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菅寺尾城址→菅寺尾台廃寺跡→菅古墳 散策!

古墳と古代寺院と中世城址が、半径500m以内におさまる街

三沢川

JR南武線の稲田堤駅で降り、少し歩いて府中街道に出ました。
(久しぶりに稲田堤駅に降りたのですが、かなりキレイになっていましたね)


菅の由来

この地域は「菅(スゲ)」という地名です。
全国的によく見られる地名ですが、複数の由来あります。

植物由来
漢字から類推できる、分かりやすい由来です。

菅の地名
大昔、多摩川は多摩丘陵と武蔵野台地との間の低地を自由に幾筋も流れていましたが、その川筋が多摩丘陵の山すそからだんだん北に移動し、天正18年、夏の大洪水により氾濫してから現在のような流路に変わりました。広い平地には、「スゲ」が群生していました。そのために「菅」という地名が付けられたと、新編武蔵風土記稿に書かれています。

川崎市立東菅小学校HP

地形由来
スゲやスガ地名には、次のような説があります。
▪️
低湿地

地形・地名の漢字例
低地 (湿地)  
スガ、スゲ
、須賀、須加、須、砂(谷からの流出堆積地

地形地名の漢字例 東京地質調査業協会

▪️川崖

≪スキ地名≫
 杉すぎの字を当てたところが多いです。剥(す)きからきていて鋤(すき)に通じています。助、菅(すが、すげ)、繁(しげ)のほか、スキが月、附(ふ)に変化した地名もあります。スカとスガは流水が岸に衝突して川崖になるところのことです。

活かせ「災害地名」や言い伝え

確かに地形図を見ると、低湿地も川崖も当てはまりそうな感じ。


菅寺尾城址

しばらく歩くと、突然モフモフの丘が見えました。

すごい崖だ!この上かな?
この高度差を一気に登らせるか…

Google先生の案内通りに進むと、突然3段折りの階段!

上り切って振り返ると、すごい眺め。

手前の低地は馬場谷戸。馬場と言うからには、かつて馬を育てていた場所だったかも知れません。
(前出の地形図で、蛍光グリーンで囲ったところ)

ここから台地の先端へと進み、階段を少し降りて緑の遊歩道に入ります。

あれ?下に向かう道がある
かなり下る
どこまで下るんだろう?

下まで着くと、先ほどのGEOとガソリンスタンドの間の辺りでした。

さて、虎口からやり直し!

どうやら、こちらが本当の登城口のようです。

登り始めると、台地の中段付近の右手側にやや広いテラスがある。

その奥にはお墓が並んでいた

先には土塁?にも見えなくないが、自然地形かもしれない高まりがある。

戻って、再び登っていくと

見切れているが、右手にも上り道がある

元の場所に戻った。振り返って見たところ。

やや小さなテラスがあり、休憩所になっている。

やはり、中世城址は冬に行くべし

いよいよ、主郭へと続く上り道に進む。
左手下方に崖があるが、日本城郭大全ではこれを空堀跡としている。

広い敷地に出た。まずは左方向から行ってみる。

結構広い
やはり冬に…

台地の先端部分からの眺め。結構高い!

先端にある休憩処。ここから折り返す

土手は団地敷地との境目。これが土塁なのか、単に斜面を切り取ったのか、見ただけでは分かりませんでした。

菅寺尾城の伝承

記録が残っていないため、築城時期や活動時期、城主などがはっきりしていません。城主は寺尾若狭守(後に諏訪氏を名乗る)と伝えられます。
当地が「寺尾」のため、横浜市鶴見区寺尾に本拠があった「寺尾諏訪」氏と関連づけられたようです。

寺尾諏訪氏は元は扇谷上杉氏の家臣で、後北条氏の関東進出にともないその配下に加わりました。地理的には小机衆ですが、(軍事的には)江戸衆に属し、所領の寺尾郷は(行政的に)玉縄領の飛び地という複雑な環境。
扇谷上杉氏の内情を知るため、交渉役として活躍しました。後に、没落した他の諏訪氏の受領名「三河守」を名乗ったそうです。

5代目・諏訪午之丞(右馬助)は北条五代記にも名前が見られます。その功績にあやかり、菅寺尾城主と伝承されたかもしれません。

【ご参考】
戦国期寺尾諏訪氏の基礎的分析 伊藤拓也
北条五代記 第三巻 Wikisource 


城の構造

黄色線は筆者加筆。丸で囲ったところはテラス状の地形。2本線は溝のような地形。
上部赤点は菅寺尾城、下部赤点は菅寺尾台寺院跡。

まさに、多摩川氾濫低地に突き出した舌状台地の末端。周囲との比高は30mほど、北側稜線は勾配が50%で険しい。

自然地形か後世の造作かは不明ですが、中段に2箇所テラスがありました。階段の脇は深い谷があり、空堀ではないかという説もあるようです。

頂上部分が主郭と思われますが、後方が造成されているので、どこまでが縄張りなのか分かりません。明治迅速測図を見ると、丘陵の後方に平坦地があるので、そこが主郭の可能性もあります。

