大熊杉山神社・折本貝塚・折本西原遺跡 大熊川紀行
今回は、これまで全く行ったことのないルート、いつもと反対側の鶴見川左岸(上流を背にして左側)を巡ります。
なんだかすごくイイ感じだったので、思わず撮った写真です。
正面に亀の甲橋、奥には丹沢の山々。手前のオブジェ風の建造物は、高速神奈川線の新横浜換気塔。グッドデザイン賞を受賞しています。
こんなに天気の良い日は、気分もあがります。
大熊川
高速のトラス橋で押しつぶされそうな大竹橋、桁下高さ制限2.3m。バスケの渡邊雄太選手なら、思わず頭を下げて通りたくなる低さ。
今回は橋を渡らずに、大熊川沿いに右へカーブします。
川沿いの道を、鼻歌交じりに進みます。
全長2800mほどの小さな川ですが、鶴見川の支流なので一級河川。源流は都筑区東方町。上流が3方向に分かれていて、そのうちの一つにあるアジサイ緑道は有名です。流れが穏やかですが、水質は良さそう。
下村橋から対岸に渡ると、少し先の丁字路に庚申社がありました。
ちょうど「埋文よこはま44号」に石塔や石像の特集があったので、リンクを置いておきます。とっても興味深い内容です。
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/cms_files_maibun/pr_brochure/44.pdf
右側の道を進んでいくとその先には...
いかにも旧道らしい分かれ道と、愛らしいラウンドバウト。
その奥には大熊子育て地蔵尊。元々は手前の円形構造物の上にあって、その跡が残っているのでしょうか?今は祠の中でお祀りされています。
さらに進んで行きましょう。緩やかで長い坂道が続きます。
こんもりとした緑が見えました。
さらに進むと、左に鳥居が見える。
大熊杉山神社
一の鳥居
石造りの鳥居の奥、2段の上がった境内に社殿が見えます。
参道の両脇に木々が植えられています。
二の鳥居。杉山神社で二つも鳥居があるのは珍しいかも。
大熊郷の総鎮守です。
御神体が不動尊ですが、後付けの可能性もあります。主祭神が五十猛命ではなく、日本武尊なのも気になります。その他の神様は合祀社のもの。こちらも新羽社と同じ西方寺が別当です。
江戸時代は、社殿が約3.6m×7.2mの大きさで東を向き、前に石の鳥居が建っていたそうです。
狛犬
拝殿
質素な造りだけど、このロケーションが素晴らしい。
平山の頂上にドーンと建っていて、
大きな木々に守られている。
境内社(稲荷社)
境内
社殿から境内を見渡す。
クスノキでしょうか?幹の太さも立派ですが、
すごい高さです。境内の木々は、あまり剪定されたことがないのでしょう。
外の眺望
この高台は、遮るものがない絶好のロケーション。
赤丸が杉山神社。拝殿はほぼ東を向いているので、日の出には朝陽がキラキラ差し込むのでしょう。
標高が約30m。広大な台地の頂上にポツンと、ちょっと高い場所に建っている。
どことなく近世や中世建立の神社とは違う立地、象徴的な場所のように思います。杉山神社に詳しいwebサイト「保土ヶ谷の郷土史」では、ここを式内社の有力候補の論社として挙げています。この場所に来れば、それも納得です。
さて、北参道からお別れ、次へと向かいましょう。
折本貝塚
杉山神社の北側の道を尾根沿いに進むと、こんな鄙びた所なのに突然ハートマークのホテル群が現れた。そうか、ここは第三京浜沿いだ。
陸橋に着きました。
この橋は「折本貝塚橋」です。この辺りの畑で、よく貝殻が見つかるそうです。
縄文時代の横浜の貝塚
折本西原遺跡
折本貝塚橋からまっすぐに進むと、弥生橋にでてきます。
下には新横浜元石川線が走っています。この道路建設に際して調査したところ、弥生時代の遺跡が多く発見されたため、弥生橋と命名されたそうです。
何も標識がないのでどこが遺跡かも分からないけど、とりあえず折本西原公園の脇に広がる空き地を撮影。都筑周辺は掘れば古代の遺物がワンサカ出てくるので、財政難の横浜市は「一々やってらんない」といった感じなのでしょう。
(以下、関連資料を2025年1月に追加し、記事を修正しました)
環濠集落と方形周溝墓
弥生中期の鶴見川流域には、方形周溝墓を有する環濠集落が多かった。
【ご参考】埋文よこはま34 「横浜の弥生環濠集落」
とても長〜い図。
というのも、ここは第三京浜の工事中に見つかった遺跡で、道路の形に沿って調査されたからだそうです。これが台地一帯に広がっていたと言うのだから、相当な規模だと分ります。
折本西原遺跡は新旧2段階の環濠跡が発見されていて、旧段階で3万㎡、新段階で8万㎡の広さがあったと推測されています。大塚遺跡との面積比で計算すると、人口は400人を越えていて、その規模は有名な愛知県の朝日遺跡(!)に匹敵するそうです。
方形周溝墓の埋葬状態
弥生中期後半の環濠集落の規模と分布
弥生時代、この地域では各河川流域ごとに集落が群集して営まれ、大形集落のほとんどが環濠を備えていた。その多くは約2万㎡規模だが、鶴見川流域にはその他に約8万㎡の突出した規模の折本西原遺跡があり、この地域の中核的集落であると考えられている。集落内には方形周溝墓があり、集落範囲が大きくなったのは、墓域が増えたからという話もある。
(この手の地図で、市域外をグレー非表示にするのってどうなの?って思うんですよ。鶴見川支流の矢上川流域(川崎市)にも、上流の町田市にも遺跡はあるし、関連性もあるから...)
しかし、弥生後期、鶴見川中流域の環濠大集落は突然廃絶される。安藤氏によると、下流域への集団移住の可能性もあるそうだ。その集団が古墳時代に下流域で低地水田開発を行い、観音松古墳や白山古墳を作ったかもしれない。
常々疑問だったのが、弥生時代にこれほどの大集落があったのに、鶴見川中流域に巨大古墳が存在しなかったのだろうということ(稲荷前古墳群は上流域)。前方後円墳でなくても、円墳ならもっと大きいのがあってもいいはずなのに...
そして誰もいなくなった中流域?…詳しい人、ぜひ教えて欲しい。
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大熊川源流へ
一応、源流までたどってみようと思い、坂を下って大熊川に合流。
仕方がないので大通りに出た。
東方天満宮
すると、雰囲気よさげな天満宮があった。
創建は不明だが、以前は1.5㎞程離れた天神山の中腹にあったのが、慶長年間にここに遷座したそうだ。
大熊川紀行、今日のところはこの辺でおしまい。
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