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『ガールズバンドクライ』2期来い

 『ガールズバンドクライ』について、前回はそれ以前の花田十輝が脚本を書いている作品からの流れをくみながら論じた。ここでは捕捉的に『ガールズバンドクライ』そのものに焦点を当てて簡単に記しておく。前回の『ガルクラ』の部分を踏まえ、花田十輝の流れを意識するのでなく、どちらかといえば『ガルクラ』そのものについて考えることを志向する。

前回

「間違っていない」彼女たちについて

 『ガールズバンドクライ』を考えるとき、自分は「私(たち)だけの物語」という言葉を用いた。いまや手元のデバイスを開けば、いつでもどこでも誰かに接続する、してしまう世界の中で、彼女たちはどのようにして「この経験は、自分たちだけのものだ」という確信を得られるだろう。作中で仁菜は、SNSを通じてヒナに接続して「しまう」。こうして、世界はアルゴリズムによって確率的なものとして管理される。彼女たちはインターネットの海で再会するかもしれないし、しないかもしれない。そうした乾いたリアリズムが、本作には通底している。
 このような世界の中では、これまで「日常系」を支えてきた「奇跡」というモチーフがもはや意味をなさない。本作で「奇跡」という言葉が明示的に用いられることは少ないが、その中でも桃香がダイヤモンドダストのことを「奇跡」と称したのは少なからず示唆的だろう。

やりたいことも一緒で、これは運命だと感じた。こんな奇跡ないって鳥肌が立ったよ。

第4話「感謝(驚)」

 到来することでしか知り得なかった奇跡はもうなく、すべては「確率を上げる」という行為に収斂する。桃香が信じた「奇跡」はすでに否定され、ヒナがボーカルに就くという「偶然」[1]に上書きされる。5話で桃香が言った通り、音楽性も主張もないダイダスは「ガールズバンドで、ばあさんになってもオリジナルメンバーで続け」ることを志向していた[2]。ダイダスが続くということをもって初めて、桃香の言う「奇跡」は信じるに足る強度を保ち、「ダイヤモンドダスト」というバンドは「私(たち)だけの物語」を描くことができた。この時、『ラブライブ!サンシャイン!!』の結論として肯定された「キセキ(奇跡=軌跡)」ということばを我々は思い出すことができる。彼女たち自身を肯ずるロジックとして用いられた「キセキ」ということばは、学校生活というような時間的制約があってはじめて意味を成す言葉だ。そうした磁場から離れたとき、この「キセキ」ということばは、半ば無責任な形で未来へ、あるいは我々が想像で補完することに投げ出される。だからこそ今のところ、『ガルクラ』について我々にできることは、彼女たちの未来を、ずっとバンドを続けていることを信じる、ということだけになる。
 他方で、現時点では過去(=軌跡)もまた、彼女たちを救うということはありえない。指摘するまでもなく、メンバーはそれぞれ肯定されえない過去を、歴史を背負っている。もちろんそれにはグラデーションがあり、彼女たちの苦しみは絶えず相対化されてしまう。しばしば指摘されるように、トゲトゲのメンバーはルパを除いて全員帰る家が存在しているし、仁菜は家族と、あるいはヒナと折り合いをつけた。けれどもそれは、ルパ以外のメンバーたちを救う理由にはならない。少なくとも彼女たちの背負う苦しみは、家の存在の有無によっては左右されない(もちろん、その苦しみが前提として家の存在の有無によって規定される可能性は否定しない。しかしそれは、何度も言ってきたように彼女たちの苦しみを否定する理由にはならない)。

