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Nobody's Perfect.『機動戦士ガンダムSEED HDリマスター』
『機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning』を観てからというもの、人生最大のガンダムブームが起きている……というのは先日投稿した記事の序文なれど、驚くことにこのブームはまだ続いていて、余暇時間のほとんどを過去作の視聴かゲームに費やしている。ついにはガンダムベースに足を運び、久しぶりにプラモを買ってしまうくらいには、脳をPlazmaに焼かれている。
そんな折、ついに視聴に踏み切った『SEED』である。知人から「今度劇場版があるからそれまでに観て!」と激推しされていたのだけれど、後回しにし過ぎてロングランしていた劇場版もさすがに公開が終了。そのタイミングで観始めた自分の間の悪さには呆れる他ないけれど、ガンダムのクロスオーバー作品では扱いの大きい『SEED』を今後も知らぬ存ぜぬでは通らんだろうと、そんなモチベーションから再生ボタンを押したのが数日前。
線の細い美少年がアンニュイな表情で飾るオープニングに、不安が募る。だがこの時の私は無知で、全話を観た今となっては、そんな無邪気な感想を抱いてはいられない。知らなかったのだ、こんな凄惨な物語だったなんて。
西暦から改暦を遂げたコズミック・イラと呼ばれる時代。先の大戦から世界の構図は大きく変わり、人類は自らの遺伝子操作という禁忌に手を出した。受精卵の段階から調整を加えられ、従来の人間よりも優れた知能や強靭な肉体を持って産まれた「コーディネイター」と、一切の手を加えられない自然出産によって誕生した「ナチュラル」に分けられた人類は、双方が相手を滅ぼすまで闘うという民族紛争に明け暮れていた。
その戦火が及ばぬはずの地球の中立国オーブに住まう学生キラ・ヤマトは、コーディネーターの軍隊である「ザフト」による地球軍のモビルスーツ奪取のための襲撃に巻き込まれ、その中の一機である「ストライク」に搭乗し、敵を退けることに成功する。だが、オーブを襲撃した兵士の中には、キラが幼い頃の親友だったアスラン・ザラの姿があった。
2002年に放送された『SEED』は、聞けば新世紀のファーストガンダムと宣伝されていたという。なるほど確かに、偶然居合わせた少年がガンダムに搭乗する1話、仮面の男が襲撃してくる2話に続き、民間人を徴用して運用される戦闘艦など、かの名作を下敷きとした展開が多く見られる。それ故にと言うべきか、元の作品とは異なる部分、『SEED』ならではの味付けの過激さが、物語開始時点からかなり際立つ作りになっている。
主人公が属する組織の腐敗は宇宙世紀ガンダムあるあるに数えられるだろうけれど、キラたちが身を寄せることになる地球連合軍はその出自上ナチュラルによって構成されており、彼らの中ではコーディネーターに対する偏見や差別が強く根付いている。そんな中、唯一のコーディネーターであるキラはその厳しい視線に晒され、しかしストライクガンダムを(OSを書き換えてしまったため)動かせる唯一の人材として重用されるという板挟みの状況に置かれてしまう。数日前まで戦争を外の世界の出来事だと思っていた少年が、なしくずし的に軍人として扱われ疲弊していく、と聞くとアムロ・レイの踏襲ではあるのだけれど、キラの肩身の狭さは想像を絶するものがある。生まれ持った属性によって、扱いが定められている理不尽。これをアニメの絵空事だと、どうして言えようか。
先述の通り、コーディネーターとナチュラルは相手を滅ぼす殲滅戦を続けているという設定で、ガンダムを駆るパイロットはいずれも10代の少年たちである。彼らを指揮する大人たちは敵対勢力の抹殺を掲げ、それを正義だと疑わない。キラが乗り合わせた母艦「アークエンジェル」も自分たちが生き延びるのに精一杯で、同じ世代の歌姫(兵士ですらない!)ラクス・クラインを人質として、危機をくぐり抜けるような日々が続く。若者を最前線に送り、敵対する者を滅ぼすためなら手段を選ばない凄惨な殺戮劇は、コーディネーターが人類の革新となるはずの未来予想図を塗りつぶしていく。ニュータイプが撃墜王のあだ名に取って代わっていったように。
『SEED』の過激さを語る上で、フレイ・アルスターを素通りするわけにはいかないだろう。同じコーディネーターでありながら、対立することになってしまったキラとアスラン。なおも続く激しい戦火の下では、多くの人間が命を落としていく。民間人としてアークエンジェルに乗り込んだフレイは、どちらかといえば自己中心的で、有事の際であっても軍人として扱われることを避けてきた少女である。周りを気遣うことに疎い一面があり、キラがコーディネーターであることを連合軍の兵士の前で悪気なく暴露するなど、視聴者のヘイトを集める人物でもあった。
