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「富士塚」狂詩曲(2) 川和富士

27年かけて完成し、90年後に消滅するも、8年後地元の熱意により甦る

前回からの続き。

夕映えの道

(近未来に投稿予定の)縄文遺跡のある月出松公園からスタート。

公園の出口から続く橋。ここからも煙突が見える。

夕映えの道に繋がっています。

緑豊かな尾根は気持ちいい遊歩道。

木々の合間からは丹沢の山々が見えます。

まるで、ここは都筑のヒマラヤ山脈(勝手な呼称です)。

都田公園から学校を越えて行くと…

川和富士公園

入り口からもう見えています。

おっきい!!!!

少し離れて全景を…裾野が広く、上に向かうにつれ反り立つ美しい稜線。

片側には小山もある…実際の富士山を模したのかな?

近付いてみよう。


川和富士

登山口だ。

螺旋階段と長い直線階段。

空が近づいてきました。

もうすぐ頂上。

あぁ、丹沢の山々と富士山が見える。こちらは西の方角

この日は頂上でお弁当食べているサラリーマンがいたので、山頂の全景の撮影を断念。(涙)悔しかったので、後日リベンジ。

残念ながら曇っていた
周辺が記された方角板

は、みなとみらいの街並み。

には、都筑区の資源循環局の煙突(もはやランドマーク)。

ズームしてみる。

池辺富士が見えるというけど、ビルの合間のポコッとしたところかな?

は鶴見川上流、奥には多摩や秩父の山々。

下りの階段からもう一度。肉眼だと富士山は大きくハッキリ見えます。

こちらは山裾に小山がある。宝永山もどきかな?

川和富士の形状

旧川和富士(後述)の消滅後、地元郷土史研究会等からの保存の陳情が出され、昭和61年、川和富士公園に移して現在の形に再現される。
平成24~25年にかけて再構築工事が行われている。

公称の比高14メートル(東側が基底部?)、標高74メートル。
断面図を見ると、底面直径は東西約100m、南北約90mほどか?

よく見ると、頂上付近では表面を保護するネットのようなものが露出していました。この美しい形を維持するには、定期的な手入れが必要なようです。


旧川和富士

万延元年(1860年)に造築が決定され、27年間の歳月をかけて明治20年4月に完成。しかし、ニュ-タウンの街路計画にかかり、文化財調査終了後、昭和53年度に消滅。

旧川和富士

新旧川和富士の位置関係

対象物を隠さないようにマーキングしています。

旧川和富士は現在の夕焼け橋付近に立っていたようです。

実際は、橋の左にあるダイハツの建物付近にあったらしい


旧川和富士の形状

当時の高さは、都田村誌よると15間(≒27m)との記録がある。標高80m、発掘調査によると底部直径40m。
27mは築山としてはちょっと高い(1960年代の航空写真でも直径は約40mなので、勾配が35°だとしても築山の高さは14m程度のはず)。基盤の丘も含めた高さなのかな?

とはいえ、無理に高く造った可能性も否定はできない。実際、築造中に2回の地震で破損しているらしく、関東大震災で上部1メートルほどが崩壊し再構築された痕跡があったそうだ。経年の劣化で低くなったとも考えられる。


旧川和富士の歴史

川和富士の歴史を振り返ってみる。

ちょうど、三叉路に立っていたようだ。

・塚があった場所は、境界をめぐって寛文2(1662)年に池辺村と川和村の出入り(訴訟)があり、裁許後に入会地(共同使用地)となった。
・安政4(1857)年に開墾がゆるされ、翌年村境が決定。このとき、村役人が相談して富士塚を築くこととなった。入り組んだ境界争いをなくすために築造されたという由来があるらしい。
万延元年(1860)4月1日に着工。富士山御縁年の庚申年に当たり、幕末期の築造ピーク。(信仰では、富士山は紀元前301年の庚申年に誕生し、60年に一度の庚申年が御縁年とされる)
・文久元、2年、慶応3年、明治元、2、10、11、15年と工事が行われ、明治20年4月に27年の年月を経て完成。
・27年間で、延べ3120名の人夫、弁当29石7斗8升(約4500kgの米:1石150㎏換算)が費やされた。
明治24年4月15日に山開き、浅間大神の石碑を建てた
昭和52年7月に取り壊し。(石碑は八幡神社に移転)

【ご参考】

港北七富士巡り 大倉精神文化研究所 


八幡神社にある石碑

せっかくなので、旧川和富士の石碑が移された八幡神社に行ってみました。

結構広い神社です。で、石碑は…
入口の左側に立派な石碑群があったので見てみたら、戦没者慰霊碑でした。
続いて、拝殿の左にいくつか石碑が見えますが…これまた合祀社(榛名神社、天満宮)の碑。

はて、何処にあるんだろう?

参拝を終えた高齢の女性(70代後半?)に、思い切って聞いてみた。

女性:あぁ、確かねぇ…あの赤い小屋(拝殿の右)の辺りに持ってきたって聞いたわ。子どもの頃、私も連れて行ってもらって登ったことがあるの。
:昔の川和富士ですか?三叉路に立っていた。
女性:そう、駅の工事をする前ね。いつの間にか無くなって、知らないうちに新しい立派なのが出来ていたけど。
:昔の川和富士は、今のより大きかったんですか?
女性:いえいえ、丘の上に立っていたのよ。そんなに大きくなかったわ。奥に白い鳥居があって、そこから登ったの。

ありがとうございます。ありました!

道祖神だと思ってスルーしていたよ。

おぉ、これが浅間大神(ユニークな字体)!

右側面には、明治廿四年四月十五日建立
台座の背面に、昭和52年に移転したと記されている
台座の左右には、世話人の名前が記されている。

一般的な墓石と同じくらいの大きさ。これが山頂に置かれていたなら、そこそこの広さがあったのかな?先ほどの女性は旧川和富士は「大きくなかった」と言っていたけど、実際はどうだったのだろう。

右隣には、庚申塔。

背面に、昭和52年に移転したと記されている
左側面は「明治廿四年四月十五日 森講中」

庚申塔の後ろにある石碑は何だろう?キツネか何かを彫ってある。

他にも色々な石碑があった。
旧川和富士周辺は、ニュータウン開発によって元の姿を残していない。きっと、周辺の神様が移って来たのだろう。村々の戦没者慰霊碑と共に。

左から旧川和富士跡、川和富士、池辺富士
灰色は切土、黄色に赤斜線は盛り土の造成地

造成地には、神社がほとんど見当たらない。

******************

今回、移動距離はそれ程でも無かったけれど、高低差は凄かった。

ここら辺は、都筑のヒマラヤ。
昔の人たちは、富士塚で「標高図に残る仕事」をしたんだねぇ。


次は、都筑の北アルプス(勝手な呼称)、山田富士です。


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とぅーむゅらす
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