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後追いで観た『グレンラガン』と言う名のドリルに涙腺を貫かれた話

 自分でもずっと不思議だったことがある。例えば、気になった監督や作家、俳優が出来たとして、それらの人の過去作を遡って観るのはオタクをやっていれば呼吸と同じくらい当たり前のことだ。演技や演出の比較をすることで作風をより理解できるし、こういう物書きをするのであればなおさらだ。なのに、あろうことか、『天元突破グレンラガン』を、わたしは観たことが無かった

 noteでお付き合いの長い方ならご存知かもしれないが、誇張抜きで『キルラキル』が2019年においてもブッチギリで大好きだし、『プロメア』も応炎上映含め10回以上劇場に駆けつけ、『パンスト』も『ルル子』も『ニンジャバットマン』も『逆襲のロボとーちゃん』も『フォーゼ』も繰り返し観たというのに、監督:今石洋之×脚本:中島かずきの代表作である『グレンラガン』だけは、なぜか観ていなかった。

 その圧倒的な高評価はSNS等でも伝え聞いていたし、現TRIGGERスタッフが手掛けた作品なだけあって、ハズレなわけがない。だからこそ敬遠していたというか、腰を据えて観られる体調や環境が整うまで封印していたのである。そんな中、いまだ『プロメア』熱も治まりきらない2019年夏、久方ぶりに長期休暇に恵まれたこのタイミングでの視聴に踏み切ったのだが、これがマズかった。ただでさえ殺人的猛暑が続くというのに、冷房のある室内にいながら脱水症状に近いレベルまで泣かされ、少し体調を崩してしまった。やはりこのお二方が揃った作品は、自分にとってあまりにクリティカルに刺さってしまい、冷静ではいられなくなる。もう不朽の名作として認知されている作品で、ネタバレを考慮する必要もないと思うため、思いの丈を書き残しておきたい。

 『天元突破グレンラガンを身も蓋も無く要約すれば、「少年が大人の男になる」物語である。故郷を離れ師を仰ぎ、時に辛い別れを経験し、責任と使命の間で彷徨いながら恋を育むというような、文章にすると呆気なく感じるほどによくあるお話だ。だが、王道の醍醐味を理解し、それを極限まで煮詰め熟成したものを足し算的に重ねあわせ、ボリューム過多だが丼からはみ出さない絶妙なバランス感覚でお出しして、それに受け手(視聴者)が驚愕し涙するのがこの今石×中島食堂の味わい方。そんな黄金コンビの原点となる本作もまた、マグマのごとく全身の血が滾る”アツい”一作なのだ。

人類が地下で生活する世界で、穴掘りが得意な少年シモンは、親指大の小さなドリルと巨大な顔を持つロボットを発見する。シモンはその発見を兄貴分であるカミナに見せるのだが、突如村の天井が崩れ、巨大ロボットとそれを追っていたライフルを持つ少女・ヨーコが落ちてくる。成り行きで巨大顔ロボット=ガンメンを操縦したシモンは敵ロボットを打ち倒し、獣人に支配された地上を三人で旅することになる。目指すは人間が地上で生活できる未来に向けて、グレン団の結成が果たされる。

 キルラキル⇒プロメア⇒グレンラガンという一風変わった履修順で挑んだ本作で、「いよっ、待ってました!」という心持ちにしてくれたのがカミナという男だ。熱血漢で情に厚く、歌舞伎風の見栄を切る半裸の男と言えば、どうしてもガロ・ティモスが頭に浮かぶ。半ば生き写しか?と思う程に親和性が高く、両者を取り換えても作品が成り立ってしまうのではないかと邪推するほどだ。カミナはシモンが呼ぶ通りの「アニキ」的な立ち位置で、その場の根性や気合いでグレン団を引っ張っていく、頼れる男。物語の発端は地中暮らしを拒み「ここではないどこか」を求めるカミナの好奇心からで、さながら『スター・ウォーズ』のルーク・スカイウォーカーを彷彿とさせる(性格は全く異なるが)。

