『戦姫絶唱シンフォギアGX』奇跡を呪う者、奇跡を繋ぐ者。
実に勝手な話になるが、私は作品やその作り手に「信頼」を寄せてしまうところがある。このシリーズなら、このクリエイターなら、きっと自分が好きな展開や盛り上がりを作品に込めてくれるであろう、と。カレーを頼んだらちゃんと美味しいカレーが出てきて、時折大きなカツが乗っていて、極稀に卵とウインナーまで乗っかる時があって、そういうカレーはすかさずオールタイムベストにまで食い込んでしまう。そんな一皿が出てくるのではという期待を背負い、作品に向き合うことがあるのだ。
それは一方通行の片思いではあるのだけれど、少なくとも1期2期とシリーズを追っていくにつれ、私は『シンフォギア』というブランドにその期待を抱きつつあった。初代から『G』への進化を踏まえれば、前作を越えんとするクリエイターの志が織り込まれた『GX』は、とてつもないものになるかもしれない。これまでの価値観を揺るがすほどの超新星に出会えるかもしれない。そんなワクワクを胸に、未知なる三期に臨む。
結果から言えば、その期待は半分報われ、半分は叶わなかった。
まずはシンフォギア名物、最初からクライマックスな1話について。前作『G』においてノイズの脅威が無くなった今、装者と二課たちは人命救助を主な任務とする組織へと再編された。それを示すように、宇宙空間で展開される、墜落するスペースシャトルの救出任務に挑む響・翼・クリスの三人。それぞれがシンフォギアの能力を全開に、窮地を脱していく。ダイナミックに自然を破壊し、K2の標高を大幅に削りながらも、一人の死者も出さずに救出に成功。響の願う「人助け」のスケールを限りなく大きくさせた、冒頭のツカミで『GX』のボルテージはいきなり最高潮に。
そこから、平和な学園生活と、「QUEENS of MUSIC」のライブへと移行。ノイズや月の落下といった人類全体の脅威が去り平穏になったことを示すように、翼とマリアの楽曲も明るいアイドルソングへとシフト。これまでの閉塞感が嘘のような世界の中で、F.I.S.組だけは未だ咎を背負いながら生きており、マリアも決して自由の身ではないらしい。
再び、場面は救助任務へ。ここで描かれる、「装者たちの歌が、助けが来たことを要救助者たちに知らせる」という役割を持つことが、最高に滾る。シンフォギアの歌が、世界を混乱させるものではなく人々に希望を灯すものであることは、彼女たちが大衆から求められる英雄であり、かつて敵として猛威を振るったクリスが受け入れられ、響が響らしく生きられる世界であることの証となるからだ。生きることを諦めない。奏から受け継いだ想いを伝播させるように、響は決死の救出作戦に身を投じる。
そんな第三期における敵とは、錬金術師。キャロル・マールス・ディーンハイムと四体の自動人形で構成された小さな組織は、従来のシンフォギアをも破壊する能力を持つ新たなノイズを従え、装者たちに迫る。その目的は、地球という惑星の分解。かつて人々の無理解によって火炙りにされた錬金術師の父の命題に沿い、錬金術を用いて惑星そのものを分断させんとするキャロルは、まさに『シンフォギア』らしい人々の不和による被害者であり、復讐者だ。
そんなキャロルとも手を繋ぐことが出来るのか―。シンフォギアを相次いで失う翼とクリスに、LiNKERの投薬がなければ思うように闘えないF.I.S.組、そして個人的な葛藤から一度はシンフォギアを纏えなくなり、その後戦線復帰するものの、またしても大きな悩みを抱えることとなる響など、どんどん悪化していく状況下で強敵が休む暇なく迫ってくる様は、前作をも超える緊張感を視聴者にも与え、実にスリリングである。
装者全滅の危機も迫る中、キャロルの元を離反した錬金術師エルフナインが提案した打開策は、シンフォギアの決戦機能の一つ「暴走」を聖遺物ダインスレイフの力で制御し我が物とする「イグナイトモジュール」の実装。装者が心の闇に飲まれればかつての響のように暴れ狂うことにもなる諸刃の剣だが、装者たちは自分の中の葛藤と向き合い、その力を手中に収めていく。
暴走状態を制御して得る新フォーム。まるで平成ライダーの中盤に設けられる強化を思わせるそれは、禍々しく変化するシンフォギア、そしてイグナイト用にアレンジされた楽曲が用意されたことで、否応がなくこちらのテンションを上げてくれる。先行きの見えない展開が続く前半部、その霧を割くように折り返し地点に用意された特大のカタルシスは、1話からずっとハイテンションで走り抜けた『GX』が自らその限界を突き破るものであり、一切の息切れ無くこの頂まで辿り着いたことで作品への評価も天元突破。前作『G』はおろか、その他のアニメをも凌駕するほどの勢いとポテンシャルを有していたことは、過言ではないはずだ。