しかし、菅寺尾城は、小沢城と枡形城の間の「伝えの城」と言われているので、そこまで大規模な構造だったのかは疑問なところです。

この地が対上杉氏最前線の時期に、活躍した城なのでしょう。

1960年代の航空写真
1970年代後半の写真


菅寺尾台廃寺跡

鶴見川遺跡紀行の岡上廃寺の記事を書いている時、この遺跡の写真を見つけました。
「これは、もう行くしかない!」となり、即実行!

団地の敷地内に公園があります。

入ってみると

背景が団地と遊具なのがギャップ萌え

カッコいい!やはり、復元遺跡は気分もアガる!

こちらの表記は寺尾台廃堂跡
遺跡の上で子どもたちが遊べるなんて最高!

直径9mの円に内接する八角形の基壇。

柱跡もある
こちらは寺尾台八角堂跡の名称

寺尾台八角堂跡
この遺跡は平安時代初期に建てられた、東日本では数少ない八角形の仏堂の跡であることがわかりました。それは、この場所より13.5mも高い山林中にありましたが、団地造成によって建立当時の位置に保存することができなくなりましたので、ここに基壇を復元し、永く保存いたします

栄山寺八角堂(奈良県)縮尺50分の1
寺尾台八角堂跡は、これとおなじ規模のものと思われます

案内碑
ここより13.5m高かったのか…府中が丸見え?

稲城市の瓦窯跡の遺跡から発見された瓦が、この寺院に使われたことが分かりました。さらに、同じ窯で武蔵国分寺の瓦も焼かれていたことから、寺院の建立時期が平安時代初期から奈良時代に遡ったそうです。

多摩区の寺尾台団地内にある寺尾台第2公園の中に、八角形をした石積(いしづみ)が復元されています。これは、この団地造成にさきがけて実施された菅寺尾台廃寺(菅寺尾台廃堂跡)の発掘調査の成果をもとに復元した建物の基礎部(基壇)です。 

〈中略〉調査の結果、建物の基壇は直径7m強をはかる八角形をしていることが判明しました。したがって、その上に建てられた建物も八角形をしていたものと推測されています。八角形の建物を建築家は八角円堂とよんでおり、現存する建物では、法隆寺の夢殿が著名です。

 基壇は、一旦深く竪穴を堀り、そのなかをローム土と黒色土で交互に固くつきかためた版築(はんちく)をともなう掘込地業(ほりこみじぎょう)という工法が用いられています。こうした丁寧な基礎工事を行うのは、この基壇の上に重量のある瓦葺きの建物が建つからです。基壇まわりの化粧は、河原石を積み上げた乱石積(みだれいしづみ)でした。

 建物の屋根には、剣菱文様蓮華文(けんびしもんようれんげもん)というたいへん特徴的な軒丸瓦を葺いていました。
 従来はこの瓦の文様から、平安時代初期に建立されたものと考えられてきました。しかし、近年、東京都稲城市の大丸(おおまる)瓦窯跡から菅寺尾台廃寺の瓦を焼いた窯が発掘され、その成果から、従来の説を半世紀ほど遡らせ、奈良時代(8世紀中葉)に建てられたという考えも発表されています。

 また、これまでは人里離れた静寂な山林中に建ち、付属の建物を伴わないところから、一種の供養堂としてひっそりとした信仰を集めていたものと考えられてきましたが、最近では、古代の影向寺(ようごうじ)のような公的性格があったのではなかったかという説も出されています。まだまだ、これからも研究の対象となる貴重な遺跡です。

菅寺尾台廃寺(菅寺尾台廃堂跡)川崎市教育委員会

剣菱文様蓮華文の軒丸瓦

川崎市HPより

【ご参考】
文化財ノートNo.25 大丸遺跡 奈良時代の瓦窯跡 稲城市教育委員会
https://www.city.inagi.tokyo.jp/kanko/rekishi/bunkazai_note.files/oomaruisekinarakawara.pdf


公的な寺の可能性?

