『輪るピングドラム』感想:生きていていい証が欲しくて。
幼い頃、両親が離婚した。
母親の下で暮らすことになった私は、確かに片親だったけれど、何の不自由なく大人になれた。寝る所があって、着る服があって、学校にも行けた。離婚したことで虐められたり、過度に憐れまれることもなかったから、不幸の子どもを演じる必要も無かった。私は幸せで、恵まれていた。愛されていたんだと思う。本当に、心の底から。
『輪るピングドラム』を全話鑑賞した。レヴュースタァライト⇒ウテナの順で履修して幾原作品への興味が高まっていたこと、4月に劇場版の公開を控えていることが合わさって、土曜朝の二度寝への抗いがたい欲求を振り切って1話を再生。次回予告に進む頃には姿勢を正しスマートフォンからTVへと視聴端末を変え、お昼の映画の予定のキャンセルした。土日の休みのほとんどを、ピンドラに食べられてしまったのである。(以下、ネタバレ注意)
『輪るピングドラム』は摩訶不思議な作品だ。抽象的な表現と抽象的な台詞に溢れ、画面に映るものが現実のものかメタファーかを選別する必要があるし、常に思考を促される分消費カロリーが莫大になり、たった一周の鑑賞では全てを拾いきれないのは明白だ。さらに、本作が世にも珍しい1995年の“あの出来事”をベースにした2011年7月放送の番組という事実が、ついつい作品で言及されている以上のものを感じ取らせてしまい、思考が定まらない瞬間も多々あった。モチーフが強烈すぎるあまり、そこに引っ張られて見落としてしまうディテールが数えきれないほどにあったと思う。まだ他の方の感想には目を通してはいないけれど、有識者の思考を取り入れてアップデートする前に、素直な感想を吐き出しておきたい。
『輪るピングドラム』は、命乏しい最愛の妹を救うために奔走する兄弟の物語であり、16年前の過去に囚われた者たちが救いを求め彷徨う物語であり、それを見守る二対の概念が運命と闘う物語であった。「イリュージョン」と呼ばれるイクニ空間の中毒性、そこで語られる言葉が目くらましになっていて、登場人物が奪い合う「ピングドラム」とは何なのか、謎めいた日記に何の意味があるのか等を推理しながら観る羽目になるのだけれど、その実展開されていたのは渡瀬眞悧と荻野目桃果による破滅への欲望VSその回避、という対立軸だった。
1995年3月20日
その日、あまりに凄惨なテロがあった。たくさんの人が亡くなって、後遺症に苦しんでいる人も未だ多いという。現実ではオウム真理教が、作中では「ピングフォース」なる集団が行ったその行為の動機は、実のところちゃんと理解は出来ていない。日本を転覆するという野望は、どんな不満への反動なのか。「この世界は間違っている」などと高らかに言ってのける彼らの敵が何なのか、どうしても掴めない。
ただ、ピングフォースが後に「企鵝の会」と改名していることが、何かの手がかりになるのかもしれない。きが、とくれば連想するのは「飢餓」だ。では彼らは、何に飢えていたのだろうか。
作中、「こどもブロイラー」なる施設が登場する。そこは捨てられた子どもたちが集まる場所で、彼らは大きなシュレッダーで粉々にされ、「透明な存在」になってこの世から消えてしまうらしい。実際に存在するのかは怪しい非人道の極みみたいなシステムだが、メタファーとしては妙なリアリティがある。透明。誰からも認識されず、必要とされないまま、消えていく命。
子どもは生まれてくる家を、親を選べない。このことは「運命」に対する登場人物のモノローグや、高倉家の三兄弟が実は背負っている「犯罪者の子ども」という属性、その他登場人物の過去の描写から何度も強調される。社会的に最も弱く、会社等の組織にアイデンティティを委ねられない子どもたちが身を寄せるのは、家族や両親といった「大人」の存在が不可欠だ。では、大人に守られなかったら、愛されなかった子どもはどうなるのか。この世に生を受けた、唯一無二の尊重されるべき「私」である、という自信を得られなかった子どもたちは、社会に居場所を見つけられず絶望し、破壊思想に絡めとられる。
愛されなかった子どもは、透明になったまま、社会に飛び出していかねばならなかった。荻野目桃果に救われた者は、生き残った意味を模索し続けなんとか生き延びた。そして救われなかった者は、破壊者になるしかなかった。そんな哀しいルーティン(輪)を止めるために、桃果は現世にやってくる。瀕死の者の身体を借りて、と言うとなんだかウルトラマンのようにも思えるけれど、彼女は確かに大勢の人にとってヒーローだった。そして彼女は、最悪の運命に抗うべく現世に介入するために、生ける者の口を借りてこう叫ぶのだろう。「生存戦略!」と。
分け与える、ということ。
かくして『ピングドラム』とは、社会に居場所を求め彷徨う哀しい魂と、他者を愛し尊重する心の持ち主とが争う、世界を賭けた壮大な闘いであるらしいことが見て取れた。渡瀬眞悧らピングフォースは透明になった=誰からも愛されなかった子どもたちの集合体であり、テロに加担しなかった者は総じて愛を与えた/与えられた立場の者であるからこそ、この対立は意図的な構図であるはずだ。
こうして整理することで、作中明言されなかった「ピングドラム」とは一体何を指すのか、輪郭が見えてくる。月並みな言葉だけど、やはり「愛」が一番適当で、「運命の果実」の形をして他者から他者へ渡される、輪り輪る愛のリレーこそが運命の乗り換えという奇跡を満たすのだ。
「運命の果実を一緒に食べよう」という呪文。この言葉が美しいと思ってしまうのは、愛は与え/与えられるものであることを理解している者でなければ紡げないもので、だからこそ「一緒」という言葉が含まれていることの重みが感じられるからだ。自分一人では満たせない、他者から選ばれ認められることでその存在理由を確かなものにできるという愛の在り方を知っていた桃果は、たった一人で社会の残酷な構図(こどもブロイラーに代表される愛されない者たちへの無関心)に立ち向かった。そして幼い冠葉は晶馬に、自分のハコ(社会、とも読める)に一つだけあったリンゴを分け与えた。その時から二人は、血のつながりを超えた家族になり、「高倉家」という居場所を手にする。
このように、自分の犠牲を厭わない他者への施しを、本作は尊いものとして描いた。たとえ自分が飢えて死んでしまうかもしれなくても、その小さな手をバーナーで焼かれようとも、他者を守り、手を繋ぎ、一緒に生きる道を模索すること。それこそが愛であり、ピングドラム。人から人へ、それを受け取った人がまた別の人へ。輪るピングドラム。私たちは果実を分け合って、互いに愛し合うことで、この世界を生き抜いていくのです。
最後に
家のカレーが好きだ。お母さんが作ってくれる、お家のカレー。外で食べるカレーと家のカレーは、なんか違う。どっちも美味しいけれど、心まで満たされるのは家のカレーだ。
そういえば、リンゴを入れるとカレーが美味しくなるとは、CMでもよく聞く宣伝文句。あの赤い果実は、カレーを美味しくするための呪文にもなるらしい。美味しくなあれと祈りを乗せて、食べる人の笑顔を願って入れる、ヒミツの隠し味。家族の帰りを待つ間に煮込む、美味しい美味しい愛のカレー。あぁ、なんだか、お腹が空いてきた。