 だからこそ、このとき『ガルクラ』が過去との折り合いをつけ、成熟する(した)物語であるという読み方は難しい。本作において、そもそもその水準の話はほとんど展開されない。どんな人間であれ苦しみは苦しみであり、他者と比較され得るものでも、されるべきものでもない。少なくとも彼女たちの問題は、そうでなければ見えてこないものだろう。その中にあって、彼女たちが納得できるようなやり方のうちの一つに確かな自分という存在、「私(たち)だけの物語」を手に入れることがあるという点で、彼女たちは一致しているように思える。
 特に言われることは、仁菜が丸くなった(=成熟した)ということだが、この点はやや認識の違いがあるような気がしている。そもそも、仁菜の「生きにくさ」は決して彼女の周囲との折り合いの悪さに紐づいていたわけではなかった。そうではなく、仁菜の「生きにくさ」を象徴する「間違っていない」という感情を貫いた結果として、周囲の衝突は生まれていたはずだ。たしかに彼女の周りは彼女が思っているよりは優しく、全編を通して描かれてきたように見えたのは、結局のところ独りよがりの苦しみだったのかもしれない。彼女が過去に拘泥していたものは、もう解決していると読むことは全く不自然なことではない。けれども他方で、彼女に降りかかってきた理不尽・不正義も同様に、忘れてはならないだろう。「仁菜が誰かを助けたことでいじめの標的になってしまった」ということと、「そのことに対して、(それぞれの思惑があったにせよ)ヒナも父も仁菜を助けられなかった」ということは、確固たる事実として存在する。仁菜の背負ってきた理不尽と、それに抗する「間違っていない」という信念は、父やヒナとの不和を解決したところでいささかの揺るぎもありはしない。その信念を貫くために彼女たちは事務所を退所し、ダイヤモンドダストとの"負け戦"を演じる。彼女たちは歌う場から逃げることはせずとも、メジャーの舞台からは離れようとしている[3]。そこに勝敗という判断は存在すれど、彼女たちの目的の中でその判断は意味をなさない。
 仁菜が「ロックではない」というのもまた少しニュアンスが異なる(そもそも、仁菜がロックのなんたるかを知っているようには思えず、この問いはナンセンスであるようにも感じられる)。なんにせよそのような周囲との軋轢に区切りをつけることは始点にすぎない。ただしこの時、カタルシスを優先する形で片方がもう一方を受け入れる、という図式は本作においてなんの意味もなさない。後述するように、仁菜は決して正しいわけではない。仁菜が折れるのであれば彼女の「間違っていない」といという信念は端から否定されてしまうのであり、他方でヒナや父が折れるということは本作を極めて単純な、視聴者の快楽を優先するだけの作品に貶めてしまうだろう。

 さて、前回の文章で書いた通り、自分が『ガルクラ』で最も注視していることは仁菜が「間違っていない」という声を上げ、彼女自身の人生が確かに「自分だけのもの」になり得るかという点だった。現時点で、それは達成されただろうか。見てきたように、本作において「奇跡」はあらかじめ完全に失効している。ダイヤモンドダストはすでにオリジナルメンバーではなくなり、信じていた永続性は失われてしまっている。そうした奇跡によって成り立っていた「私(たち)だけの物語」と呼べるようなものも同様に、容易に信じることができない。『ガルクラ』が立ち向かってきたのは、そうしたどうしようもない不安——願うことすら難しくなってしまった未来への不安—— だったように見える。他方で「軌跡」も、もう本作では彼女たちを肯定できない。けれどもそれは決して自分たちの軌跡を否定するということでもない。自身が描いてきた軌跡を否定するということは、自分が間違っていたことを認めることに通じる。彼女たちは、自身の軌跡を肯定も否定もしないかたちで前へ進んでいくほかない。
 彼女たちのとれる道は、過去を受け入れながら、未来へと進むというただ一つしかありえない。仁菜が晴れやかな顔で、「後悔していない」というのはまさにそのことを表現している。自分の見立てでは、この道は13話を通して、ようやく始点に至ったにすぎない。「奇跡は起きず、か」とすばるが最終話で言うように、彼女たちに一打逆転の奇跡は到来しなかった。そうして彼女たちは、ようやく「私(たち)だけの物語」への船出の準備を整え、その一歩目を踏み出した。「私たちの始まり」を、その一歩目を、踏み出すには、やはり結末は中途半端な形に収束する必要があったように自分には思える(逆説的に、自分にはあの結末は中途半端なものであるとは全く思われない)[4]。
 花田十輝は、『ラブライブ!』シリーズを通して奇跡、そしてキセキ(奇跡=軌跡)という言葉を用いて「私(たち)だけの物語」を肯定していた。本作においてその理路は、やや奇妙な形で萌芽している。「奇跡」も「軌跡」も信ずることが難しい世界の中で、彼女らが最後に用いた言葉は、「運命」という言葉だった。花田十輝はおそらくこの言葉を意図的に用いている。
 「運命」という言葉が現すのは、「いま、ここ」の瞬間そのものが運命的なものによって基礎づけられていると強く信ずることだろう。
 彼女たちは、不確かな未来に向かいながら永遠に歌い続けていく。もはや我々は、彼女たちは、日常を寿ぐ(確率的な)奇跡に触れることも、その終点で自身の軌跡こそがそうだったのだと信じることもできず、今ここに現前する世界が「運命」であるという簡潔なテーゼを信じることしかできなくなっている[5]。それは作中でも克明に描かれる。彼女たちが自ら選び取ったのは、誰の目からも明らかな「成功」の証しなど存在しない道だった。そこに確かな未来はない。だからこの物語が、「いま、ここ」にあるものが「運命」であり、また未来永劫そうであると信じることしかできない[6]。
 けれども、それでは意味がない。『ガールズバンドクライ』に対して、その続きが描かれないことはコンテンツそのものの矛盾を抉りだすことになる。もはや「運命」を無垢に信じることでしか、自身の存在に対する不安は解消されないということを提示しているだけでは、そして彼女たちの未来を視聴者に委ね、「運命」の存在を信じることだけでは、『ガルクラ』は『ラブライブ!』シリーズと同じ問題系にたちながらも一歩後退しているようにも感じられる。「運命」という言葉は、未来へ自身を投げ出す態度を孕んでいるように見える。「今が最高」と現在を寿ぎ(μ's)、「私たちがすごした時間のすべてが、それが輝きだった」(Aqours)と過去を肯じた先にあるものは、未来への視線であるような気がする。本作が13話を通してようやく始点に立ったというのは、そういうことだ。『ガルクラ』は今ようやく、未来に対して視線を向ける準備を整えた。
 だから本作は、ここで終わってはいけない。二期が絶対に必要だ。と、自分は強く感じる。奇跡も軌跡もありはしない彼女たちが「運命」を信じるということでしか前に進めないのだとしたら、それはただの絶望でしかない。本作によって描き出される希望とは、そうしたしかた以外で「運命」の手触り⚫︎ ⚫︎ ⚫︎を描写することになるだろう。花田十輝の、あるいは2010年代のコンテンツたちが見た夢の答えはわずかながら『ガールズバンドクライ』に芽生え始めている。もしも本作がその答えに手が届くのならば、「運命」の確かな手触りが描けたのならば、それは疑うことなく、自分にとって唯一無二の傑作になるだろう。

