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境川・鶴見川分水界を歩く 鶴見川遺跡紀行(番外編)

武相国境と二つの川の狭間で地形愛を叫ぶ?


鶴見川の第4コーナー

鶴見川遺跡紀行、いよいよ源流域に近づいてきました。

このまま既に散策済みの小山田と鶴見川源流の泉へと記事をつないで、さっさとシリーズ完結にしたいのですが……実は、まだ見ていない地域が

それが、赤でマークした部分の下の方。
ちょうどこの辺りから、鶴見川は急に曲がっています。

鶴見川って、直角に曲がるところ多くない?

これまでも風景と共に記事にしてきたので、直角に曲がる川の絵が欲しいなぁ。

それと、地味に境川と鶴見川の分水境界が見てみたい。

今回の行程の断面図

この辺りの境川と鶴見川は2km弱しか離れていないのに、境川は相模湾へ、鶴見川は東京湾へと大きく進路を変えていきます。しかも、2つの河川を隔てている分水界の標高差はそれほど高くない。

特に矢部町・図師町間では、境川から見てわずか10mほどの高まりが、鶴見川水系と境川水系を分けていることになる。

ヤバい!あともう少しで河川争奪しそう。

事実、境川の前身である古相模川は壮絶な人(川)生を歩んでいる。

御殿峠を越え、多摩川の流路を流れ東京湾に注ぐ→
(多摩丘陵が隆起する)→
境川の流路を流れ相模湾へ→
洪水のたびに流路を変え西遷→
相模原台地を削り、段丘を形成しながら現在の流路に ←イマココ

【ご参考】
境川流域ガイドhttps://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/018/314/guide.pdf

また、真偽は不明だが、Wikipediaによると、古相模川が境川などを経由して鶴見川河口へ流れていたとも書いてある。

こうなってくると、その分水界の標高差を自分で歩いて実感したい。

しかし…この周辺は、シリーズ前回の小野路に続き交通網空白地域。
JR横浜線・淵野辺駅から片道3kmは歩かないといけない。どうしよう…


境川と鶴見川の分水界を歩く

相模原台地

で、結局、淵野辺駅から歩いています。

ただただ、真っ平な相模原台地。

相模原台地は古相模川が形成した扇状地に関東ローム層が堆積し、相模川などの河川が開析した段丘状の台地です。最上段の相模原面は6万年前の地層面で、台地内で最も古いそうです。

しばらく進むと…坂道だ。川が近いかも!

その先に広い畑が現れて…

お地蔵さんと道祖神の祠がある。


境川

そして、いよいよ境川にでました。

こちらが相模國、川向こうが武蔵國

昔は「高座川」または「田倉川」と呼ばれて、1594年に相模国と武蔵国の境界として定められたことから「境川」になったそうです。名前の由来は意外にも新しいんですね。


両国橋を渡って行こう。いざ、武蔵國へ入国!

武相両国にまたがるから、両国?


箭幹八幡宮

真っ直ぐ進んで高台を目指します。すると…

参道の長い、雰囲気の良さげなお宮さんが!

神仏習合の名残りか?

お寺の仁王門のような建物…随身門だそうです。

こちらは箭幹(やがら)八幡宮。

創立は616年(推古天皇24年)と伝わる。後北条氏の配下であった小山田氏一族の氏神として崇敬され、かつては「木曽八幡宮」とも呼ばれていた。
社名の由来は、『武蔵風土記稿』では「造営の時に社殿屋上に矢幹をさしたので矢幹八幡になった」、『武蔵名勝図会』では「木曽八幡と称するに至った木曽義仲が滅亡したので、木曽を憚り、箭柄八幡に改称した」と記されている。
また、源義家が病にかかった際に当社に祈願したところ、快癒したので神社の再興を願い出た。この時に屋根に羽矢を挿し、境内に矢竹を繁茂せたことから箭幹八幡宮と名づけ、この地を矢部と称したとの伝承が、境内の石碑に記されている。

Wikipediaより要約

八幡宮を出て、お宮沿いに進みます。

この先は桜美林大学。前に町田街道が走っています。(下校時で写真は自粛)標高が110mほどで、境川から10m高くなった場所。

桜美林大学のキャンパス内を突っ切って、更なる高みを目指します。

奥のコンビニの前には新町田街道。その先もまだ登っている。

何だか、あそこが頂上っぽい


尾根緑道(分水界)

突き当たりは道が通っている。尾根道のようだ。

調べたら、ここら辺は標高130mだった

芝生の遊歩道に降りてみると…

先に看板があった!

尾根緑道?

