繋がり続けるための歌と詩。『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』
『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』というTVアニメを観た。日頃、話数が3桁の女児アニメやトレーディングカードゲームアニメを嗜んでいるので、1クールアニメに怯むことはなくなった。けれど、この作品に関しては「仕事で疲れている日は控えよう」と敬遠する日が何度か続いていて、その割に序盤の話数はたまに複数回観返したりしながら、ようやく完走まで辿り着いた。
そんな状態の自分が言えるのは、『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』を観てくれ、ということだ。決して明るいアニメだとは言い難く、鑑賞中になんども胸を搔きむしりたくなるような苦しい思いをするかもしれない。けれど、全てを見届けた後に残る、曇天の中に一筋だけ射すか細い光を見出すような、ハッピーエンドともバッドエンドとも明言し難い複雑な余韻をもたらす群像劇を、どうか見届けてほしい。以下の感想は無論ネタバレを含むので、ご留意いただきたい。
令和の『新世紀エヴァンゲリオン』ことMyGO!!!!!
このアニメを語るにあたり、衝撃的すぎた1話冒頭には、どうしても触れておかねばならない。どれだけ待っても集まらないバンドメンバー。遅れてきた少女は雨の中走ってきたのかずぶ濡れで、理由も言わずにバンドを抜けたいと申し出る。そんな少女に激情をぶつける少女も、他の少女を理由に彼女を責め立てる。トドメの一撃として「私は、バンド、楽しいって思ったこと一度もない」の名台詞が放たれる。
崩壊した人間関係から始まり、主要登場人物の多くはこの一件のトラウマを抱えながら今を生きている。他者と繋がることに臆病になる者、怒りを溜め込む者、そして過去に囚われる者。音を奏でる喜びやハーモニーを重ねる楽しさといったものは1ミリも含まれていないこのシーンをもって、『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』は幕を開ける。このシーンを公式Youtubeチャンネルにアップしている制作陣は、果たして正気なのだろうか。この動画で視聴者を増やそう!と思っているのなら、それはもうとんでもないことだ。
このアニメに登場する人々(“キャラクター”という言葉を当て込むことも憚られる)のことを、どう表現したらいいのだろう。彼女たちのことを思い出せば、常に「生々しい」という言葉がついて回る。人間臭いという表現があるが、このアニメはそれの極致のような瞬間を何度も繰り返してくる。
高松燈さんを例にしてみよう。自己評価が低く内罰的で、上手に自分の気持ちを他者に伝えられない彼女は、その内面を「石を収集する不思議な少女」として、他者との触れ合いを避け自分の世界に逃避する姿が描かれる。学校では変わり者として受け入れられていて、虐めを受けるといったことはないようだが、彼女自身はそのことに悩み、その弱さゆえに「CRYCHIC」が解散したと思い込んでいる。他者と違うこと、みんなと同じように生きられない辛さを、「にんげんになりたい」と表現する彼女の苦しみは、かつて“のけもの”だったことのある自分には、どうしようもなく痛い。
燈は(というかMyGO!!!!!の全員は)驚くほどの実在感をもって、アニメの世界に確かに存在している。彼女は他人と触れ合う恐怖に怯えているが、他者を求めていないわけではない。愛音との接点であるペンギンの絆創膏を机に並べ、彼女に話しかけられ待ちをするシーンなどは、いじらしさと見ていられなさが同居する名場面だ。他者を求め、そのくせコミュニケーションに奥手な燈は、相手からそれを引き出そうとして失敗し、彼女なりにひねり出した勇気は空回りする。大事なのは、愛音にとってこれは悪意のあるリアクションではないし、人間社会を円滑に送るにあたって全てに全力を注いではパンクするため、燈よりも愛音の方が世渡り上手、ということなのだ。
では千早愛音さんはどうなのかというと、これまた凄まじい内面を持ち合わせている。作中でもトップクラスの目立ちたがり屋であり、バンドを組むといっても彼女に音楽への情熱はなく、ただただ「皆やっているから」が初期衝動で、その上に「燈と一緒に組めば話題になるかも」という打算が乗っかってくる。誰とバンドを組んでも彼女はセンター(ギターボーカル)を譲らないだろうし、例えばこの作品がアイドルアニメであれば彼女の個性は武器となっただろうが、ここは『MyGO!!!!!』であり、彼女の野心と実力とのギャップは決して小さくはない波紋を呼ぶこともある。