そこから敢えて話数を飛ばすが、『GX』が琴線に刺さった瞬間として語っておきたいのが、本作には前作『G』の落とし前をつける、と受け取れるシーンがいくつもあったことだ。
アルカ・ノイズによってシンフォギアを奪われた翼とクリスの穴を埋めるように、LiNKERによる副作用に耐えながらも闘いの場に赴いた切歌と調。あるいは、闘えなくなった響に代わってガングニールを担ぐマリア。彼女たちはかつて月の落下から人類を救済するために奔走したものの、その手段は到底許されるものではなく、彼女たちは世界を混沌に導いた元テロリストという扱いに。その上マリアは「米国のエージェントだった」という物語を着せられ、またしても世界を欺く役回りを演じることを物語開始時点で背負わされている。その負い目を背負いながらも、自分の信ずる正義のため、あるいはかつての過ちを清算するかの如く、身を切って闘いに挑む三人の姿は痛々しくもあり、同時に彼女たちの責任感の強さを描き出していく。
そしてもう一人、サプライズ的に表舞台に復帰し、三人と共に過去の罪に向き合うことになったのは、みんな大好きドクター・ウェル。ネフィリムの左腕に備わる聖遺物を制御する力を利用するため、キャロルから救出されたウェル。見事チフォージュ・シャトーの起動に成功するも、世界を解剖したその後のビジョンを一切持たないキャロルに、ウェルは失望する。それもそのはず、ウェルは崩壊した世界において人々を導くことで英雄になろうとした人物であり、彼の中での「手段」に留まってしまうキャロルの目的には、到底賛同し得ない。
用済みとなり、キャロルから捨て去られたウェルだが、なんとここでマリアたち三人と再開。今度こそ世界を救わんとする元F.I.S.の三人と、ウェルとがここで手を組むという、予想外の展開へと移行。チフォージュ・シャトーのプログラムを書き換え、世界の再構築を行うというウェルにしかできないことをもってして、本人にとっては「キャロルへの嫌がらせ」でしかない行為が結果として崩壊する世界を救うという、彼にとっての禊が最終決戦で花開くのだ。
自分が英雄にならんとし、他の全てを蹴落とすことでしかその道を目指せなかったウェル。課せられた使命のため、世界や自分を欺き血を吐きながらも前に進み続けてきたマリア。本作『GX』の最終決戦は、彼らにもう一度与えられたチャンスであり、過去の罪への償いを果たすべく闘うことは、当人にとっても救いとなっただろう。あくまで嫌がらせのために動いていたウェルがそれを認識していたかどうかは怪しいが、少なくとも「英雄になること」の意識を捨てたことで結果として世界を救う英雄となり、そして死ねたことは、皮肉でもありながら同時にたとえ過ちを犯したとしてもやり直せるという、切なる希望でもあった。持ち前の憎めなさを撒き散らしながら、未来への希望を託していくウェルの姿は、不思議と涙を誘うのだ。
禊を済ませたマリアたちも合流し、最終決戦へ。響たちはイグナイトの力を用い、キャロルの繰り出す特大のフォニックゲインを制御することで、最強の姿へと変身。それは、前作『G』のクライマックスにおける奇跡の再演であり、歌を祈りへ、そして力へと変えたシンフォギア装者による最大の攻撃となるだろう。ところが、キャロルが憎むのは、彼女たちが見せつける奇跡そのものなのだ。人々を救ったはずの父の努力が奇跡に祭り上げられ、結果として殺されるというのなら、奇跡を否定しなければならない。奇跡の殺戮者を自称するキャロルは、当時の人々の中にあった錬金術への無理解と、理解し得ないものを暴力的に排除しようとする人間の愚かさによって心を殺されてしまった、悲しき人物なのだ。
キャロルにとって「奇跡」とは父を奪った所業を象徴するものでしかなかった。一方、響たちにとってそれは、他者と手を繋ぎ合って得た暖かさであり、絆であった。そしてこれまた皮肉にも、「錬金術」と「歌」は、かつて人々の言語が分断されてしまった時代において、それでも他者を理解し繋がることを求めた人々たちが生み出した文化であったことが明かされ、今まさにそれを体現している響たちが目の前にいることで、キャロルは「父の命題」の真意を知ることになる。自分が火に焼かれてもなお、キャロルに錬金術の理想とする「他者との相互理解」を訴え、そのために世界を知る、いや、世界と調和することを望み託した父の想いは、数百年の時を経て今、キャロルの心に届いたのだ。