武蔵国分寺と同じ窯元の瓦を使っていたのなら、郡寺や郷寺のような公的性質を持った寺院だったのではという説があります。

橘樹郡では、郡衙遺跡の近くにある古代寺院の影向寺が、郡寺ではないかと考えられています。菅寺尾台廃堂は橘樹郡衙から遠く、むしろ武蔵国府に近いため、国府と関係性の強い豪族が建てた可能性があります。

国分寺と同様の技術を用いて寺を作ることは、地域に最新の建築技術を伝授することと、豪族の力を示すことでもあったそうです。

しかし…人里離れた山林の中。なぜ、こんな所に「ポツンと一軒」八角堂? 


キレイ事ばかりでない古代寺院

国分寺建立の詔
天平13年(741)聖武天皇により、国家の鎮護を祈るため、国ごとに国分寺と国分尼寺を建立する詔が発令されました。国分寺の多くは国府周辺に置かれ、併せて設置する七重塔(60m近くの高さ)も、国の威信をかけた一大事業でした。

しかし、国司の怠慢により、多くの国分寺の造営は滞っていたといいます。

中央政府は造営体制を国司から郡司に移行させるとともに、完成後には郡司の世襲を認めるなどの恩典を示しました。これによって、ようやく各地で本格的造営が始まったそうです。

寺院建立のメリット
多摩川流域の豪族たちも、武蔵国分寺の造営援助を要請されていました。その見返りのひとつとして、一時禁止されていた私寺(個人的な氏寺)の建立許可が与えられていたという指摘がされています。

一族の安寧を祈る氏寺を所有する名誉というのもあるのですが、一番の見返りは寺を作ると寺田用に墾田が許され、免税措置を受けられるということだそうです。

決して、美しい信心ばかりではない。(今も昔も同じ…)
瓦葺きの小さな御堂を一つ建てれば寺院として認められたので、「ポツンと一軒お堂」スタイルはコスパ最強だったのかもしれません。


菅古墳

ここまで来たので、近くの古墳も見ていこう!

長く真っ直ぐな丘陵の尾根道
あの尾根を登るのだろうか?(震え…)

坂道を下ると交差点があり、女子大の入り口に出た。

古墳が学校敷地内かどうか微妙な位置だったので、念のため、受付の警備方(初老の紳士)にと聞いてみた。

私「菅古墳というのは、学校の敷地内ですか?」
警備員A「古墳?」
警備員B「あぁ、アレのことかな。〇〇の辺りの…」
警備員A「アレが古墳なの? それでしたら、この道を上って…」

と、ご親切に丁寧に行き方を教えて下さったが、「全然大したことないですよ」と言われてしまった。徒労に終わることを心配してくれたのだろう。
「余計なお世話!」と言いたいところではあるが、このような方々は警察OBだったりするので、決して侮ってはならないのである。

何だか揉めているらしい…
一本道でわかりやすいけど、看板とかない。

しばらく細い山道を歩くと

急に開けた場所に出た。何だか盛り上がっている!

木々が石碑を守っている。なんか…何処かで見た風景。

あぁ、これはデジャヴだ!

左側から
後方から
右側から

東西約5.5m、南北約4.5~5.0m、高さ0.8mの円墳。
(従来は径8m、高さ1mとされていた)
なお、発掘調査されていないため方墳の可能性もあり、さらに、後年の信仰塚等の可能性もあるようである。築造時期は不明であるが、川崎市の北西部で調査された古墳から考えると、6世紀後半から7世紀前半と思われる。

菅古墳 古墳マップより
今もちゃんとお世話されている

石碑には光明院(向ヶ丘遊園にある)の開祖法印の名と、戒名らしきものが記されている。お墓なのだろうか?

慶長16年(1611)2月12日 まだ家康が生きていた頃だ
元和8年(1622) 2月⬜︎1日 施主 原田平左衛門

原田さんのご子孫が、今もご健在なのかしら。
「原田平左衛門」で検索すると、「原田所左衛門」という稲城村の村長(明治〜大正時代)がヒットした。石碑が残るということは、名主クラスの家系なのかもしれない。


先に進むと二手に分かれています。左手の読売ランド前駅の方から帰りましたが、中々急な道で蜂がいるとの注意書きがありました。

まっすぐ進むと、尾根道を伝って小沢城址公園に出るようです。
それはまたの機会に。

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炎天下の散策、思ったより水分を消費しました。持参した水筒の水は、早々に飲み切ってしまいました。

菅寺尾城を上ってから下ったのも、虎口から登り直すことが目的ではありません。
丘の上の閑静な住宅地を見たとき、この先コンビニや自販機が無いだろうことが推測され(実際に無かった)、水を購入するため、わざわざ下のコンビニまで戻ったのです。

丘陵のニュータウンは同じような環境が多く、市街地であっても水の購入が難しいことがあります。(お手洗いなども)

つくづく、先手、先手が大事です。


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とぅーむゅらす
オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。