 主に序盤の主役を務めるカミナは作中の登場人物にとっての精神的な支柱として存在し、そのカリスマ性に惹かれる形で「グレン団」に個性的な仲間たちが集まっていく。キタンを長兄とした黒の兄妹やオネエ言葉の天才メカニックのリーロン、とある宗教に支配された村を出る形で合流したロシウやギミーとダリーといったように、6話まではグレン団のメンバーが集う様子が描かれていく。ヨーコもカミナの漢気に徐々に惹かれ、女の子らしいいじらしさが見え始める。

 そんなカミナに憧れるシモンは、まだ何者にもなれない臆病者として描かれ、序盤は彼の気弱さや頼りなさが何度も強調される。カミナという頼れる存在に甘えた、未熟者としてのシモン。だが、主人公のバトンはカミナの死という残酷な形でシモンに渡ってくる。

 グレンラガン8話「あばよ、ダチ公」は序盤のハイライトと言っていい。獣人からガンメンを奪い戦力増強を果たした大グレン団(人数が増え改名)は、こちらから獣人の本拠地の襲撃に打って出ることに。そこで獣人を支配し人類を抑圧する螺旋王とそれに下る四天王の存在が明らかになりつつ、四天王の先鋒・チミルフとの激しい闘いの中、前夜のカミナとヨーコの逢瀬を見たシモンは集中を欠き、思うようにラガンを動かせない。その様子を見たカミナは「お前が信じるお前を信じろ」とシモンに発破をかけ、必殺のギガドリルブレイクで敵を倒す。しかし、戦闘中の負傷によってカミナは命を落としてしまう。

 『グレンラガン』は作画のカロリーがとにかく高いことに定評があるが、8話はそういった意味でも最初のピークであった。複数の人型ガンメンと艦隊級のガンメンがビームを打ち合いながらひしめき合うアクションに、劇画タッチに描かれたカミナの躍動感、そして待ちに待った必殺技シーンの溢れんばかりのエネルギーに、もはや生理的に涙を流していた。アツい映像×アツい名言×声優の熱演という今石×中島流「燃えの足し算」が極まったとき、理屈を超えて身体が落涙で反応してしまう。そこまで上がりきったテンションを、主人公の死という衝撃の結末によって地にまで落とされる。容赦の無い展開に感情が追いつかず、しばらく何も手に付かなかった。

 カミナの喪失から立ち直れないグレン団だが、獣人たちは待ってはくれない。自暴自棄な闘いを繰り返すシモンは、ガンメンによって廃棄された箱に収められていたニアという少女を預かる。実はニアは螺旋王の娘でありながら感情が芽生えたがために捨てられたという背景を持ち、外界を知らないため世間知らずの好奇心旺盛な女の子。その純粋な心がシモンを「ただのシモン」として受け入れ、シモンは立ち直る。

 大グレン団の信頼を失い、ラガンからも拒絶されてしまう絶望的な状況から、「女の子を救いたい」という一心で己を取戻し、「人は誰かの代わりになんてなれない。俺は俺だ」というシンプルなメッセージをただただ実直に投げかける。これが痛快なのだ。メッセージ自体に捻りや新鮮味が無くとも、シチュエーションと音楽と台詞と映像で、視聴者を問答無用に「ノせていく」感覚。今石×中島アニメを観る上で一番好きなライド感を存分に発揮したこのシーンで、シモン同様に視聴者もまたカミナの死の悲しみを乗り越え、シモンがこの物語の真の主人公だと改めて意識することに。

 グレン団のリーダーとして復帰したシモンはその後四天王を次々と打ち破り、螺旋王ロージェノムとの最終決戦へ。獣人たちの創造主にして、人類を地下に追いやった張本人だが、それは人類を救うためだと豪語する螺旋の王。1クール最終回(といっても15話だが)に相応しい、主題歌が流れる中開かれた総力戦は、またしても涙腺に刺さる。その死闘の末にシモンは勝利するが、ロージェノムは死に際に「100万匹の猿がこの地に満ちた時、月は地獄の使者となりて螺旋の星を滅ぼす」という言葉を残す。その真意を知るには、なんと7年の歳月を必要とした。