キャロルの父・イザークを焼いた者たちはすでにこの世を去り、その責任の所在は有耶無耶となったままだ。そんな世界においても「生きるのを諦めるな」と訴えるのは、酷なことかもしれない。それでも、響たちがキャロルと手を繋ぐことを諦めなかったことで、キャロルが己に課した世界の解剖という大きすぎる野望、ひいては「奇跡」という言葉に纏わりつく「呪い」を取り除いたことで、彼女はエルフナインの命を繋ぐ形でこの世に留まった。キャロルが最後に響の手を取ったことは、彼女の心に少なからず「希望」を灯した、何よりの証明になるだろう。
人と人が分かり合うことは、いつだって難しい。その行き違いが、時に誰かの命を奪うこともある。それでも愚直に他者との絆を求める響たちシンフォギア装者の願いは、古の時代から続く祈りであり、同時に人の心を癒やし救うことの出来る万能の治療薬でもあった。それは、病に苦しむ人々を救うべく、薬草を採るために自ら山に赴いたイザークの気持ちに通じるものがあるし、その想いは確かにキャロルへ、そしてエルフナインへと受け継がれていたものであった。人は時に間違えど、希望を繋ぐことも出来る。『GX』は人間讃歌の物語として、その結末を迎えるのだ。
と、ここまで4,000字を費やして語ってきた内容を踏まえれば、『GX』の物語の縦軸の確かさや、テーマ性に私が魅入られたことがおわかりいただけるかもしれない。ところが、それと同じくらい許容し難い内容を含んでいたことも、また事実なのであった。
過去の一期二期のnote、そしてここまでお読みいただいた内容から伝わるかもしれないが、私は立花響という人間に、思い入れが偏っている。どんな時も善性を忘れず、人助けを誰よりも好み、本人がどれだけ否定しても行いから生じ、そして他者の認知からもそうであろう圧倒的なヒーロー性に、私は強く心惹かれている。ヒーローとは、正義とは何かを考える前に、まず身体が動いてしまう。根っから染み付いた正しさを土台に繰り出される拳の強さと優しさに、憧れに近いものを勝手に抱いているのだ。
して、『GX』の響に訪れるドラマは主に二つあるのだが、その一つ目である「人助けの力で誰かを傷付けることが怖い」という葛藤について。それ自体は共感できるものではありつつ、そもそもこの葛藤を抱くに至ったエピソードが一切ないまま本人の口から語られるため、受け取り側としてはかなり唐突な印象になっているのだ。
例えば『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』冒頭のワンダ・マキシモフ/スカーレット・ウィッチのように、正義的活動の最中における判断ミスで誰かを傷つけてしまった、のようなエピソードが事前にあれば、響がこうなるのもわかる(それだけの業を背負わせるのも酷だが……)。それもないまま、ただ三期から唐突に本人が自覚したようにしか思えない葛藤に縛られ歌えなくなり、未来やクラスメイトが危機に陥っても闘えないはおろか、身を挺して自分たちを守り血を流しているマリアに対してガングニールを奪う、という行為を働いてしまう。
すぐに本人も反省と謝罪を行い、未来の言葉によって響は間もなく再起するのだが、これでは件の葛藤がドラマを盛り上げる前の「サゲ」として無理やりに用意されたものという印象は拭えず、マリアが響に発した「力を持つ者の傲慢」という言葉はあまり掘り下げられないまま、ドラマは進行していってしまうのだ。無論、響も10代の少女であり、私の願う「正しさ」に沿わない彼女を無下に否定してしまっては、それはまた暴力的な我儘になってしまうので、これ以上の言及は避けたい。問題はもう一つの葛藤、「家族の再生」にまつわる一連のシーンだ。
奏が命を失い、響がガングニールを受け継ぐきっかけとなった、一期1話で描かれるライブの日のノイズ襲撃事件。その唯一の生存者である響を苦しめたのは、事件被害者の遺族からのバッシングや、謂れのない誹謗中傷だったという。響もまたキャロル同様、人々の愚かさ(他者に対する想像力の欠如)によって傷つけられた人間でもあるわけだが、響の心に負った傷はそれだけではなかった。父・洸は当時、彼女を支えるどころかその重責から逃げ出し、家を去ったという。そして、その父親と偶然にも再開した響は、洸から家族をもう一度やり直したいという提案を受けることになるのだが、問題は洸という人間像である。
