『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は運命を燃やし尽くし、舞台少女は“再生産”される。
未だかつてないほどの期待と不安を胸に秘め、電車とバスに乗られて二時間強、その劇場―いや、舞台は、首を長くしてこちらの到着を待っていた。この作品においては、観客である我々も舞台装置の一つであり、そして観客が望む限り舞台に立ち続けるのが、舞台少女の在り方だった。なのだけれど、その理に「本当に?」という問いを叩きつけてきたのが、他の誰でもない『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』なのであった。
TVシリーズ全12話で、聖翔音楽学園99期生たちの物語は一区切りを迎えた。しかし、彼女たちの人生は、これからも続いていく。なればこそ、まだ舞台は終わっていない。列車は必ず次の駅へ。されど、停車駅を決めるのは人生の車掌たる自分自身だ。彼女たちは何にケリをつけ、どんな景色を見るに至るのか。さぁ、幕が上がり、舞台が始まる。
死せる舞台少女と「永遠」の希求者・なな
言うまでもなく、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』はTVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の続きを描く物語である。聖翔音楽学園99期生たちはトップスタァの座を目指してオーディションを重ね、勝者となった神楽ひかりは他の舞台少女から煌めきを奪うことを拒絶したった一人で星罪を背負い、愛城華恋との運命によって復活。戯曲スタァライトに新たな解釈を与え、第100回聖翔祭の舞台は好評を博した(であろう)。
それから1年、彼女たちは下級生の憧れを一身に受ける先輩になり、そして卒業生になろうとしていた。各々が進路を定め、自分の責任で人生を歩み始める、大切な決断の時間。本作は、その決断にこそメスを入れていく。これ以上ないほどにハッピーに完結した『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という物語に、自らハテナマークを叩きつける物語。それが『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の恐ろしい在り方だ。
クロディーヌはまだ天堂真矢に勝利していない。双葉と香子の依存関係は何も変わっていない。まひるが舞台少女を続けるモチベーションとは何か。星見純那は舞台から距離を置こうとしている。香子が突き付けたように、オーディションで競い合い、トップスタァの座を奪いあいながら、その座に至れなかった自分に折り合いをつけて前に進もうとする者たちの残された課題を暴き立てる。それが『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』であり、ワイルドスクリーンバロックの目的だ。
ワイルドスクリーンバロックは、レヴューではあるがオーディションではない。あくまで同級生たちがトップスタァの座を奪い合うという閉じた催しから、学園の外という現実社会と接続した環境で行われる、殺し合いの儀式。野生の営みであるからこそ、傷つけば血を流し、そこには「死」の香りが沸き立つ。本作最初のレヴューである「wi(l)d-screen baroque」では、その理に気づけなかった天堂真矢以外の舞台少女は大場ななに呆気なく敗北し、(演出としての)死を迎える。ワイルドスクリーンバロック、それは舞台少女たちに貪欲であること、欲望をむき出しにすることを求めてくる。
