大昔の箱根駅伝、どのルートで山を登るか?
2022年の正月に箱根駅伝を見て、衝動的に書いた記事
この記事の末尾には次のような記述が…
あれから約2年、何の音沙汰もない。このままバックレるつもりなのか?
…と、お思いのみなさん!
Don't worry!I‘m climbimg (Hakone)!
(安心してください!登っています!)
当初は、日本橋や武蔵国府から箱根を越えて駿河国へ向かうルートを、時代毎にトレースする壮大な計画を構想していました。
しかし、サラリーマンにそんな時間の余裕は無い!これはリタイアした後の日々のお楽しみに取って置こう。
その代わりといっては何ですが、実はこの2年間、いろんなルートで箱根外輪山越えを実行中。今回は、記事にはしていないけど、有言実行中だということを示すために、これまでに登ったルートの経過報告します。(言い訳…)
再確認 時代によって変遷する箱根越えルート
先の記事で紹介した通り、時代によって箱根越えのルートは異なっています。ここでもう一度、箱根越えルートを再確認しましょう。
ルートの変遷には、当時の主要街道や地理状況、政治、宗教の影響など様々な要因が絡んでいます。前回は「古代」「奈良・平安時代」「中世」「江戸時代」「近代」の5ルートを紹介しました。
これまでに、3ルートを踏破?しています。
碓氷道 大雄山〜明神ヶ岳〜宮城野 乙女峠〜金時山〜公時神社を実施
足柄道 令和5年3月末まで通行止め区間あり。未実施
湯坂道 近日実施予定
東海道(箱根旧街道) 湯本〜畑宿〜甘酒茶屋〜芦ノ湖を踏破
芦の湯道(箱根国道) 踏破(?)
それでは、個々のルートの達成状況をご報告いたしましょう。
碓氷道:古代の箱根路
当時は沿岸地域が未開発で、内陸の矢倉沢往還(現・国道246号)が主要道路でした。そのため、箱根湯本ではなく南足柄市の関本がスタート地点。北部外輪山を越え駿河国の横走(よこばしり:「富士山を横に見て走る」に由来)に至る碓氷道が最古の箱根路と考えられます。
碓氷道の経路
1000m山越え×2、かつ、わざわざ火口原の低い所まで降りてくる「不器用な俺の生き様」ルート。これを一気に走破するのは超ハードなので、2回に分けて実施しました。
①乙女峠〜金時山〜公時神社
2つ目の外輪山越えを、外(御殿場側)から内側に入るルート。
国道138号線の乙女峠バス停から登ります。
天気が悪くて富士山どころか何も見えなかった…
乙女峠をそのまま内側に下る道もあるのですが、せっかくなので
金時山まで登りました。
でも、山小屋のカレーが美味しかったので、大満足!
しかし、金時山からの下りは道が険しく、やっとの思いで
公時神社に到着しました。
②大雄山最乗寺〜明神ヶ岳〜宮城野
大雄山線の終点「大雄山駅」からバスで最乗寺にやって来ました。
最乗寺自体が凄く立派な山寺です。
この先に登山道の入り口があります。
登り始めが非常に急登。土が流されていて悪路が続きます。真夏だったので水を多めに携帯したのと、強羅で1泊する荷物を背負っていたのでキツい。
ここから明るい尾根道に出ます。
とても歩きやすい道に出た
と思ったのが間違い。ここからダラダラと長い斜面がずっと続くのだった。
暑い、荷物が重い、景色の変化が無い…
そして、空が近くなったと思った瞬間、先が見えて絶望…
最後のもうひと絞り!気合いを入れて登る。
今度こそ空が間近になり、急登を登り切る手前に奇跡のヤマユリが…そして
感動の外輪山尾根筋に到着!
