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朝光寺原遺跡 鶴見川遺跡紀行(9)

迫り来る開発の波に抗い、献身的努力で発掘調査を完遂した研究者たちの物語

前回の加賀原遺跡(8)からの続きというよりは、

前前々回のintermesso(7)からの続きです。

市ヶ尾町公園

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何度でも使われる写真

東名道を超えて、すぐ右に曲がって、坂を上がって行くと…

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緑豊かな高台が出ていました。

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階段を登ると、そこは…

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緑のオアシス。

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上へ上へと
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続く道
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右に行ってみよう
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明るくなって来た
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広場に出た!
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すごい眺め。ここは標高60m近いので、余裕で鶴見川流域を見渡せます。

十字マークが公園の高台付近

反対側に降りると、看板がありました。

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朝光寺原遺跡は、櫛目文様をもつ朝光寺原式土器が出土した標式遺跡です。

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でも、本当は、この公園内に遺跡があったのではありません。公園の西方の台地一帯こそが、遺跡があった場所なのです。

下記リンクは、横浜市行政地図の市ヶ尾周辺の文化財マップに繋がります。

(「同意する」を選択すると地図が出てきます)

朝光寺

1546年開山の曹洞宗のお寺です。

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このお寺が地名の由来です
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遺跡とは関係が無さそうなので、入り口で失礼します。


献身的努力で発掘調査を完遂した研究者たちの物語

風の中の昴〜 砂の中の銀河〜
みんな何処へ行った〜 見送られる事もなく〜

1960年代、高度経済成長期の横浜市内では市街地が急拡大した。1966年の田園都市線開通により沿線の宅地整備が始まり、多くの畑地や雑木林が呑み込まれていった。

この地域は近世〜近代の開発を免れ、古代遺跡が多く眠る埋蔵文化財包蔵地。
迫りくる開発から遺跡を守るため、考古学者を中心とした遺跡調査団が組織され、1967年8月〜12月に第1次発掘調査、翌1968年8月〜9月に第2次発掘調査が行われた。

この調査の難しさは、間近に迫る開発工事に先んじて完了しなければならない時間的制限と、調査団に対して遺跡の規模があまりにも大き過ぎた点にあった。
彼らは予算や時間の確保に苦しんだ。調査が間に合わなかった地域は、やむを得ず整地工事が行われた後に、竪穴住居跡や環濠溝の残った部分を掘って調べるという状態であった。

さらに調査団に困難が降りかかる。
1.5㎞北西の稲荷前古墳群という大古墳群も、同時期に開発による破壊の危機にさらされ、並行して発掘調査しなければならなかったのだ。

「外国の調査であるならば、7~8年から10年近くをかけて調査する性質のものである。それを土地区画整理まで僅か2~5ヶ月しかない間に発掘しろというのは、まるで考古学研究者の背中に、10貫目(37.5kg)の石を背負って海を1000m泳げと命令されるに等しい」

「破壊される地帯を完全に掘り、完全な記録をとるにふさわしい時間的余裕は、関東地方のどこの遺跡の事前調査でも、そのような条件はかつて存在したことのない幻の条件である」

「もし、すべての問題を解明できる完全な調査をおこなったら、遺跡の10分の1くらいのみがかろうじて調査される程度で、他の部分の多数の住居址、墓地、V字溝は、ブルドーザーによって永遠に消滅され、おびただしい土器・石器などの遺物は谷間を埋める土の中に永久に眠ってしまったことであろう」

悲鳴のような文言は、第2次調査の発掘調査報告書に記されたもの。この発掘調査が、いかに困難を極めたかを物語る。

調査は突貫的で不完全な部分もあったが、調査団の献身的努力により辛うじて奇跡的に完了したのだ。

(Wikipedia「朝光寺原遺跡」を要約・再構成)


藤が丘・もえぎ野・柿の木台・みたけ台の記録写真を残す会
のサイト内(市ヶ尾のページ2)に、貴重な記録が残っている。それは、1968年の2回目調査に従事した団員たちが記した「朝光寺村だより」。
考古学を学ぶ学生たちも発掘に参加。開発が進む中での炎天下の作業、台風によって滞る調査、そして日常の様子が生き生きと記されている。

しゃもじ代わりに移植ゴテでご飯をよそった(漏斗と濾紙でコーヒーを淹れる研究室あるある?違う!)とか、寝言で彼女の名を呼ぶ隊員がいたとか…。当時の若者は、現在御年70歳半ば。今でも、思い出が蘇ることがあるのでしょうか。