綺麗に終わろうとするな。自分だけで納得するな。舞台から目を背けるな。舞台少女としての煌めきを置き去りにするな。そうした醜く淀んだ、荒々しい感情が下地にあるワイルドスクリーンバロックは、TVシリーズにおける舞台少女たちの関係性に「その先」を見せろと要求する。戯曲スタァライトの終わりの続き、必ず訪れる別れの物語の、その先。彼女たちが聖翔音楽学園を卒業し羽ばたいていくための「これまで」と「これから」を清算するための、野生の儀式。
その儀式において立ちはだかるのは、やはり大場ななである。トップスタァになろうとする意志を忘れ去り、あまつさえ舞台から身を引こうとする純那を見て、ななはこう思ったのだろう。「自ら死んでいく舞台少女がいる」、と。それは、ななにとっては許せないことだった。舞台少女の死とは何もオーディションに負け煌めきを奪われるのみにあらず、自らその煌めきから目を背けることも、立派な「死」である。だからこそ、皆殺しのレヴューなのだ。緩慢な死に進もうとする舞台少女たちを、舞台少女のまま殺してあげる。美しいものを美しいまま、永遠に閉じ込めてしまおう。ななの強大なエゴもまた、TVシリーズで解消されたわけでは無かった。大場ななの「わがまま」が、観客の舞台少女たちの「その先」を観たいという欲求と合わさって始まるワイルドスクリーンバロック。演じ続けることを求めながら本性を曝け出せという暴力的な舞台は、どこへと続くかさえわからない線路を爆走していく。
「うっとい」が愛おしい。香子と双葉。
実のところ、終盤に明らかになる神楽ひかりの隠し事については用意周到な前フリが用意されている。石動双葉だ。
香子が最も輝く姿を一番近くで見たい。そのためには対等でいなければならない。香子から離れて一人で舞台を学ぼうとする双葉と、自分に相談なしに進路を決めた双葉に憤る香子。前述の通り、ワイルドスクリーンバロックは野生で、むき出しであることを要求する。だからこそ香子は醜い感情をさらけ出す。「ウチがうっとおしくなったんやろ?」と。
香子にとって、双葉は「必ず側にいて世話を焼いてくれる、甘やかしてくれる人」であり、双葉無しで生きられる自分を想像できない。そうした他人を縛り付ける生き方を、双葉の声を通して「ズルイ!」と言ってのけるのが、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のテーマだろうか。双葉は双葉で、自分の人生を生きる主人公として、舞台少女として生きるための拠り所を香子以外に見つけ出さねばならなかった。それを「縁切り」だと思ってしまう香子の幼さに「そうじゃねぇ」と言ってあげる。わがままとわがままをぶつけ合って、己をさらけ出し合って結実するレヴュー。
未来、香子は家元を襲名し、双葉は新国立へと進んだ。されど、関係性の終わりを意味してるわけではない。バイクの鍵がポジション・ゼロの形をしているように、お互いがお互いの中心であることは変わらないのだから。停滞ではなく、進歩としてのお別れと、再会のポジション・ゼロ。離れていても、心は繋がっている。
ガンバレ、私。露崎まひるという人。
実のところ、一日に二度劇場版を鑑賞するにあたり、一度目と二度目の間に有識者の話を聞いて一番印象が覆ったのが、競演のレヴューだ。大事なのは、まひるのレヴューが誰に宛てられたものなのか、ということ。
まひるがどんな舞台少女になりたいか。それは「誰かを笑顔にできるような舞台少女」なわけだけれど、一番笑顔にしたい相手とは、もちろん愛城華恋である。そんな華恋がもっとも会いたい(会うべき)相手であるはずの神楽ひかりは、演じることも忘れた腑抜けになってしまった。