 総集"片"を挟んでからの17話以降は、螺旋王との決戦から7年後の世界が描かれる。少年から青年になったシモンやロシウなどは観ただけで感慨深く、地上に進出した人類は獣人と共存しながら我々が生きる現代社会と謙遜ない程に文明を進化させていたことに、驚きを隠せない。ガンメンもロートルと化し、大グレン団は政治の世界に足を踏み入れるのだが、元々アウトローの彼らと政治の相性は最悪で、総司令官補佐官のロシウとはギクシャクした空気が漂う。

 シモン、ロシウの気がかりは、ロージェノムが最期に残した言葉。人口の計測を進める最中、突如として「アンチ=スパイラル」と名乗る謎の敵からの襲撃を受ける。ヒト=螺旋族に宿る強大な進化への欲望と、その果てが絶滅と虚無であることを知る反螺旋族アンチ=スパイラルは、100万人目の人類が産まれたその瞬間に螺旋族殲滅プログラムを発動させたのだ。ニアは彼らのメッセンジャーとして覚醒し、3週間後に月が地球に落ちると宣告。ロシウは人々の動揺を抑えるため、シモンの戦争責任を追及し、彼の死刑を宣告する。

 これまでの闘いこそが人類滅亡のトリガーであったことを突き付けられ、仲間だったはずのロシウから民衆の怒りを鎮静化するための生贄に祀り上げられるシモン。ニアを救いたいという、これまでのクールでは「是」とされてきた気合いや心情に基づいたシモンの行いが、政治や責任といった言葉で否定されていく。

 こうしたショッキングな展開の続く第3部の肝は、シモンとロシウのどちらをも視聴者が否定し切れない、アンビバレントな感情に苛まれるところにある。ニアも救うし、月を破壊して地球破壊を阻止しようとするシモン(=大グレン団)と、限りある人数であっても人類やその他生命を生き永らえさせようとするロシウ。それぞれは「人類を救う」という同じゴールを目指しながら、救える人数に大きな隔たりがあり、それを互いが受け入れられない。ただし、手をこまねいていては絶滅という結果は避けられない。

 ロシウとて、好き好んでこのようなヒールに徹しているわけではないだろう。人類側の実質的な指導者として、種の存続そのものを左右する局面に立たされ、最大限の努力をする。全てを救えないのなら、切り捨ててでも全滅を回避する、というのは「大人」としての選択だ。切り捨てるのが嫌なら、代案を出すしかない。

 この問答に対し、現実的なジャッジを下すことは出来ない。どちらも正しいからこそ、否定できないからだ。ただし、本作においては月もぶっ壊してニアも救うという「全部諦めない」が絶対のゴールとして掲げられる。なぜなら、「無理を通して道理を蹴っ飛ばす」のが大グレン団であり、そこに物語を観る意義があるからだ。

 人類生存のための箱舟というモチーフは『プロメア』においても用意され、絶対的な滅びに対し諦めない主人公という座組みも、やはり共通している。大グレン団の掲げる「無理を通して道理を蹴っ飛ばす」とは、ガロとリオがそうしたように、どんな無理も気合いと根性で押し通すような、そんな痛快さに満ちている。『プロメア』においては「バーニッシュ」という突然変異種が登場し、彼らは世界から受け入れられなかったマイノリティーの投影であった。そんなバーニッシュたちへの迫害の解決方法が「非現実的」という批評を目にしたことがある。確かに、作中のように迫害の原因そのものを強引に取り除くという解決法は、現実において採択されることはない。身体的特徴であったり、長年に渡る因縁や因習によるものがほとんどで、それを簡単に無くすことが出来れば誰も困りやしないのだ。

