見出し画像

小山田城址 鶴見川遺跡紀行(28)

鶴見川上流域のドン・小山田氏の本拠へGO!

前回、小山田氏の馬牧に関する遺跡を見ましたが、

今回は、小山田氏の本拠地を見に行きます。


小山田緑地

小山田緑地からスタートします。またもやチートして車でやって来ました。

小山田緑地は町田市の北西部、多摩ニュータウンに近接する緑豊かな丘陵地にあり、計画面積約146haの一部を開園しています。園内には、コナラ・クヌギ・シラカシ等の雑木林のほか、ボール遊びも出来る開放的な草地の広場、トンボ等が生息する水辺があり、散策や、軽スポーツ、自然観察に最適です。
緑地の周囲にも、さながら多摩丘陵の原風景といった趣の田園風景が随所に残り、周囲を結んだ軽ハイキングや遠足などに適しています。

早速スタート!

園内の高台にある「みはらし広場」
天気がいいと富士山が見えるらしい
小山田の谷 ため池があります
公園を出たところには白山神社
再び、梅木窪分園へ。吊り橋があります。
大久保分園の小山田の道
谷戸には畑が広がっています
トンボ池

今も多摩丘陵の原風景が残る、美しい公園です。


大泉寺

小山田緑地を出て、隣接する大泉寺に来ました。

武相十一番菩薩の碑
まっすぐな参道を進んだ先に
大泉禅寺の門
無極さんが開山したことから、無極場なのかな
立派な本堂

(下小山田村)大泉寺
村の東北にあり、補陀山水月院と號す、曹洞宗、入間郡越生龍穏寺末山なり、寺領八石の御朱印を賜へり、安貞元年二月十五日の起立なり、相傳ふ、當寺境内は小山田別當有重が居住のあとなり、よりて有重が為に開基せし所なりと云、有重の法諡を大仙寺天桂椙公と號す、寺號はその字をとりしなるべし、仙と泉とは同音の字なり、開山の僧を無極と云、永享二年二月二十八日寂す


そう、ここが小山田有重の居城、小山田城址なのです。

本堂の背後の山が小山田城とみられる

だけと…特に案内がなく、どこが城址の入り口か分からない。城郭訪問ブログに見られるような写真の風景が見当たらない。

お寺の裏手にある墓地からの眺め

散々ウロウロした挙句、諦めて帰ろうとしたその時、若いご夫婦がお声がけくださった。
「城址を見にいらしたんですか?それでしたら、お寺の方に声をかけると行き方を教えてくれますよ」

今、この若夫婦が呼び鈴を押したばかりなのに、私までお声かけするなんて…。けど、この地に二度来ないかもしれないし、この機会を逃したらもう一生見られないかも。

どうしよう。。。


小山田城址

思案の末、お寺の呼び鈴を押してしまった。
すると、嫌な顔ひとつせず、ご住職の奥様がご親切に対応してくださった。本当にありがとうございました。

羅漢像が立ち並ぶ城址への登り道
堀切との表記
二の丸址
かなり広い
二の丸を振り返る
なんだか堀切っぽい
その先には虎口
本丸は少し高くなっているみたい
本丸は2段構造のようにも見えます
その先には斜面が続いている


縄張(想像)

明治迅速測図に加筆

開析が進んだ複雑な樹状地形は自然の竪堀。居館まで続く参道が長く、左右に丘が張り出していて懐が深い城に見えます。
地理院地図によると、本堂が標高100m、裏山は125m、左右の谷戸が90m、鶴見川沿いの街道が80mほど。

小山田緑地大久保分園から本丸の後方を見上げる
(左上はゴルフ場)

堅牢そうな一方で、独立した丘陵の先端部は、裾野を大軍で包囲されると逃げ場が無いようにも…その点では小野路城の方が戦闘向き。ネット上では複雑な城郭図予想も見られますが、個人的に単純な二郭構造だったのではないかと想像します。