だからこそ、今回の主題は「怒り」である。嫉妬はすでに「恋の魔球」で禊終わった。にもかかわらず、華恋に最も求められているひかりは舞台少女としては瀕死の、ただ逃げ惑うだけの弱い少女に成り下がってしまった。まひるには、それが許せなかった。
本人が言及する通り、まひるは「演技も歌もまだまだ」とのことだが、つまりそれはひかりへの「嫌い」も演技ではなく本心だった、ということだ。そして、ひかりは自身に向けられた憎悪に恐怖を覚える。露崎まひるが、神楽ひかりを超えた瞬間。そして、この時感じた恐怖をもって、ひかりは「華恋のファンになってしまう」ことの恐れと向き合い、まひるもまた舞台に立ち続ける恐怖を語るが、それでも舞台少女として生きる決意を宣誓するのである。華恋への依存を先に克服したまひるが、愛する華恋のために贈る、ひかりを奮い立たせるレヴュー。とても重層的な「愛」の意味を持つこのレヴューは、まひるがあえてヒールに徹するようになれるほどの成長を経たことを示し、彼女の芯の強さにしみじみと涙してしまう、そうした働きを見せていた。
ラスト、華恋の元へ走るひかりを見送り、一人になった球場で自分を鼓舞するように口上を口にするまひる。彼女もまた、自分の中にポジション・ゼロを見つけられたのだろう。
おねがい、わたしの思い出の中にいて。純那となな。
大場なな。ワイルドスクリーンバロックにおいては「前を見ろ」と舞台少女たちに強要しながら、自身は過去に縛られた、壮大な矛盾を抱いた女。そんなななの執着は、星見純那個人にも向けられている。決してトップスタァに至れる実力を持たずとも、泥臭く知識と研鑽を積み重ねていく純那。ある意味、ななに最も欠けているものを持っていたのが、星見純那だった。
なのに。純那は舞台を降りようとしている。舞台少女として生きようとしないで、自分から命を絶とうとしている。一番眩しかった純那ちゃんが、純那ちゃんじゃなくなっちゃう。美しいものは美しいまま、永遠にしてしまおう。だからこそ、大場ななは純那に「切腹」を迫った。眩しかったあの頃の純那ちゃんが少しでも残っているなら、私の思い出の中でじっとしていて、と。
それに対し、純那は借り物の言葉ではなく、自分の言葉で相対しなければならなかった。レヴューは常に、心と心の対話であり、批評のようなものだ。引用だけでは、論文は成り立たない。自分の言葉で、自分を語らねばレヴューの主役にはなれない。そのことにようやく気付けたからこそ、劇場版の星見純那は気高くて格好良くて、涙を誘うのだ。ななから渡された刀(煌めき)も自分に取り込んで、自分の言葉でななを圧倒する。それは、ななが切望した「眩しい純那ちゃん」で、いつだってななを救うのは純那の言葉なのだ。
孤独で、弱虫で、すぐに泣いちゃう寂しがり屋の大場ななの涙を拭えるのは、いつだって星見純那だ。自分星が燦然と輝く時、それはななの憧れと、純那の熱い煌めきの光であると、今の私たちはそう悟ることができる。
むき出しのあなたを、私だけが。真矢とクロディーヌ。
まずは、驚愕した。ワイルドスクリーンバロックにおいて真っ先にその理に順応した天堂真矢の本質が、「役を受け入れる器」でしかない、という事実に。どんな役でも演じられる代わりに、自分がない、舞台に生かされている少女としての、天堂真矢。
それを否定するのは、やはり西條クロディーヌしかいない。入学当初から真矢を追いかけ、真矢を見つめ、真矢とのデュエットに唯一ついてこられたクロディーヌにとって、天堂真矢が空虚だとしたら、自分の歩みを否定してしまうから、それだけは許さない。「天堂真矢が空っぽなどあり得ない」のだ。そして、自身が悪魔になって天堂真矢の魂を差し出せと迫る様子はとても官能的だ。頬を赤らめた真矢の羞恥の表情の、なんと甘美なことよ!