多摩丘陵と相模原台地の際の尾根づたいに東西に延びる緑道。桜の名所となっているほか、秋には紅葉が楽しめる。南方には相模平野や丹沢山塊、富士山が一望でき、四季を通じた周辺住民の憩いの場となっている。
元は1943年に築造された未舗装の戦車用テストコースの一部で、かつては「戦車道路」と呼ばれていた。相模原市内の相模陸軍造兵廠で生産された戦車の走行試験や、陸軍士官学校生の操縦訓練を行なっていた。
戦後は防衛庁が再整備をして「車両試験道路」として管理し、1965年頃まで装甲車などの走行試験に使っていたが、その後、町田市が国から借り受けて緑道として整備し、名称を改めて市民に開放した。
1988年手づくり郷土賞(やすらぎとうるおいのある歩道)受賞。

https://ja.wikipedia.org/wiki/尾根緑道より要約
戦車の代わりに人々が歩く道へ。平和な時代になってよかった


鶴見川水系へ

さて、分水嶺から鶴見川に向かって進む!
さくら通りを少し下り、町田市バイオエネルギーセンターの脇の道に入ります。

わぁ!目の前に色づいた木々が広がっています。

しばらくすると、顔のような双子の建物…が見えた

ハニワっぽい

こちらは町田市考古資料室です。

詳しく調べていかなかったんですけど、土日開館だそうです。
(平日に出かけたので入れんかった…残念)
でも大丈夫!デジタルアーカイブで収蔵物を見ることができます。
(ちょっと画面酔いするけど)

とは言っても、アーカイブ内に個性的な土偶たちを見つけ、やっぱり実物を見たくなった。あぁ、もう一度ここを訪れることはあるのだろうか?
(自由民権資料館のようにリベンジする気力があるか…どうする?)


小山田1号遺跡

目的の一つが果たせなかったので、ちょっと無理をして尾根を一つ越え、小山田桜台こぶし公園まで足を伸ばしました。

ここにあるのが、小山田1号遺跡。

古代の遺跡かと思いきや、

中世の土豪の屋敷跡だそうです。詳しくは鶴見川遺跡本編で!


鶴見川へ

小山田桜台8号緑地脇を進むと、目前に小山田緑地をはじめとする紅葉の森が広がりました。

風の丘公園からの眺望

美しい…町田市のように栄えた市部で、今もこのような里山風景を見ることができるなんて。

丘を下ると、ようやく鶴見川の上流端に出ました。

は〜るかなる鶴見川 わがふるさと〜

ここから川を戻るルートで、遺跡紀行に必要な写真をいくつかゲットします。


図師大橋

名前の由来がとっても気になる図師町。

見てくれ!あの張り出した尾根の突端を

町のアイコンでもある図師大橋の写真を撮った!

図師町で遅い昼食を取ろうと、Google先生おすすめのモツ煮のお店「まぼろし」に入ったら、「すみません。もう、モツ煮が無くなってしまったのです」とのこと。リアル、( ゚д゚)__♭“マボロシー!
(こちらもリベンジする機会があるのだろうか…)

お腹が空いても、川はまだまだ続く。

水鳥が大渋滞
冬なのだけど、秋のような景色


鎧堰跡

鶴見川そのものが遺跡である鎧堰跡。

鎧堰

次回の鶴見川遺跡紀行はここからスタートの予定です。

ここでスマホの電池もワタシの電池も切れかけたので、最後の力を振り絞って帰路へと向かいます。


鎌倉街道の碑

鎧堰から七国山緑地地区を駆け上がる。

スマホの電池が無いので写真を諦め、Googleマップ用に電池を残す。
美しい紅葉の景色は自分の目に焼き付ける。

一応、ポイントだけは抑えよう。
エアー井戸?
来た道を振り返る

ここから最短ルートで古淵駅を目指すけど、電池残量がないので地図と野生の勘だけ適当に進む。

町田ダリア園の横を通ると周りの景色が一望できる。
標高120mくらい。この辺りは鶴見川と恩田川の分水界だ。

だけど、木が多くてキレイな写真が撮れなかった。

少し下った場所からは、丹沢山地がはっきりと

やっぱり、町田の丘は美しい!

古淵駅まで歩いて帰ろうと思ったけれど…大通りが見えたら、突然気が抜けた。

団地いちょう通り。遠くに相模原台地が

あぁ、もうバスで帰ろ。
恐る恐る給水塔前にあるバス停の時刻表を見ると…
やった!あと8分でバスが来る。(しかも1時間に2本だけの)

ありがてぇ。気分はもう太川陽介!

バスに揺られながら、来た道とは逆に相模原台地へと登っていく。
エンジン音からも、地形のアップダウンが感じられる。

再び相模國に入境し、横浜線の車窓から、だだっ広い相模原台地を眺めながら帰りました。

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とぅーむゅらす
オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。