朝光寺原遺跡

 縄文時代中期の集落、弥生時代中期後半から後期末までの集落と方形周溝墓群、古墳時代中期後半から後期の円墳3基(朝光寺原古墳群)、奈良時代以降の掘立柱建物群が見つかった。

・弥生時代

弥生時代中期後半、直径170mの範囲にの竪穴住居59軒が建てられ、全長500m、幅2m、深さ1.5m~2mのV字形の溝を持つ環濠集落が形成されていた。近くに方形周溝墓が19基あり、大塚・歳勝土遺跡の集落と墓地の関係に似ている。14軒の住居に火災跡が認められ、他集団との間で戦闘が起きたとの解釈もある。

後期前半になると環濠が埋まり、5軒ほどしかない小村となる。この時期の土器は「朝光寺原式土器」と呼ばれた。

後期中葉には住居が20軒ほどに増え、再び大きな村となる。村の中心に大型住居、周囲に小型住居が建ち、有力者の存在が想定。方形周溝墓も5基見つかった。

弥生時代後期終末になると、小型の住居16軒ほどの小村になる。


・古墳時代

中期後半には権力者の墓地となり、朝光寺原古墳群が作られた。
古墳群は3基の円墳からなり、埋葬主体部から甲冑(庇つきの冑、肩から腰までの鎧=短甲 1号墳より)、武器(鉄剣・鉄鉾・鉄刀・鉄鏃)、馬具、玉類(臼玉・勾玉)などが出土。これらから、武人的性格の強い有力者の墓と見られる。

https://www.city.yokohama.lg.jp/aoba/shokai/bunkazai/ta/bunkazai005.html

遺物から1号墳(5世紀後半)→2号墳(6世紀前後)→3号墳(6世紀前半)の順に築造されたと分かった。


・奈良時代以降

竈をもつ竪穴住居の集落とともに掘立柱建物が13棟建てられ、当初は郡役所跡かと見られていた。


朝光寺原式土器と鶴見川の弥生人

朝光寺原式土器は、南関東一帯に分布する弥生後期の久ヶ原式土器、弥生町式土器とは異なるデザイン。壺形・甕形土器の区別が曖昧で、頸部が久ヶ原・弥生町式ほど細くなく、櫛描き波状文様があります。

「中部高地型櫛描文土器分布域における竪穴住居設計原理」より
「かながわの弥生時代の社会ー後期の環濠集落から」より

群馬県渋川市「樽遺跡」出土の「樽式土器」に似ており、その系統の一つの型式として「朝光寺原式土器」と提唱されました。
久ヶ原式・弥生町式土器と共存して横浜市北部、特に鶴見川水系の上流域の限られた範囲に分布します。

「弥生時代のかながわ」https://www.pref.kanagawa.jp/documents/8040/886967.pdf


鶴見川の弥生人はどこからきたのか?

神奈川の弥生時代は、東海方面からの移住者と中部高地からの流入者が交わる混沌とした状態でした。

その流れは、土器の形式と竪穴住居の形式から分かります。朝光寺原式土器は、上毛や中部高地(甲信地方)との繋がりがあると見られています。また、竪穴住居の形や炉の位置で分類した住居型式によると、やはり、多摩丘陵の一帯は中部高地系のようです。

「中部高地型櫛描文土器分布域における竪穴住居設計原理」より

このことから、鶴見川中下流域は東京湾岸系、中上流域は中部高地系が勢力を広げていたと見られます。
これ以上は長くなるので、次回記事で、港北ニュータウン地域における二つ系統の弥生人の緊張関係について詳しくお話ししたいと思います。

【ご参考】
中部高地型櫛描文土器分布域における竪穴住居設計原理
(佐藤兼理 明治大学レポジトリ)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/18800/1/sundaishigaku_160_55.pdf

かながわの弥生時代の社会ー後期の環濠集落から(神奈川県考古学会)https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/25/25706/18868_1_第4回考古学講座ーかながわの弥生時代の社会後期の環濠集落から.pdf


現在の市ヶ尾

それにしても、標式遺跡でありながら遺構が全く保存されなかったのは悲しい限りです。

遺跡のあった場所は、調査後直ちに山ごと削られ消滅。考古学者らは稲荷前古墳群を含めた保存運動を起こしましたが、稲荷前古墳群の一部を除き残されることはありませんでした(主要の前方後円墳は滅失)。

現在の市ケ尾町からは、かつての山林の景観は全く想起されません。近くの「市ケ尾町公園」に朝光寺原遺跡の案内板こそありますが、そこは朝光寺原遺跡のエリアではないのです。

朝光寺原1号墳から出土した甲冑などの遺物だけが、現在、横浜市歴史博物館に展示されています。

(この段落はWikipediaより要約・一部付加)


次回は


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