(おまけ)「正しくない」僕たちについて

 突然ですけど、自分語りします。いいですかルパさん(マジでしたくないんですけどしないと進まない内容が何点かあり、少しだけします)

 自分の人生が、自分にしか経験できなかったものだと、自分の生がただ一度しかない、特別なものだと素朴に信じることは自分にはもう難しい。我々の生は、記憶は、容易く誰か(それは過去・現在を問わず)と接続される。世界には自分よりももっと辛い人が、悲しい人が、苦しい人がたくさんいる。所詮自分は恵まれた環境に生まれ、自身の怠慢によってそれを手放し、勝手に苦しんでいる甘えた人間にすぎない。
 自分にはロックがわからない。HIPHOPも知らない。クラブミュージックも、クラシックもパンクもわからない。文学作品は読んでこなかったし、映画も見てこなかった。ついでに言えば、批評や哲学に触れたのもついここ数年の話だ。自分の手元に確かに残っているのは、ライトノベルとアニメ、あるいはニコニコ動画のがらくたじみた記憶だけだ(つまり音楽的にはアニソンとボカロ以外はほとんどわからない)。もっといえばアニメもほとんどリアルタイムのものしか見ていないので、歴史などはさっぱりだ(流石に今は「勉強」している)。
 自分の生が根本的に正しくないことはわかっている。無自覚に誰かを搾取し、傷つけてもいるだろう。そうしたコンテンツばかり見てきた自分に非があることもわかっている。そうした無自覚の他者への抑圧が解消されるべきであることはなんの衒いもなく正しい(自分が本当に心の底からそのように思っていることは、嘘偽りのない事実だ)。だから、『ガルクラ』において描かれたような仁菜の苦しみがひどく男性的なもので、またそれが巧妙に隠蔽されていることに僕は同意する。僕たちが彼女たちに託すのは、そうした苦しみの先にあるように見えた⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎、一筋の希望にすぎない。
 自分と仁菜はどことなく似ている、そう思いたいときがある(付言すれば僕が仁菜のことを自分のことのように感じてしまうまさにそのロジックが、本作の『男性っぽさ』を証明している)。仁菜が「間違っていない」という言葉を使うとき、その言葉を明らかに意図的に選んでいる時、彼女の裏側に潜む、本作が孕んでいる「自分は決して正しくはない」という自嘲が透けて見える。だから彼女は11話で、自分が歌う理由を「間違ってないって思いたい⚫︎ ⚫︎ ⚫︎ ⚫︎から」だと答える。彼女はおそらく、自分が本質的には正しくない、未熟な存在にすぎないことを自覚している。生活知識も怪しいままに1人で上京し、親に反抗しながらも生活を支えられている。そうしたことをすべて織り込んだうえで最後に残っていた部分が、それでも「私は間違っていなかった」という信念だったのであり[7]、それほどまでに彼女は追い詰められていたようにも見える(少なくとも僕は、このロジックの持つ重さを(同意するにしろ、批判するにしろ)背負えない)。
 仁菜が「私ってなんてちっぽけなんだろう」と自戒する通り、彼女はひどく当たり前に存在しているちっぽけな人間に過ぎない。彼女が中指ではなく小指を突き立てるのは、その矮小さ——世界の「間違い」を認められないのに、誰かを能動的に傷つけたくもないという自身の身振りの曖昧さ——の表象でもあるように自分には見える。その仁菜が「奇跡」の代わりに降りかかってきてしまった理不尽に立ち向かわなければならない状況にこそ、自分には見るべきものがあったように思う。それは極めて普遍的である一方で個別具体的な位相にある問題のはずだ(それは自分が『ガルクラ』に見出す主題にも共鳴している)。
 だから、自分には仁菜が完全にオルタナティブな第三項を探さない理由もよくわかる気がする。我々にはそうする才能もなければ、勇気もない。彼女が自身をちっぽけだと形容するように、自分もまた何をすることもできない矮小な人間にすぎない。こんな誰に読まれるのかもいまいちわかっていない文章を書いている間にも、某大学を卒業した同級生がスタートアップ企業にTwitterで(!)逆オファーをかけているのが見える(これは実際にしているのを見た)。そんな優秀な人間があつまる「オルタナティブ」で、ちっぽけな人間に何ができるだろうか。
 結局、逃れることのできない自分たちにできることは競争から離れず、されど完全にそのゲームに乗ることもなく、中途半端に生きていく道しか残されていない。その中で自分が「間違っていない」ことを証明する術はあるだろうか。決して正しくはないけれども、せめて間違ってはいなかったと、後悔していないと自分の生を肯ずることはできるだろうか。少なくとも現時点で自分にできることといえば、こうして意味のない文章を書き連ねることしかない。自分には、いつの日か自身が「間違っていない」ことを示すことができることを願いながら、この参照項だらけの言葉がそれでも自分だけのものであると信じることしかない。それはあたかも、彼女が参照項にまみれた「正しくない」歌で彼女たちの物語を歌おうとしているのと同じように。