そんな彼女の父親も、戦争に巻き込まれ命を落としてしまう。慟哭する彼女は、キラの心を削り取る一言を放つ。相手が同じコーディネーターだから、手を抜いているんじゃないか、と。すでにキラは生き延びるためとはいえ無数のザフト兵士を手にかけており、この発言が的を得ているとは言い難い。とはいえ、キラの中にアスランへの情がないなどと、誰が断言できようか。兵士と人間の狭間で悩むキラの内面を言い当てたフレイの一言は、彼にとって呪いと化してしまった。キラを戦場に縛り付けるのは、自分だけがストライクを操縦できるという状況と、それに付随する責任、その先の罪悪感である。フレイはそれを、巧みに利用していく。
コーディネーターを滅ぼすという、大人たちと同じ思想に染まってしまった少女フレイ・アルスターは、キラを戦闘マシーンとして役立てるために、自分の身体を捧げるところまでいってしまう。本当に土曜の夕方に放送されていたのだろうか、と思わずにはいられない生々しさを放つフレイの存在は、戦争の残酷さを暴力とは違う側面で描いていく。時系列を先に進めると、彼女は地球連合軍のプロパガンダのため利用される手筈となり、紆余曲折あってラウ・ル・クルーゼに拾われた後は、ニュートロンジャマーキャンセラーのデータを運ぶメッセンジャーとして動くことになる。
戦争によって運命を翻弄されたフレイは、最終決戦において、プロヴィデンスの攻撃により命を散らしていった。彼女の精神体はキラを包み込む優しさに満ちていたが、その声は彼に届いていない(会話が噛み合っていない)ようであった。キラにとってフレイとは、自分が救えなかった存在として、後悔の名の下に永遠に刻まれるのだろう。とはいえ、散っていった女性の思念を感じ取っていたならば、キラもカミーユの再演となった可能性を思えば、これが幸せな別れであったのかもしれない。
戦争という状況は、彼らに休息の時を与えてはくれない。アークエンジェルが立ち寄ることになった砂漠地帯では、“砂漠の虎”と呼ばれるザフト兵アンドリュー・バルトフェルドと、彼に対抗するレジスタンス「明けの砂漠」と遭遇。どちらかが滅びるまで終わらないコーディネーターとナチュラルの対立を、一つの地区というコンパクトな環境に縮小したかのようなこのエピソードは、戦争が泥沼化する理屈を「死んだ方がマシなのかねえ」という台詞に集約させた、虚しいながらも見逃せない傑作群である。
また、1話から登場していたカガリ・ユラ・アスハは、その出自故に重要人物ではあれど、彼女の幼さからの行動が目に余るキャラクターでもあった。そんな彼女とアスランが無人島に居合わせてしまうのだが、一つの暴力が報復を生み、その報復が連鎖していく現実に、10代の若者は何ら力を持たないことが浮き彫りになっていく。彼らが拳銃やナイフを持ち歩かねば、眠ることも許されないほどに、世界は歪みきっている。
そしてついに、キラとアスランの関係に亀裂が生じる日がやって来る。激戦の最中、キラの咄嗟の一閃でブリッツに乗るアスランの友人ニコル・アマルフィが戦死。その後、アスランもキラの友人であるトール・ケーニヒを討つ。怒りに我を失った両者は闘い、その結末もアスランの駆るイージスがキラのストライクに組み付いて自爆という、惨たらしいものであった。生死不明となったキラを前に、アークエンジェル艦内の人間模様もより殺伐としていき、行き場のない怒りが捕虜であるディアッカ・エルスマンに向けられてゆく。
戦争という特殊な状況下であっても、キラはラクスを人質とする艦の決定に疑問を抱き、己の正義に従い彼女を返還した。あるいは、アスランも敵に属するカガリと心を通わせ、二人の間だけでも和解を成した。そんな二人が、報復に継ぐ報復―大人たちがやっている戦争の倫理に魂を引かれ、殺し合うしかない状況に置かれてしまう。“あんなに一緒だったのに”と嘆き続けてきた本作は、親友同士の絆ですら容易く無に帰す戦争の悲惨さから、一切目を離させてはくれない。
これが契機だったと言わんばかりに、状況もまた人の心を失っていく。ザフト軍は地球連合軍の重要拠点であるアラスカを襲撃する「オペレーション・スピットブレイク」を発動するのだが、連合軍はこの奇襲を事前に把握しており、敵軍を陣地に誘い込んで大量破壊兵器により相手の戦力を削ぐための秘密作戦を実行しようとしていた。敵軍は勿論、本拠点を守るために命を捧げて闘っている味方すらも犠牲となる非人道的な行いを、内部から否定する倫理はすでに存在しない。
