その更生の基準は一体どうなるのだ、といった批判は優れた頭脳を持ち合わせていない私でも容易に思いつく程だ。

 規則を変えれば、基準も変わる。これまで潜在犯でなかったものが潜在犯扱いされる、そんなちゃぶ台返しに誰が納得するものか。常守朱が警告するところの「魔女狩り」への危機感は、シビュラという社会規範の信ぴょう性を揺るがす大きな事案となるだろう。と同時に、鹿矛囲桐斗という存在がシビュラに変革をもたらすという意味では1期(槙島)と変わらないとはいえ、「槙島というイレギュラーをも取り込んで完全になろうとするおぞましさ」が強いショックを視聴者に与えたのに対し、2期では「シビュラが自己の不足を無理矢理改善する」話なので、スケールダウンした印象が否めないのだ。

 もう一人のヴィランである東金朔夜に関しては、まぁ、「シビュラになった母親を美しく保つ」なので、好きにやってくれ……という感じ。

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