かといって、愛音は掃いて捨てるような人間ではない。過度な俗っぽさは短所かもしれないが、愛音は愛音で目的達成のために自ら動き、まとめ役を買って出ることもあるし、何より彼女自身が努力家だということだ。なまけ癖や逃避癖もあるが、追いつめられると綺麗な指を絆創膏だらけにしながらギターと向き合い続けられる。それに、明け透けなく自分の気持ちを言葉として出力でき、関係性の距離を飛び級的に、かつ強引に縮められる胆力の持ち主である愛音は、常に瓦解寸前の人間関係を見事「MyGO!!!!!」に繋ぎ止める役目を果たした。最終話を見届けて思うのは、愛音がいなければ間違いなくこの物語は崩壊していたし、燈が救われることもなかったということだ。
千早愛音。おまえは採用面接で自分を「潤滑油」と例えていいし、崩壊寸前のサークルを立て直したのでマネジメント力やリーダー力に長けていると自己PRしてもいい。おまえはMyGO!!!!!の柱になれ(なった)。
「CRYCHIC」の磁場に囚われない千早愛音(と要楽奈)に救われた人物は燈だけでなく、長崎そよも例外ではない。長崎そよ。彼女にピッタリな代名詞は、「爆弾」だろうか。優しい声音と性格で他者を思いやる慈愛に満ちた人物に見せかけて、実は誰よりも過去に囚われ前に進めず、作中最も視野の狭くなってしまった少女。自分の目的のために他者を利用することを恐れず、自分の求める結果になるまで他人を振り回し続ける。誰よりもエゴイスティックで我儘で、そのことに気づいてすらおらず、LINEのやり取りで見苦しく自己保身を重ねる場面は、生々しさの点でも作中トップクラスだ。個人的には、長崎そよが「みんな」という言葉を発する度に、そこに愛音が含まれているか否かを考えると、背筋が凍るような面白さがあった。
長崎そよが内に抱える鮮烈さを放つ7~8話は凄かった。思い出の曲『春日影』が鳴り出してしまい、演奏が彼女の意志に反して始まってしまうが、彼女もまたベースを弾いてしまう。演奏が止まると客やライブハウスに迷惑がかかるから、なんてことは歯牙にもかけていないだろう(言い訳として使うかもしれないが)。その後の過去回想で描かれた通り、長崎そよは幼少期から母親や周囲のクラスメイトの顔色を伺って生きており、自分の我を押し殺す処世術が芽生えてしまっていた。
そんな彼女が、始まってしまったステージを降りることも壊すことも出来ず、表面上はライブを成功に導いて、その上で「なんで春日影やったの!」と激昂する。全ては、人のせいなのだ。「CRYCHIC」が壊れたのも今の自分の人間関係が上手くいかないのも、全ては誰かのせいにして、自分を守る。弱さと同居する自己中心的な価値観を曝け出しながら自爆していく様は、身を切るような痛みがあった。
視野が狭いという(いやな)共通点を持つのが、椎名立希だ。彼女の第一優先は「燈と一緒にいること」であり、バンドはそのための手段でしかなく、愛音に冷たい態度を取り続ける。バイト中の言葉遣いや接客態度にも表れているが、立希は他人を寄せ付けないところや好き嫌いが激しく、それをカモフラージュできず表に出してしまう時点で「こども」だ。年相応だから良いとも言えるし、バイト先の先輩などに甘やかされている、とも感じる。
大人になることそのものを成長と捉えるのも浅はかかもしれないが、彼女は彼女でバンド活動を通して考えを改めつつあり、愛音やそよへの歩み寄りを感じられる言動も終盤にいくつか見られた。燈⇒愛音もそうだが、逃げた時に追いかけてくれる人がいる、というのは大事なこととして描かれており、立希が追いかけられる側になった際に彼女の心も少しずつ雪解けしたのだろうと思うと「千早愛音さん……」となってしまうのは、致し方ないことなのだ。
いつの間にかMyGO!!!!!のみんなについてコメントしてしまい、その割に楽奈への言及を避けていたが、あえて言うのなら、居場所を求めさ迷う野良猫だったとしても他者に依存しすぎない点で誰よりも精神的に自立しているな、ということだ。この物語は、身を寄せ合っては傷つき、コミュニケーションを恐れながらもそれを希求せずにはいられない人間の性がどうしようもなく刻印されていて、私はここにエヴァのDNAを感じ取ってしまう。ヱヴァの方ではなく、『新世紀エヴァンゲリオン』の方の、だ。
エヴァンゲリオンという作品をどう切り取るかにもよるのだが、私にとってエヴァとはディスコミュニケーションの物語だった。自分の想いを上手く伝えられない少年少女がいて、その子どもたちと真の意味で向き合えていない大人たちがいて、誰もが他者から嫌われることに怯え認められることを求める。そうした不器用な人間が寄せ集まった不和がやがては世界の崩壊を招いたり、それでも人と人のカタチを保とうとしたりしてしまう、歪で普遍的で痛々しい物語。そのエッセンスを含みながらも“イマドキ”らしく出力されたのが、『MyGO!!!!!』ではないだろうか。