ただ、痩せ尾根が敵の侵入路を狭め、正面の2つの高台(標高約105m、120m)は出丸として機能、北の高台(130m)は後方守備固め兼脱出路なので、地形を活かした居館型要塞であることは間違いない。

居館としては、最高のセキュリティだ。


鶴見川上流域のドン、小山田氏

城の歴史を語る上で欠かせない、築城主の小山田氏について調べておこう。

秩父平氏系

小山田氏は桓武平氏の流れを汲む秩父氏の系譜。

 桓武平氏の流れをくみ、秩父牧(埼玉県秩父市)を本拠として発展した秩父氏は、平安末期までに葛西・豊島・河崎・渋谷・河越・江戸・畠山・小山田などの有力諸氏を分出し、代々国衙の在庁官人を統轄する立場にあった。また国衙軍に編成された国内の党的武士団に対する軍事動員権も有していた。
 秩父重弘の三男有重が多摩郡小山田を名字の地とし、さらにその子孫が稲毛・小沢など国衙周辺地域に発展していったのも、秩父氏のこうした国衙における立場を背景としたものであったであろう。有重は小山田別当を称していることから小山田牧の別当であったと考えられているが、小野牧や由井牧が荘園化していったように、小山田の地も後に小山田保あるいは小山田荘としてあらわれる。
 有重の子重成は橘樹郡稲毛荘を本拠とし稲毛を称した。また小沢郷を所領としていたことも知られ、その子重政は小沢を称している。

多摩市デジタルアーカイブ 平姓秩父氏より抜粋要約
https://adeac.jp/lib-city-tama/text-list/d100010/ht050090
多摩市デジタルアーカイブ 平姓秩父氏に加筆(赤三角が小山田氏一族)
https://adeac.jp/lib-city-tama/text-list/d100010/ht050090

この図を見ると、小山田氏は南武蔵で力を誇っていたことが分かる。

柿生文化55号より引用加筆 
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka55.pdf

小山田氏家系図には諸説あり、長男は幼くして亡くなったと伝わる。また、六男については記述のない家系図が多い。

多摩市史 通史編1 中世 鎌倉時代 に加筆(城はおおよその位置)
https://adeac.jp/lib-city-tama/viewer/mp000010-100010/tamashishi_tuushi01/577

南から武蔵国府に入るルートをほとんど押さえていたように見える。


小山田城の築城

小山田城は承安元年(1171)に小山田有重によって築城され、近くの小野路城も同時期に築城。こちらは支城と見られ、二郎重義が在城と伝わる。(川崎市のHPでは、重義が小山田城、重久が小野路城の城主と伝える)

周辺で、小山田氏が築いた城と言われる箇所


鎌倉時代の小山田氏

秩父平氏一派は源頼朝に帰属し、鎌倉幕府の成立に貢献します。特に畠山氏と小山田氏一族は有力御家人でした。
しかし、元久2年(1205)北条時政の計略で、頼朝の忠臣だった畠山重忠に謀反の嫌疑をかけられて征伐されます(畠山重忠の乱)。すると北条政子と弟・義時は父・時政を追放し、合わせて討伐軍に加わった同族の稲毛重成親子と榛谷御厨の秩父重朝親子を計略の首謀者として討ち取りました。

これを契機に小山田氏一族は一気に衰退。
何という理不尽オブ理不尽…でも、これには理由があるようです。

鎌倉上の道の通る小山田、武蔵国衙に近い小沢郷と稲毛荘、鎌倉中の道と下の道の分岐点に近い榛谷(はんがや:二俣川〜保土ヶ谷周辺)は、いずれも重要な場所。
元より国衙でのさばる秩父平氏一族を、北条氏が快く思っているはずはありません。小山田氏勢力削減は、関東平定の足掛かりの一つだったのでしょう。

その後、小山田庄は北条氏の所領になったとみられていますが、1227年に五男の行重が、父有重の菩提を弔うため現・大泉寺を建立したとも伝えられています。

小山田一族有重・行重・高家の宝篋印塔(顕彰碑裏手登る)
Wikipedia 小山田有重 より

さらに室町時代、上野国の新田義貞の家臣に、小山田高家を名乗る勇敢な武将がいました。小山田との関連性は明確ではありません。彼もまた、湊川合戦で主君の身代わりに討死したと伝わります。