その先5分で明神ヶ岳山頂(1169m)に到着。ここでノンアルコールビールのフタをプシュッと開けたら、山頂にいた人々の羨望の眼差しが突き刺さりました。
そして、地味に辛かったのが、明神ヶ岳から宮城野までの道のり。かなり急な上、距離も長い。特に市街地に入ってから長くて、精神的にしんどかった。
宮城野〜碓氷峠〜乙女峠
またの機会に実施予定。
まとめ
で、今回の行程で何が分かったかというと、「古代人ハンパねぇ」ということでした。
足柄道:奈良・平安時代の箱根路
奈良、平安の時代になると、足柄道が箱根越えの官道として使用されます。足柄峠は足柄坂といい、この坂から東側が「坂東」、つまり関東を意味するようになりました。
足柄道の経路
もはや箱根外輪山にも入らない「最短で最低標高」の超合理的箱根越えルート。一番楽そうなので最初に挑戦しようと思いましたが、台風による山道の崩落被害により、昨年度まで通行禁止でした。
今年3月末より(一部区間を除き)通行が可能になっているので、来年早々にでも挑戦してみたいです。
湯坂道:中世の箱根路
平安末頃からは箱根道(小田原〜箱根〜三島)の利用が促進されました。延暦21年(802年)の富士山噴火によって、御殿場周辺の交通状況の悪化が契機となったようです。小田原と三島の沿岸都市同士を直接結ぶルートで、そのような地域が政治経済の中心に成り代わっていく様子が伺えます。
伊豆半島を治める勢力が、政治的にも影響力を持っていた時代です。
中世箱根路の経路
湯本から国道1号と箱根新道(旧東海道)の間に位置する湯坂山の尾根を登り、浅間山と鷹巣山の尾根伝いに元箱根へ。登り始めが急勾配で辛そう。その後、芦ノ湖沿いから箱根峠へ登り、海ノ平山から国道1号の西北を並走するように、外輪山を三島大社へと下ります。
こちら本年中に実施の予定です。
東海道(箱根旧街道):江戸時代の箱根路
江戸時代、徳川家康が街道整備に着手する中で、箱根山越えは「箱根八里」とよばれるルートに変更されます。これは、旧東海道の一環として小田原~三島間を最短ルートを結んだということ、さらに箱根関所の設置により江戸防衛の重要地点として箱根山を位置づけていたということの表れです。
箱根旧街道の経路
江戸時代の箱根路は、現在の箱根新道に近いルートです。
湯坂道に比べると、上り始めの勾配が緩やかになりました(その分「七曲がり」が急)。最高点が90m低くなり、三島への下りも少し楽になったように見えます。距離も地図上の概算では2kmほど短くなりました。
幕府による箱根道の整備
二代将軍秀忠は東海道の改修を命じ、湯本-畑宿-箱根宿の東海道が建設。 1604年には街道に一里塚が、1619年に関所が置かれ、東海道に宿駅制度も定められ、53宿駅が小田原や三島のほか、箱根にも置かれました。
箱根路は急な山坂道が多く補修が大変でした。幕府は沿道の村人に補修工事に当らせましたが、竹で土止めをするのでは、往来も多いためすぐに壊れてしまいます。そこで1668年、幕府の資金により永久的な石畳の道を造ります。これが箱根旧街道の石畳です。
途中の説明板では、皇女和宮が江戸に輿入れする際に石畳を再整備したとありました。
畑宿
割とあっさり到着しました。でも街の看板を見たら…
この辺りから勾配が急になります。雨水の排水溝などの工夫がなされていて、石畳だからこそ、現在も旧街道としての名残りが残っているのだと思いました。
本当に旅人の憩いの場。この日は外国人の方が大勢いらした。
感想
古代の箱根路と比べれば標高差も小さくなり、道も整備されていて楽に歩けました。石畳の構造など、街道の歴史の看板も多く設置されていて、とても勉強になります。
畑宿は上りがキツくなる前に設置された宿場町、甘酒茶屋はここにあって良かったと思わせる場所にある休憩処、昔の人は商売上手だなと感じました。やはり、近世に作られた街道ですね。
芦ノ湯道(箱根国道=国道1号):近代の箱根路
国道1号は湯本から旧東海道を離れて早川沿いに大きく迂回し、上りの距離は5kmも伸びました。登り始めが急な湯坂道、最後の登りが急な箱根八里に比べると、距離は長くなりましたが、ほぼ一定の勾配になっています。
このルートが選ばれた理由は2つ。
① 箱根七湯を通ること
② 馬車や人力車が通行できるような勾配であること
温泉と景勝地を持つ箱根をリゾート開発するために、福沢諭吉が提言しました。
箱根国道は歩くことも可能ですが、車道も歩道も狭くカーブが多いことから、危険な箇所が多いです。それでは、どうしたら良いか?
実は、箱根登山バスの箱根町線でそのまんま疑似体験できます。
ちょうど、箱根旧街道の帰りにこのバスに乗りました。
よって、踏破したとみなす!
・・・?
以上が途中経過報告です。
何とも中途半端な記事ですが、最近になって「大昔に箱根駅伝があったら、どのルートで箱根を登ったか?」のアクセス数が上がっていたので、邪な考えで本記事を作成しました。
いつか、必ず、個々の箱根路を詳細にまとめた記事を作成する(予定です)!
↓ 4ルート走破したことを伝えた記事です。