高松燈の内向的な性格は碇シンジを、立希のある対象への強い執着と他者への排他的・攻撃的な態度は惣流・アスカ・ラングレーを彷彿とさせ、長崎そよと豊川祥子は本質が似た者同士(自分しか見ていない/見えていない)であるため相手への指摘が自己言及になってしまう点などは、1995年のドロドロとしたエヴァンゲリオンの味を思い出させてくれる。
その一方で、LINEを介しての一方的な言葉の投げかけ(本作では未読/既読無視が日常茶飯事だ)や、千早愛音が体現する「立ち入りすぎないコミュニケーション」「過度に感情移入しない」あたりは、SNS時代かつコロナ禍以降、上の世代から淡泊だとか飲み会にも来ないなどと揶揄されている最近の若者仕草を思わせる。余談だが、愛音を演じる立石凛さんの演技は、その辺りにとても敏感で含みある棒読みが癖になる味わいがあり、この演技をOKにするところが『MyGO!!!!!』らしさだ。
人が人のことを完全にわかりあうことの不可能性を描き、他人がいるからこそ傷つき傷つけあってしまう人間の不完全性を、それでも求めてしまうどうしようもなさを描き切ったかつてのエヴァンゲリオンがあって、わかりあえないかもしれないが理解しようとすることを諦めない在り方を『アイドルマスター シャイニーカラーズ』が紡ぎだしてきた。自分の低いアンテナの中で一本補助線を引くとするのなら、『MyGO!!!!!』はこれらの作品の延長線上に収まるのがしっくりくる。
自分の気持ちをどう伝えたらいいのだろうと悩む若者たちは、日々失敗を重ね心はかさぶただらけ。傷だらけで痛々しくて、生々しい。そんな世界を生き抜くために、彼女たちは今日も想いを詩に乗せて歌う。傷つくことを恐れず前に進むことを選んだMyGO!!!!!の5人は、ボロボロで血だらけで、それが愛おしい。彼女たちの歌を聴いて背中を押された気がするのは、知らず知らずのうちに自分を重ねていたから、かもしれない。
エゴイスティックな迷子たち
12話のラストステージ前、バンド名を「迷子のバンド」と受付で登録したことが明かされるのだけれど、この言葉が実はお気に入り。寄る辺無くふわふわした、足場がグラついているようなイメージ。彼女たちにピッタリだ。
そもそも彼女たちのバンドは、結成の動機から歪なのだ。バンドをやって目立ちたい愛音と「CRYCHIC」の復活を願うそよの相性は致命的に悪く、燈と立希も過去のトラウマに囚われ、「一生」を担保してくれない関係性に恐れを抱く。バンドをやるために集まったようで、目的も目指すゴールもバラバラな少女たち。彼女たちが自分たちをMyGO!!!!!と自称するのは、そうした在り方そのものを肯定するものだった。
そもそも、彼女たちには「音楽」への熱い情熱など、ハナから存在しない。何らかの大会で優勝するとか、プロデビューするといった目標なんて、一切言及されない。彼女たちにとってはライブをすること、音楽を奏でることそのものが目的なのだ。そしてそれは、バラバラな5人を繋ぎ合わせるための演奏であり、ある意味で音楽を利用している、ともとれる。
「一生バンドやろう」「初ライブまでは絶対」と少しずつハードルを下げながら、それでも音楽を奏でることは止めない。「CRYCHIC」でのトラウマを少しずつ乗り越え(完治したわけではない、というところも誠実だと思う)、ちょっとずつちょっとずつ迷子のバンドが形作られてく。歪で、ぐちゃぐちゃで、未完成。それでもステージに立つことは止めない。
ここまで来ると、ライブとは5人を繋ぎ止めるためのイニシエーションであり、ファンのためだとか1ミリも言及されず、観客の方を向いて歌っているとは到底思えない。私たちが私たちでいるための音楽と、それを鳴らすため/歌うためのMyGO!!!!!という居場所。こういう在り方を、音楽ではパンクと呼ぶのだろうか。もうメチャクチャだ。
それでも、私があの世界にいたらMyGO!!!!!に魅了されるはずだ。なにせ、メンバーに「一生」を強要する最強のエゴイスト・高松燈と、それに絡めとられた少女たちが命を削ってむき出しの歌詞と音楽をぶつけてくる。そんなの、「おもしれー女」って言いたくなるに決まってる。MyGO!!!!!の激情を喰らって足元フラフラになってライブハウスを立ち去るオタクに、私はなりたいのだ。
想いを乗せた詩に、曲が土台となって歌が生まれる。MyGO!!!!!は直接語り合ったり、喧嘩したりというやり方ではなく、5人で歌うことを選んだ。それがきっと、彼女たちに最も適した対話であり、ストレートな感情と感情のぶつけ合いなのだ。迷子の私たちが繋がるために、「音楽」さえも利用してやる。各々のエゴが衝突する熾烈な物語の終着駅として、これ以上に綺麗なエンドマークは思いつかない。貪欲で我儘な少女たちの叫びは、今日もどこかで誰かの心を穿つ。