立花洸もまた一人の人間であり、娘が生き延びてくれたとはいえそこから生じる謂れのない悪意に晒され疲弊し、逃げ出してしまったことには、まだ同情の余地はある。それでも家族に戻りたいと言うのなら、彼もマリアやウェル同様に過去の罪と向き合い、それを清算すべく行動すべきであった。にもかかわらず、洸は「男のプライドがある」と言い自分から妻(響の母親)と話し合うことを避け、そこに響の意思を挟む余地など与えなかった時点で反省の色は見えないし、お金に困っているらしくファミレスの支払いを響に頼る場面などを見る限り、自分が生活費に困ったから立花家に戻りたいだけでは?と思われても仕方がないだろう。そんな頼りない父親像にキャロルが腹を立て攻撃する11話は、「よくやった!」と拍手したくなるほどに、この洸という男へのヘイトは悪い意味で鰻登りの状態であった。
そうして洸は自分の過去と向き合わず、改心の兆候が一切見えないままに、彼は響の父親として振る舞い、たかが娘の窮地を一度救った程度のことでS.O.N.G.の司令室に居座り、娘の闘いを見守るなどと戯言を抜かすのだ。『シンフォギア』の感想でこんな言葉を口走るのは下品かつ相互理解の祈りに反するようだが、ハッキリ言えば虫酸が走るの一言である。
『G』のクライマックス、マリアを止めにフロンティアに来た響の様子が全世界で中継され、それを観た洸は娘が生きて、闘っていることを知ったという。娘が命を賭して闘い、希望を繋いだというのに、この男は何も変わろうとしなかった。キャロルに攻撃され、ピンチに陥った響を目の当たりにして父親としての情が彼にも残っていたのだろうけれど、その際に発する言葉も“どこまで逃げても、この子の父親であることからは逃げられないんだ!”というもので、その言葉に至る積み重ねもないためにただの被害者面にしか見えず、好印象を抱けるだけの余地は皆無と言って良い。父親から受け継いだもの、という意味でキャロルのドラマとも呼応する役割を洸は担っているのだが、私も大好きな響の台詞「へいき、へっちゃら」がこの男由来のものであったということで、大切なものを汚された想いで泣きたくなってしまう。
しかし、響は優しい少女なのだ。たとえ自分を傷つけた相手とも手を繋ぐことを諦めない少女は、父親ともそうすることを厭わない。たとえ、自分や愛する家族に暴力を振るい、一番居てほしい時に居てくれなかった相手に対しても、だ。最終回Cパート、立花家を訪れ自分の言葉で家族の再生を願った洸と、それに戸惑う母親に対して、自分が仲介役となって二人の手を繋いだ響。感動的な結末として用意されたであろう家族の再生だが、怒り狂っても当然であろう響のお母さんと祖母の胸中は語られないまま、アニメは終了する。ここにきて、私にはまるで響が何もかもを赦し許容する「マシーン」のように見えてしまった。イザークが象徴する「赦し」を決着とする内容を踏まえてなお、私にとってはこのシーンが許し難く、ワインに泥を一滴垂らして泥水とするが如き所業に映ってしまった。
これは私個人の私怨も含むため感じ方は異なるだろうが、躾ではない暴力を一度でも振るった時点で、そいつはもう家族としては受け入れられない。それが兄弟同士ならまだしも、親から子への暴力なら、なおさらだ。自分だけが生き残ったサバイバーズ・ギルトに苦しみ、それでもリハビリを頑張っている娘に対し、「自分のプライドが傷つけられたから」罵声や暴力を浴びせたのであれば、人間としては同情する余地があれど「親としては」失格であり、なおかつその罪と向き合い反省する描写もないまま再び父親の座に居座ろうとするこの男を、外野として口出しする権利がないことを承知の上で、私は認めたくない。何度も強調するように私個人の感想に過ぎないのだが、『戦姫絶唱シンフォギアGX』という作品にこの男さえいなければ、という想いすら抱いてしまっている。自分は、響のように優しくは、生きられない。
これまで以上に私情に走った感想になってしまい、作品を語る上でフラットでフェアではない気もするのだけれど、これで結びとさせていただきたい。ここまで7,700字強、お付き合いいただき、ありがとうございました。
全てを受け止められなくても、ここまで追えば『シンフォギア』への想い入れも強くなり、ライブBDの購入も検討し始め、残り2作品でお別れということに、寂しさを感じつつある。あとはどう転ぶか、見届けるしかないし、見届けたい。たとえそこに許しがたい悪がいれど、「Glorious Break」という心震える名曲に出会えた喜びも、また本当の気持ちであるから。