[1] ここでは仁菜の言葉を引いて「偶然」としたが、これこそ確率を上げることによって発生したものだったはずだ(ヒナと仁菜は共にダイヤモンドダストの曲を聞いていたことを思い出したい。この時何度もオーディションを受けていたヒナが、ダイヤモンドダストへ加入するという確立は、少なからず上がっているだろう)。
[2] この点については、少なからず考える余地が残されているようにも感じる。つまりインディーズですらなく、もっとラフな形で継続するような在り方も模索できたように思える(が、それと同時にそういう関係値(特に、バンドは少なからず時間を食うだろう)はライフステージが変わると簡単に崩壊するというのもよくわかる話ではある)。
[3] 余談だが、ガルクラのメディア的な立ち位置もこれに近い気がする。既存のアニメーションというメディアのうちに留まりつつ、イラストルックという新しいものを探る、みたいな(個人的には口の動きが顔のモデリングの上に別レイヤーで乗ってるように見える箇所が何個かあり、この辺2Dの動かし方を踏襲してる感じがしてめっちゃおもろいな〜という感じで見ている)。知らんけど。
[4] 補足すると、本作が『ラブライブ!サンシャイン‼︎』のタッグであることを踏まえれば、むしろ11話で終わる方が個人的には不可解であり、メジャー契約をした際には自分は逆に不安にすらなった。『ガルクラ』のストーリーを考えるのなら、どう考えても『サンシャイン‼︎』は参照すべきである。とりわけ2期。見てくれ〜〜〜。
[5] この辺ピンドラと比較するとすげー面白い気がするが、話がややこしくなりすぎるので割愛(いずれ誰か書いてほしすぎ)。別所でいつか話せればいいなと思うが、自分は仁菜の考え方にとある人物に近しいものを見てとっている(もちろんそれは、仁菜がその人物と相似形であることを全く意味しない。自分は少なからず仁菜の考え方に共感している)。なんにせよ仁菜に「突き抜けてほしい」という欲望を仮託すること自体を否定する気はないが、そうした欲望が少なからず危険性を孕んでいることは理解されるべきであると感じる。
[6] ただし、花田十輝が「運命」を肯定的に用いているのかと問われれば、それは判断を保留せざるを得ない。現在放映されている『数分間のエールを』では、この言葉はやや否定的な用いられ方をしているようにも読み取れる(というよりは、作中で「運命」すら潰えてしまった存在が描かれる)。しかし『数エール』では「運命」は、若干奇妙な形で息を吹き返すことになるため、現状では判断がつかない。
[7] 彼女から「死」にまつわることばが一切出ないのは、自分はこの辺りに起因しているような気がしている。つまり「死」とは反抗をやめることなのであり、「間違っていることを認める」ということでもあるだろうということだ。

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