なればこそ、このレヴューでクロディーヌが天堂真矢に勝利する瞬間は、格別の感動である。自身を役と同化させ、額縁と鏡に敷き詰められたその世界は、真矢が自分しか見ていないことの証明である。そんな真矢を振り向かせるには、真矢の目を奪う「美しさ」が必要だ。剣を交え、誘惑の言葉を重ね、天堂真矢の殻を一つ一つ剝いでいく悪魔のクロディーヌ。野生であることを要求されるワイドスクリーンバロックにおいて、天堂真矢の態度はマナー違反だ。脚本の台詞ではなく、「天堂真矢」を曝け出せと、物語が、クロディーヌが要求する。その闘いの結末として、天堂真矢を魅了する、西條クロディーヌの気高さと美しさ。10分を超える超大作のレヴュー。魂はないという天堂真矢の嘘に対し、真実の美こそが全てを出し抜くこの展開こそ、「天堂真矢は負けてない!」と並べて掲げられるべき、レヴュースタァライト恍惚の一瞬だった。
運命の「呪縛」と解放。華恋とひかり。
突如始まったワイルドスクリーンバロックにおいて、華恋は当初舞台に上げられることはなく、キリン曰く彼女は「役作りの最中」とのことらしい。再演の中においても飛び入り参戦のイレギュラーだった華恋は、ななやキリン(観客)にとっても未知数の存在であり、ゆえに本劇場版では「なぜ彼女が舞台少女になったのか」と詳細に描いていく。
そこには当然、神楽ひかりがいる。舞台少女・愛城華恋が誕生するきっかけを作り出した張本人にして、運命の舞台を降りた少女。TVシリーズでは二人の関係性が再演と言う名のループを超越し、戯曲スタァライトを書き換えるまでを描いた。劇場版は、その運命の意味合いにさらなる解釈を与えてくれた。「呪い」である。
かつて華恋は、今の快活な印象とは程遠い、人見知りな子どもだった。お互い5歳で出会った華恋とひかりは仲良くなり、ひかりは華恋をスタァライトの演劇へと連れていく。人生が一変するような衝撃を受けた二人は、舞台で出会うことを誓い、運命を交換した。舞台少女として生き、舞台少女として再会する約束を交わし、二人の進む道は東京タワーの下で結実した。
しかし、その運命は5歳のひかりには重荷だったのかもしれない。スタァライトに魅せられ、同時に「届かない」「眩しい」と感じたがゆえの恐怖に蓋をして、ひかりは舞台に上がるしかなかった。自分を高めるためにロンドンに行くしかなかった。いや、そうじゃない。華恋に甘えてしまうから、華恋と対等でいられなくなるから、華恋を特別視してしまうから。
一方、華恋もまた、舞台少女としての道を歩み続け、「普通の女の子の喜び」を犠牲にしていく。メキメキと実力をつけ主演の座を射止めるまでに成長するものの、ひかりが今何をしているのか、約束を覚えていてくれるだろうかと、心中は不安で一杯だ。舞台少女として生きるきっかけをくれた少女が、自分のことを忘れていたとしたら―?彼女は「自分ルール」をついに破り、神楽ひかりのことを検索する。世界一入学が難しいとされる王立演劇学院に進んだひかりは、もっともっと高いところにいる。
運命を交換し、約束の再会に向けて自分を高めあう二人。だけれど、ひかりの不器用さや畏れゆえに、二人は微妙にすれ違っていく。華恋にとってはひかりが、ひかりにとっては華恋こそが舞台少女で在り続ける意味(燃料)であることは間違いないのだけれど、それゆえに二人は「空っぽ」だ。
冒頭、華恋が提出した進路希望は白紙だった。ひかりが学園を去ったことで、舞台に上がるモチベーションを失いかけていた。運命とは、約束とは、とても美しいものだ。されど、それを失えば彼女たちは生きられない。舞台に上がれない。死んでしまう。愛城華恋と神楽ひかりは運命を交換したことで、輝かしくて眩しい夢にお互いを縛りつけてしまった。舞台で再び出会うという夢を叶えるために、自らが観客席に引きずり降ろされることを許されなくなった。それが二人にかけられた「呪い」の正体だ。
砂漠に一人取り残された華恋は、東京タワーに辿り着く。ひかりもまた、ロンドン地下鉄からまひるとのレヴューを経て、同じ舞台に立つ。約束タワー、美しき過去の思い出の象徴であり、二人の運命を幽閉した「星摘みの塔」で、二人は対峙する。いきなり結末に触れるが、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において最も感動的なのは、舞台少女・愛城華恋と舞台少女・神楽ひかりの文字通り「再生産」が描かれる、圧巻のクライマックスだ。お互いが一人で立てるようになるために行う通過儀礼、「この支配からの卒業」に、巨大な感動が押し寄せてるのである。
