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「ヤマダ」じゃないよ!「山田」神社
山田富士を地図で調べていた時、気になる神社を見つけてしまいました。
(前前々回投稿した、山田富士の記事はこちら ↓)
何が気になったかと言うと…
古い街道沿いにあって
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高い所にあって
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参道が長い
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しかも、階段を含む神社の参道が公道(大棚14号)
すっごく気になるでしょ!(強要)
その名も山田神社
山田様は、全国名字ランキング第12位、推定82万人。
(明治安田生命調べ 2018)
「山田太郎・花子」といえば、かつては各種申請書類のお名前例No1。
でも、本当は…やまた神社と読むのです。
実は、前に訪れた山田富士も、地下鉄グリーンラインの東山田駅や北山田駅も、み〜んな「やまた」なのです。
やっぱり、気になるでしょ?(ダメ押し)
それもこれも含めて、山田神社を見てみましょう。
![](https://assets.st-note.com/img/1645507038970-BlsdoMeUcT.jpg?width=1200)
一の鳥居
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中原街道に面した鳥居の右側には、六地蔵と石碑群があります。
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百万遍供養塔(左2つ)
村人たちで分担して念仏を唱え、合算して百万回を達成すると石碑を建てる念仏講というグループが存在していた。
大乗妙典六十六部日本廻國の供養塔(右から2つ目)
全国66ヵ所の霊場に法華経を奉納して巡礼する行脚僧を六十六部という。巡礼を達成すると行者が勧請して供養塔が建てられたそうだ。
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手前には「長泉寺」と読める石碑がある。
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神社の東側には中原街道。左が旧街道で、右は現在の街道です。
それでは、参拝に行きましょう。
参道
長い階段を登ると…
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社殿
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本殿
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現在の本殿は、棟札により天保十三年(一八四二)の造営であることが判ります。正面柱間〇.九一メートルの小規模な一間社流造で、正面に軒唐破風・千鳥破風を付け、屋根をこけらで葺いています。
この本殿の最も大きな特色は、彫物が多用され、しかも建築とよく調和していることです。彫物はけやきの素木造で、向拝柱には丸彫の竜が巻き付き、壁面には仙人像、欄間には鳳凰、脇障子には鷹に松など主題は多種多様です。
以上のように山田神社本殿は、小規模な一間社流造ですが、素木造の精巧な彫物を多用し、彫物と建築がよく調和した江戸時代末期の、典型的な例として貴重です。
金網ごしに本殿は見えますが、金網がフォーカスされるので写真は断念。
はまれぽさんが本殿を写真に収めています。
(充実した内容なので、私が記事にする必要もないくらい…)
境内
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鐘楼
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境内の由緒の碑には、下記のような内容が記されていた。
社殿脇に神仏混淆時名残りの鐘楼を、村の非常用警報所として戦時中の供出からも免れ四代目の梵鐘(重量百貫)を吊り今日に残す。
鐘は神仏混淆の名残のようです。(防災用の)半鐘としての役割があったので、戦時中の供出を免れたとのこと。
境内社ほか
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由緒
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明治43年、当時の村社である神明社と諏訪神社、八幡神社、稲荷神社ほか十四社を妙見社に合祀し山田神社と改称。妙見社は文安5年(1445)の創建、合祀された諏訪社は貞観2年(860)の古い創建と伝わる。
妙見社は、武蔵國秩父郡大宮町の妙見社の分霊と言われている。
元々は妙見社という神社だったのですね。
確認すべく、明治迅速測図で合祀された神社を探してみました。
![](https://assets.st-note.com/img/1645175144824-FZtj5qWCpV.jpg?width=1200)
明治初期の地図には、山田神社の場所は妙見社と記されています。神明社、諏訪社も立派な神社のよう。(長泉寺は山田神社の別当寺)
御祭神
大日孁貴尊 ( おおひるめむちのみこと =天照大神 )→神明社、熱田社ほか
高皇産霊神 ( たかみむすびのかみ )→ 天神社?
建御名方神 ( たけみなかたのかみ → 諏訪社
応神天皇 → 八幡社
日本武尊 → 多くの社の祭神
倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )→ 稲荷社
菅丞相霊 ( かんしょうじょうのれい )→ 菅神社
伊弉冊尊 ( いざなみのみこと )→ 熊野社ほか
大己貴尊 ( おおなむちのみこと =大国主命 )→子神社ほか
14社も合祀したから、有名どころの神さまがいっぱい。
でも、妙見社のご祭神が分からない。
まず、妙見社って何だろう…どことなく、お寺のような名前。
山田神社の前身・妙見社とは
妙見信仰
紀元前数千年前、元々は古代アッシリアやバビロニアの砂漠の遊牧民が方角を確認するために北極星を神として信仰し、遊牧民を経て中国に伝わりました。中国でも、北極星信仰は紀元前二千数百年前の時代に記録されており、やがて道教などの星信仰と習合していきます。
道教では、天空の中心・北極星を「天帝」として崇拝、人の運命は星に支配されるとする思想を基に、北極星や北斗七星(天帝の乗り物=使者)を神格化した星辰信仰が起こった。
そこに仏教が交わり北辰妙見菩薩信仰と変化。
「妙見」とは「優れた視力」のことで、善悪や真理をよく見通す者という意味がある。また、北方の守護神、玄武(げんぶ)は亀に蛇が巻きついた形をしていることから、妙見菩薩の神使は玄武とされ、亀が象徴となっている。
7世紀(飛鳥時代)、妙見信仰は渡来人によって日本にもたらされ、後に神道の天御中主神(アメノミナカヌシ)にも習合される。当初は関西以西の信仰であったが、渡来人の東国移住の影響で東日本にも広まった。
中世において軍神としての信仰があり、関東では平将門と結びつき、千葉氏などの武将が守り神として崇拝した。
【ご参考】
あの亀の像は、玄武由来の像だったのね!
それにしても、現祭神には妙見社の神様(アメノミナカヌシ)がいない。
かつては仏教の妙見菩薩を祀っていたのだろうか?その後、合祀の際に妙見菩薩だけ外されてしまったのか?
その名残で鐘楼が置いてあるのだろうか? 謎だ…
さて、次回は…
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山田神社の秘密の池、
この地域の名前「やまた」の由来、
珍しい伝統のお祭り…などに迫ります。