 だが、こうした熱量度量だけで問題を跳ね返すようなエンターテイメントも、この世に必要ではないだろうか。完全無欠のヒーローが悪を征する物語に拳を振り上げたように、あらゆる困難や絶望を打ち砕いてくれるカッコイイ奴らが、この上なく大好きなのだ。現実では果たされない希望を、フィクションに託して何が悪い。そう言わんばかりの大グレン団最後の闘いに、またしても涙が止まらない。

 ヨーコの助けで脱獄したシモンは、グレンラガンで宇宙に出撃。人類の乗せた箱舟ことアークグレンと合体してアークグレンラガンとなり、アンチ=スパイラルの刺客を撃破。さらには月に偽装した大戦艦を制御可能にしてしまい、地球への衝突回避に成功する。しかしニアは敵本陣に召喚され奪還はならず、最後の闘いに挑むことに。

 続く第4部は、毎回毎話に体中の水分を搾り取られた。獣人族のヴィラルとの共闘、悪と思われていた螺旋王ロージェノムの立場や価値観の逆転と意外な復活、仲間たちの自己犠牲…。アツいシチュエーションを盛りに盛って完成したドリルが、観る者のハートに刺さって心のエンジンを灯す。

 ついに現れたアンチ=スパイラルによって、本作は哲学的な領域へ到達する。行き過ぎた進化の果てにあるのは自滅。それを知るからこそ反螺旋族は「個」を自ら封印し、進化を否定して生存してきた。一方、便利な生活を手にした人類はテクノロジーを手放すことが出来ず、その生活基盤を造り上げた英雄であるはずのシモンへの激しい糾弾を行う。自ら進化しようとする心=螺旋力の増大に対し、民衆はその扱いに戸惑い、時に否定する愚鈍さを見せる。例えばこの螺旋力を「放射能」に見立てた時、これとどう向き合うのかは我々が生きる現実の問題と接続する。

 そうした「人類の進化」というテーマに対し、「ドリル」というモチーフが小気味よくハマっていく。ドリルとは「掘り進む」ための工具であり、前に進む原動力そのもののメタファーとして機能する。闘いの中で徐々に感情を露わにしていくアンチ=スパイラルが投げかけた「飽くなき欲望の果てにあるのは滅亡のみ、自らの行いに大義があるのか、信念をもてるのか、突き進む覚悟があるのか」という問いに対し、明日を生きる意思をドリルに託して一点突破するシモン。穴掘りシモンの真骨頂は、みんなが進む道を作る(掘る)こと。カミナが、大グレン団のみんなが憧れたシモンの在り方そのものが、多元宇宙を支配する絶望を凌駕する。このカタルシスを象徴するのが、小惑星規模に肥大化した「天元突破グレンラガン」だ。こんな凄まじいものを観せられて、泣かずにいられようか。

 一人の少年の成長に寄り添い、その過程の中で出会いと別れ、立ち塞がる強敵や背負った責任と向き合いながら、それらを跳ね返す気合いと愛と友情にて宇宙は救われ、物語は帰結する。その根底にあるのは、カミナが残した力強いメッセージ。

お前を信じろ
お前が信じるオレでもない
オレが信じるお前でもない
お前が信じる お前を信じろ

 この言葉とシモンの背中が全編を貫くドリルとして存在し、それに呼応して各キャラクターが各々の根性で為すべきことを果たす。それはもっともっと大きなドリルに合体して、どんな困難をも天元突破する。こんなに暑苦しくて愛おしい青春物語があったなんて。誰もが『グレンラガン』に熱狂する理由を、後追いで実感することができた。

 結論としては「早く観ておけばよかった」し、キルラキルやプロメアに心奪われた今だからこそ感じる面もあり「今観て良かった」とも思える。アツくて泣けてスカッと気分晴れやか、今石×中島コンビへの信頼感がますます上昇して、次なる新作が待ち遠しくて仕方がないのである。


次 回


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