これ以降、小山田氏の名前は一旦途切れてしまいます。ここに、小山田氏は滅亡したとおもわれましたが…


甲斐(郡内)小山田氏へ

畠山重忠の乱の時期にまだ幼かった有重の六男行幸(五男行重との説も)が、有重の母(横山党小野氏)の血縁の土地(山梨県都留市)に落ち延び、甲斐小山田氏として生き長らえたそうです。

小山田氏は武田氏と姻戚関係を結んで親交を深め、戦においても活躍したため、甲斐国内で大きな勢力となりました。

また、後北条氏の小田原衆所領役帳他国衆として、小山田弥三郎(比定:信有)に武蔵小山田荘419貫812文の知行を、弥五郎(比定:信茂)に伊豆国内381貫100文の知行を与えるとの記載があります。
武田氏と後北条氏は天文13年(1544年)に同盟関係となり、小山田氏は武田・北条外交の取次を務めていたそうです。

しかし、武田信玄の急逝後、息子の勝頼は織田軍との戦いに大敗し旗色が悪くなりました。当主の小山田信茂は自身の所領を守るために、勝頼を裏切ることを決意。行き場を無くした勝頼は自刃し、武田氏は滅亡しました。
しかしその信茂も、裏切り行為が織田信長の怒りを買い、天正10(1582)年に家族と共に甲府善光寺で斬殺されてしまいます。これも理不尽。

こうして甲斐の小山田氏も途絶えました。

しかし…

小山田氏フォーエバー

小山田氏の勢力は南武蔵にまたがっており、たとえ本家が衰退したとしても、分家筋が「小山田」の名を継承し続けた可能性はあります。北条氏衰退後、この地に戻った縁者たちが再び名前を継いだかもしれません。

江戸時代、会津松平家や米沢上杉家に小山田氏という家臣が存在し、小山田家嫡流を称したそうです。

甲斐小山田氏でも、子孫や遺臣たちがその名を遺していったのでした。


その後の小山田城

室町時代に小山田庄は扇谷上杉氏一族の所領となりました。

1476年の「長尾景春の乱」では扇谷上杉方が小山田に拠点を構えたそうですが、(小野路城とともに?)長尾景春の軍に攻め落とされたと伝わります。城址に多く設置された羅漢像は、その戦没者を慰霊するためのものだそうです。

戦国時代、後北条氏が小山田城を再利用したという言説も見られます。しかし、城郭の大きさから見ても戦国後期の様相ではないので、一時的使用の可能性はあっても、兵力が常駐することはなかったのではと推測します。

【ご参考】

柿生文化55号 武士の世
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka55.pdf

柿生文化56号 小山田氏と大泉寺
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/06/Bunka56.pdf

柿生文化147 鶴見川流域の中世 多くの武士が割拠した鶴見川
http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2020/09/46b496bb3e2ee6437e7c4daae9ee628d.pdf

柿生文化148 鶴見川流域の中世源平の争乱を生き抜いた武士 小山田有重http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2020/08/10d0a2e2388b7a0fc11c9d6346ea9cab.pdf

柿生郷土史料館 第55回カルチャーセミナー 鶴見川流域の鎌倉時代 中西 望介 http://web-asao.jp/hp2/k-kyoudo/wp-content/uploads/sites/22/2015/07/Seminar-55.pdf

「滅びゆく武蔵野」桜井正信(有峰書店)
「小山田物語」町田ジャーナル社 
「町田:歴史と文化財」林陸朗(有隣堂)
国会図書館デジタルコレクションで閲覧可


甲斐小山田氏について

郡内研究 第2号 郡内小山田氏の系譜https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/tyusei/pdf_b/B004-1.PDF


次回は、いよいよ源流域へラストスパート!


いいなと思ったら応援しよう!

とぅーむゅらす
オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。