舞台で再会する二人。そこで華恋は初めて「舞台」を意識する。客席がこんなに近くて、照明がこんなに熱くて、舞台がこんなにも怖い所で。ひかりを追いかけて演じ続けていた華恋にとって、客席は視野の外の世界だった(だからこそトマトには口をつけなかった)。舞台少女として生き続けるためには、その重圧にも耐えなければならない。「それでも」と言い続けるための覚悟を、今ここで試されているのだ。
そして、華恋は決断する。そのための燃料は、観客から与えられるもの(トマト)ではなく、自分自身。幼少期の自分、劇団に入団した自分、中学生の自分。母親や友人たちとの時間、あり得たかもしれない未来の可能性、そして約束の手紙。舞台少女・愛城華恋を構成してきたこれまでの全ての関係性、要素、過去。それら全部を燃やし尽くして、ロケットは東京タワーのレールを爆走する。「神楽ひかりがいるからこそ存在する舞台少女・愛城華恋」は一度死んで、燃料となって、たった一人の「舞台少女・愛城華恋」が高らかに生まれ変わる。アタシ、再生産。その産声は舞台で花開き、「再生産のレヴュー」にクライマックスが訪れる。
再生産を経て、華恋はこう言う。「演じ切っちゃった、レヴュー、スタァライトを」と。スタァライトを、ではなく、レヴュースタァライトを、である。それは神楽ひかりと運命を交換して産まれた愛城華恋という「キャラクター」から解き放たれた、一度空っぽになった舞台少女・愛城華恋の素直な言葉だ。列車は必ず次の駅へ。では、愛城華恋はどこへ?ひかりはどこへ?運命に縋りついて生きるだけの存在は、もうそこにはいない。与えられたものではなく自らの情熱で前へと進む愛城華恋と神楽ひかり、そして聖翔音楽学園99期生たちの姿を描いて、アニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』はようやく完結するのであった。
終着駅:煌めきを受け取ったトマト🍅
終わった。演じ切られて、観劇してしまった。ウテナとエヴァンゲリオンと中島かずきとマッドマックスを煮詰めて一本にした恐るべき情報量のフィルムに、こちらの脳は焼き尽くされ思考回路はショート寸前。二度の鑑賞をもってしても何かを取りこぼしていないか?受け取れてないんじゃないか?と心配するくらいには、まだまだ舞台少女の命を燃焼して生じる煌めきに、心を乱されている。
なぜスタァライトされちゃった人は一様に、アカウント名に🍅の絵文字を加えるのか。それは、自分自身が『レヴュースタァライト』に魅せられた自覚と、舞台を躍動させる燃料でありたいという願いがそうさせるのだろう。劇場版を二度も浴びて一夜開けた今、レヴュースタァライト以外のコンテンツを摂取することはおろか、飲食すら忘れキーボードをずっと叩いている私は、キリン🦒が言うように舞台少女が「危険な存在」であることを肌で感じ、レヴューを浴びたくて浴びたくておかしくなってしまいそうだ。荒々しくも美しい舞台少女たちの生き様は、今も心の中に巨大なポジション・ゼロを打ち立てたままだ。
未だエヴァンゲリオンから卒業できていないのに、ここに来て別の大きな「楔」を打たれてしまった。飢えて、渇いて、たわわに期待の果実を実らせた私は、舞台へと少女たちへ駆り立てる燃料の一つになってしまった。まだまだ離れがたくて、眩しいのだ。豪華絢爛で、感情むき出しの、あのレヴューの一つ一つが。
ただし、彼女たちが上がる舞台は(少なくとも、アニメ世界線では)もう『少女☆歌劇レヴュースタァライト』ではない。この作品から離れて、別の舞台へ。演じることへの恐怖も、憧れも、全て持って行って、次の駅へ。
必ず別れが訪れる戯曲スタァライト。されど、この余韻は思っていたよりずっと爽やかで、惜別といった印象はない。彼女たちは次の舞台へ、私は心惹かれる次の煌めきを求めて。たとえ違う道だとしても、自分自身の人生を歩んでいこう。ありがとう、レヴュースタァライト。