アスランとの相打ちから生還したキラは、ラクスから託されたフリーダムに乗って舞い降り、敵味方問わず救い出す行動を見せた。それは、この戦場における最後の良心であった。敵を討つのではなく、救うために闘い、その理念を実現させる新しい力。それは間違いなく正しい行いではあるが、キラの尽力をもってしても、全てを救うには至らなかった。モビルスーツが、人体が、膨れ上がり破裂するように散っていく。目を覆いたくなるような大虐殺は、敵味方に甚大な被害を及ぼした。またしても起こる報復として、ザフト兵は投降した丸腰の連合軍兵士を容赦なく撃ち殺す。タガが外れた戦況を前に、若者たちはまたしても無力である。
話は巻き戻り、ラクス・クラインを取り上げたい。私はこのHDリマスター全48話を追っていく中で、一番頭を悩ませたのが彼女の存在であった。プラント最高評議会議長シーゲル・クラインを父に持ち、歌姫として絶大な人気を誇る彼女は、序盤の話数でアークエンジェルに拾われることでキラたちの物語に介入する。その頃の彼女といえば、世間知らずのお嬢様のようなふわふわとした性格で、苛烈な状況に不相応なキャラクターだと認識していた。
そんな彼女が、キラにフリーダムを託し、ザフトからはスピットブレイク作戦が筒抜けであったことから連合軍の内通者と目され、アスランやザフトの追手の前でもその疑惑を強く否定しなかった。クライン派なる味方の協力もあり難を逃れた彼女はその後、またもやザフトから巨大戦艦「エターナル」を奪取し、連合ともザフトとも異なる新たな勢力「三隻同盟」を結集させ、戦争終結に向けて闘っていく……という筋書きになっていく。終盤の展開があまりに目まぐるしく、唐突すぎたためか、ラクスの立ち位置の変遷についていくことが出来ず、没入感を削がれてしまった。
戦争を終わらせることは、誰もが願っている。ただしそれは、どちらかの一方的な絶滅が条件であり、和平を望むラクスは連合とザフトどちらにも与さない、新たなる勢力となる。それ自体に異論はないのだけれど、序盤の印象が足を引っ張り、三つの艦隊を率いる実力者には、どうしても見えない。マリューやナタルのような、毅然とした軍人らしい態度を見せてはくれないため、お嬢様仕草が周囲を欺く演技だった、というのも通用しない。全てを台詞で説明するのは品がないと評されるかもしれないが、ラクスの場合はもう少し心情描写が欲しかった。ギスギスしたアークエンジェルで優しく歌う様子と、和平のために自ら前線に赴く姿を、私は最終回を鑑賞した後でも、イコールで結ぶことは叶わなかった。
キラは、フリーダムを手に入れた。親友と殺し合い、軍というしがらみから解き放たれたことで、自分の成したい理想のため力を振るう下地が出来たのである。また、三隻同盟にはアスランやディアッカも集い、たった一人のコーディネーターという孤独からも解放された。
アスランは、ジャスティスをその心に定めた。父親との決別という悲しい出来事を踏まえたものであったにせよ、軍属として命令に沿うのではなく自分で成すべきを決める生き方を、自らに課した。イージスの名に背いた罪を、これからの行動で贖ってゆくのだ。
対するラウ・ル・クルーゼが操るは、「天帝」「審判」を意味するプロヴィデンス。彼は神に成り代わり、人を裁こうとした。いや、創造神に叛逆を働いた、と言うべきかもしれない。この時代の歪みを一身に背負いし者が、神となりて傲慢な人間に天誅を下す。
ムウ・ラ・フラガの父、アル・ダ・フラガのクローン(遺伝子操作を受けていないのでコーディネーターではない)として産まれたクルーゼは、遺伝子の問題が解決しなかったため、余命も短い失敗作として、捨てられた存在であった。自分を不備ある身体のまま誕生させ、物のように捨て去ったアルに絶望し、放火によって殺害すると、彼は命をより良くする競争を憎悪するようになる。
人の身勝手な願いで産み落とされ、身勝手な理由で見捨てられた命。連合やザフトの垣根を超えて、人類全てを憎むに相応しい絶望を得たラウは、人間の業を突きつける。高い金を払って自分の子どもをオーダーメイドし、より優れた命を選別するに至った人類は、ついには自分より劣った者、自分とは異なる存在を嫌悪し、排除する思想を隠さなくなった。戦争という口実で、気に入らないものを抹殺すればよいなどという愚行を、「進化」などという美名でひけらかす種を、美しいとはとても言い難い。なればこそ、クルーゼの“審判”には一理がある。
