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大塚遺跡 早渕川遺跡紀行(3)

おすすめ!お墓付きヒルサイド住居「弥生時代のニュータウン」

(2)からの続きです。


大塚遺跡

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歳勝土遺跡から歩いてすぐのところに、柵で囲まれた所が…

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柵の中に入ると、そこは…

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竪穴住居がいっぱい!

 大塚遺跡は、東西220m、南北130mの広さ。85軒の竪穴住居(建て替えを含めると延べ115軒)、高床倉庫10棟を全長600メートルの溝が囲む。新旧2本の濠(ほり)が台地の縁を地形に沿ってめぐる。古い環濠は北側でくびれた繭型に、新しい方は北側の谷を横切る。集落の出入り口には木橋を置いた。
 濠の規模は、最大で幅4.5m、深さ2.5mで、断面は上部に開き、下部は垂直に近い逆台形をしている。濠は水をたたえない空濠…(後略) 

移民系稲作民が作った弥生ムラ・今も昔も「ニュータウン」

大塚遺跡では、発見された遺構のうち竪穴住居址27軒を保存、7軒を復元。さらに高床式倉庫址と思われる10棟のうち1棟と、環濠を長さ250mの範囲で復元しています。

環濠集落

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環濠集落とは、外敵の侵入防御のために集落(ムラ)の周囲に濠をめぐらせたものです。弥生時代に入ると、水や土地・食糧など争いからムラとムラの間で戦いが起こるようになり、このような集落が築かれました。
ムラからクニへと、古代社会が変遷していく過程を示す遺跡です。


大塚遺跡の全体像

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 埋文よこはま34「横浜の弥生環濠集落」

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Ⅴ字溝を掘った土砂を土塁にして、上に木杭を打ち込んであります。

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環濠を渡る鬼橋。日常の出入りを便利にするために設けられたのか。実際には、歳勝土遺跡と反対側に架けられたそうです。

なぜ内濠なのか?
この遺跡の謎の一つが濠の位置。防御が目的ならば、濠は柵の土塁の外側にあるはずですが、大塚遺跡では内側に掘っています。
土塁や柵は周囲からの独立を意味するもので、濠は単なる排水先なのだろうか?
内部の人を逃がさないよう囲ったという説や、畜産説を唱える人もいます。

なぜか神奈川県に多い高地性環濠集落
この地域の環濠集落に見られる特徴が、高地性集落。周辺の低地と数十メートルの高低差のある台地に作られた集落で、かつては山城のような軍事的意味合いが強いと考えられていました。
しかし、最近では争いを避けるために、あえて高地に集落を作った可能性も指摘されています。


竪穴住居跡

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入り口近くに復元された住居跡。囲みが二重になっていますが、これは3回リフォームが行われた跡だそうです。
家族が増えて手狭になったのでしょうか(子だくさん?三世帯住居?)

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Y-2住居

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小型の竪穴住居を大型に立て替えたもの。
内部に狭かった時の溝があります(復元で残している?)

Y-80住居

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大型住居。ムラ長のお住まい(らしい)

Y-71住居

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床面積44.3㎡は、8、6、6、4.5畳の4部屋に相当する広さ!
3LD(1リビングダイニング・3ルーム)?

他にも復元住居がありますが…長くなるので割愛。

高床式倉庫

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収穫した作物を貯蔵し、ネズミなどの害獣や湿気から守るための倉庫。

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【ご参考】
遺跡へ行こう!その4「歳勝土・大塚遺跡」
都築の歴史新聞

戦いの絶えなかった弥生時代?

高地性環濠集落が作られた理由として、時代背景があるようです。
まずは、弥生時代と弥生人の発生過程について調べました。

弥生時代の年表

弥生時代

弥生時代の始まりは、かつてB.C.100年ごろとされていましたが、最近の研究ではB.C.500年にまで遡るそうです。
稲作が縄文時代の後期(B.C.1000 年ごろ)に入ってきたという報告もあり、しかも陸稲ではなく水田栽培が北九州で広がっていたそうです。
弥生時代と縄文時代の境目はグラデーションだったのでしょう。

弥生人の系統
弥生人は次の3系統に分かれるそうです。
①縄文人が定住農耕を受容した縄文系弥生人
②縄文人と弥生人が交わった混血系弥生人
③遅れて大陸から渡来してきた渡来系弥生人
【ご参考】古代遺跡から探る日本人のルーツ

縄文人と弥生人
昔の教科書的日本史では、「弥生人が縄文人と戦って、奪った土地で稲作を広めた」というイメージですが、実際には、初期の弥生人と縄文人は争うことはなかったようです。
縄文人と弥生人の集落は混在し違うフィールドで生活を営み、長い時間を経て、縄文系や混血系弥生人が増えていきます。(在来弥生人)

シン・ヤヨイジンの流入で弥生人大渋滞
中国で戦国時代を経て、全土を初統一した秦が誕生します。それに伴い、多くの中国系人が移民や難民として→朝鮮→日本へと移動してきます。
高度な技術を持ち、政治的・武力的にも組織化された渡来人が日本に流入すると、北九州で激しい戦乱が発生。
やがて渡来系弥生人は、瀬戸内海沿岸から近畿、中部、東海へと移動します。
次々と来る渡来人同士、または在来弥生人との間で、激しい争いが起きていたのかもしれません。


激動の弥生時代
武器となる鉄器が普及すると、特に西日本で激しい戦乱が勃発。魏志倭人伝にも、弥生後期の倭国は戦乱状態だったと記されています。

その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼という。彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。
魏志倭人伝(弥生ミュージアム)

弥生時代は日本にとって激動の時代。アメリカの西部開拓時代のような感じかも知れません。



港北ニュータウンの高地性環濠集落

環濠集落の展開
韓国南部が源流とされる環濠集落は、次のように広がります。
①弥生早期~前期前半、北九州に分布
②前期後半、瀬戸内海沿岸地域、近畿に拡大
③中期末、中部、東海、南関東で爆発的に増加
(この時期には西日本の環濠集落は大幅減)

弥生時代中期末の港北ニュータウンに、東海地方から渡来系弥生人が大量に侵入してきたと見られています。
その根拠として、当時の遺跡には東海地域にルーツがある宮ノ台式土器が多く発見されています。


横浜市内の環濠集落分布図

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 埋文よこはま34「横浜の弥生環濠集落」


縄文集落の分布図との相関性
環濠集落が作られた場所は、縄文時代の集落跡とかなり一致しています。

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港北の縄文集落を探る

縄文人が住みやすかった場所は、弥生人にとっても住みやすかったのかな?

あるいは、弥生中期のこの地域では、まだ低地水田開発が行われず、近隣の谷戸や早渕川の沿岸低地で稲作を行いながら、木の実や果実を採集や動物の捕獲を行う「稲作・狩猟採集のハイブリッド生活」を行っていたのかもしれません。


弥生時代はあまり興味がなかったので、ササッとリンクを張り付けて、次の遺跡に行こうと思ったんです。でも、連続的で系統的な学問の一部分だけフォーカスして語っていると、後で痛い目に合うということはこれまでの人生で経験済み。

弥生時代を知らずして古墳を語るべからず!

シリーズは、まだまだ続きます。


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とぅーむゅらす
オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。