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鶴見川上流端まで 鶴見川遺跡紀行(26)

およそ半年間放置している当シリーズ。

ようやく最後のパズルピースを埋め合わせることができたので、シレッと再開しようと思います。

赤丸の下の部分が埋まっていなかった

今回の記事は、下の記事を逆行する形で構成されています。

なので、記事が進むにつれ、夕方から昼へと逆行する謎の時間軸に…


本シリーズの形式上、前々々記事で到達した袋橋からスタート(したことに)

川沿いをしばらく進むと、新鎧橋につきました。

(撮り損ねはストリートビューで補完)

鎧堰跡

新鎧橋から覗いてみると、右側から細い水路が合流している。

前方が鶴見川上流側

水路に沿って遊歩道を進むと、途中カクっと曲がっていて

左奥が新鎧橋。さらに右側に段々が…
その先に、岩と石の構造物がある
その先には、あれっ?Y字に分かれて向こうにも流れてる
なんだかカッコイイ石積みの構造物。何だこれ?

案内板がある!

鎧堰…?

鎧堰の歴史

鎧堰は、永禄八年(1565年)に八王子城主、北条氏照候の印版状を得て武藤半六郎が構築した。北条氏照は天象十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻略による落城で秀吉から切腹を命ぜられた。しかし、この鎧堰はその後長い間地域の人々に守られ今日まで400年以上にわたって野津田地区で八町八反歩(約87000平方メートル)の水田に豊かな農業用水を供給して人々の生活を支え親しまれたきた。河川整備に伴う鎧堰の撤去に際し、歴史を記す

案内板より

(↑ 氏照の出した朱印状の本物が見れる) 


鎧堰の由来

1333年、上野国新田庄(群馬県)の武将・新田義貞は後醍醐天皇の命を受け、鎌倉幕府倒幕のための挙兵し、鎌倉街道上道に沿って進軍。両軍は小手指原(入間市)久米河(東村山市)にて衝突し、その後府中まで南下。二日間にわたって分倍河原(府中市)で激戦が繰り広げる。対岸の関戸付近では敗走する幕府軍を追って、激しい掃討戦(関戸合戦)がおこなわれた。

この合戦の末端で、兵の屍が鶴見川を流れ折り重なって堰をなし、その状況から「鎧堰」(当時は鎧ヶ淵)と呼ぶようになったとの伝承がある。
そのほか、堰の模様が鎧に見えたことから鎧堰を呼ぶ説もある。

案内板より要約

なかなか怖い由来だな…


鎧堰の機構
まずは、現在の機構を見てみましょう。

上流の堰

上流の河道に堰を設けて、一部を脇の水路に導水します。

緩やかな水路側に河川水が流れてきます。

そして、先ほどの三角形の石積構造物へ

ここで水の方向を変換させます。

余剰水を正面の細い水路から本川に放水(流量調整)、残りを左の用水路へ。

用水取水口を撮り損ねた!

左に続く用水(旧河道)へと水を流します。

用水に入らなかっ余剰水を、再び左奥の本川に戻します。

昔の機構

案内板より

鶴見川の流れが現在と異なっています。
上図から推測するに、まず、鎧堰で川を堰き止め、流路の方向を変更。河川水の一部は放水路で本川へ逃し、残りを取水堰で水位を調整して用水へと流す。余った水を再び本川に戻しているように見えます。

放水路や用水への導水路は、おそらく人工的に掘ったもの。当時から、このような堰を設計建設できる知識や能力があったことに、感慨を深くします。


鎧堰用水
昔の航空写真を見ると、旧鶴見川は現河道よりも北側に蛇行しています。鎧堰から分岐する細い線が用水のようです。現在の地図でも水路が記されています。

 現在の鶴見川←    →旧河道と用水

現在も旧河道は残っています。水が流れている感じではありませんが(暗渠とか水路はあるかも)、鶴見川増水時に遊水池や導水路として活躍するのでしょう。

新鎧橋の先にある鎧橋。かつての鶴見川の旧河道です。
(撮り損ねはストリートビューで!)


さらに先へと進みます。

夕方のさみしい風景…からの
なんだか明るくなった?

水鳥の群れ!カワウでしょうか?

宮川橋

川が丘陵に遮られ、屈曲し始める箇所です。


図師町

いよいよ、念願の鶴見川第4コーナーに到達。

青々とした丘陵の先端が、楔のように見えます。

川辺から見上げても、やっぱり立派な高台

図師大橋を通っているのは芝溝街道。東京の芝と相模原の上溝を繋ぐ道だから、そう呼ばれているそうです。東側は鶴川街道に接続しています。

芝溝街道は、市域では昔甲州街道の裏道として、江戸と結んで栄えた津久井道と呼ばれていました。津久井・愛甲地方の「絹」「鮎」、多摩丘陵の「黒川炭」「禅寺丸柿」等を江戸へ運んだルートで商業の道として活用されました。

まちだ史考会 https://machida-sikoukai.tokyo.jp/main.php?page=RekishiSanpo/Chirashi/K0112/Chirashi0112.PDF&id=sub2


そして、気になる地名「図師」の由来については、↓ こちらをどうぞ!


その先へと進むと、周囲の風景も上流感増し増しです!

だいぶ川幅が狭くなりました。

 

小山田神社

西側に突如として開けた平地があり、その中央に神社が建っています。

いい雰囲気
台座に年季を感じる
バランスがやばくない?

小山田氏に関連があるかと思いきや、江戸時代には内御前社という名前だそうで、明治期に地名から命名した模様。

ハス田が有名ですが、今は時期ではありません。↓の記事でどうぞ!


まだまだ、川は先へと続きます


道祖神 

小山田城のあった大泉寺近くの三叉路に、お地蔵さんと道祖神が祀ってありました。

意外に交通量が多く、遠くから撮影

石碑に「道祖神」の文字だけのシンプルなタイプ。町田や大山街道には道祖神が多いそうです。祠の後ろは、唐木田へと続く道です。


鶴見川上流端

そして、ようやく上流端に到着。

新橋から
奥に堰のようなものが見える

上流端の定義はいくつかあるようですが、ここは一級河川の基準点として設定されている場所です。ここから河口までの距離が、幹川流路延長の42.5kmなのです。

マラソン1回分かぁ…2時間ちょっとで河口まで走れるなんて、マラソンランナーってマジ神!自転車でも2時間40分かかるのに(Google map調べ)


薄井家長屋門

鶴見川流域によく見られる旧家(個人宅)かと思い、撮影しなかったのですが、上流端のすぐそばに立派な長屋門があります。

町田観光ガイド より

上小山田村の名主を務めた薄井家のお家だそうです。名主だった薄井盛恭は、明治期には石阪昌孝や村野常右衛門らと共に、この地域の自由民権運動をリードする人物でした。

新しい時代の中、多摩丘陵の小さな村々に、自分たちの権利を守るため、共に学び、助け合い、戦った人々がいたことに思いを寄せてみる。

それはきっと、彼らが、自らの所領を守るために戦ってきた武士たちの末裔だからではないかと。


次回は、中世の遺跡を巡ります!


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とぅーむゅらす
オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。