その理想を打ち砕かねばならないキラはしかし、彼こそがこの世で最も完璧な人間、「スーパーコーディネイター」だった。母体という不確定な要素を取り除いた、自然を廃した環境でのみ成立する、コーディネーターの中でもより優れた人材。遺伝子の欠損のない、健康な身体に優れた知性と能力を格納した器。つまり、優秀な人造人間が科学の失敗作を葬り去るという構図にて、戦火の拡大は終止符を打たれるのである。造られた命同士、わかりあえる可能性もあったはずなのに、ただ“守りたい世界がある”という理由だけで、クルーゼの絶望は塗り替えられてしまった。神に成り代わろうとした瞬間に、彼もまた傲慢な人間に他ならなかったから、だろうか。
では、キラ・ヤマトこそが神なのか?誰よりも優れた人間で、コーディネーターとナチュラルの架け橋たる存在か?と言うと、そうではないように思える。キラは、ラウ・ル・クルーゼが唱える人類の愚かさに、反論できるだけの根拠を述べられなかった。守りたい世界がある、という我儘を、ガンダムを通じて成し遂げたに過ぎない。しかしそんな彼の守りたい世界とやらは、戦争が一時的に止まっただけで、コーディネーターとナチュラルの軋轢が解消されたわけでもなく、差別と暴力の連鎖はこれからも続くだろう。
結局のところキラ・ヤマトは、この物語で何を成し遂げたのだろうか。ラウ・ル・クルーゼの凶行を止め、人類絶滅を防いた功績は大きいだろう。しかしそれは、クルーゼを救ったことにはならない。それだけでなく、キラが奪った命、救えなかった命は大勢いる。名も無き兵士たち、ニコル、フレイ……。戦争を止めたいからと始まったフリーダムガンダムでの闘いは、その大義を果たした一方で、キラ・ヤマトはファーストコーディネーターであるジョージ・グレンが願った器にはなれなかった。フレイを殺された怒りからクルーゼを殺めた時点で、彼もまた戦争と報復の輪廻に囚われている。
だが、それが『SEED』の結論なのだと思う。終わりなき闘いを一人の優れた個人が根絶するなど、そんなものは絵空事でしかない。だからキラ・ヤマトは、平和を叶えるための都合のいい神様ではあってはならない。ラウ・ル・クルーゼを論破したら、彼を神と認めてしまう。故にキラもまた、クルーゼの言う愚かな人間の域を外れない。彼の伸ばす手には、限界があるのだ。
繰り返しになるが、キラ・ヤマトは人を導く神などではなく、この世の争いはそう簡単に無くなりなどしない。調べたところ、監督の福田己津央氏が2001年の悲劇に触れたインタビューを見つけ、本作にも影響を受けたことを発言している。
■21世紀のファーストガンダムというコンセプトは?
(他のガンダムと)同じものを創っても違うものを創っても批判されるのがガンダムという作品であり、それに対するせめぎあいはあります。しかし、それ以上にバックアップして下さる方も多く、しかもそういった方々がそれぞれにガンダムに対して一家言持っているがためにせめぎあいがまた生じてしまう(笑)。しかし、そういったものを含めて自分なりのガンダムを創っています。丁度、企画中にNYのテロ事件がありまして、イスラム圏の問題を相当調べました。彼らはキリスト生誕以前から連綿と続く憎しみの連鎖の中にあり、どちら側にも正義がある。戦争っていうものは善悪では推し量れないものであるけれども、そういった中で、戦争のない時代を創るにはどうしたらいいだろうということを、作品を通して視聴者の皆様に、我々スタッフ全員として提示したいと考えています。それが今回のコンセプト「21世紀のファーストガンダム」です。
(アーカイブ/2025年2月24日付閲覧)
“戦争っていうものは善悪では推し量れない”が、物語には打倒されるべき悪がいて、主人公はそれに打ち勝たなければならない。そんな縛りの中、「戦争」が生み出す悲劇の連鎖に可能な限り向き合い、描写し、主人公たちが苦悩し、何とかして言葉を捻り出す。どんなに歪んでいて、間違っていても、守りたい人が、守りたい世界がある。それが2002年当時の精一杯なメッセージであり、だからこそキラ・ヤマトはヒトの革新であってはならなかったのだと、2025年の私はそう結論づけることにした。
完璧な人などいない、と、あるヒーローが言った。それは諦めのように聞こえるかもしれないけれど、完璧でないからこそ人は人である、と読み取ることも可能である。造られた命、完璧な命として誕生したキラ・ヤマトもまた、数多の歪みを受け入れて、人間であることを証明する。そんな彼には、愛すべき人と共に生きる世界がある。こんなに嬉しいことはない。
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