山田神社と秘密の池?
「〇リー〇ッター」をパクったようなタイトル…ですが、「やまた」の由来かもしれない池のお話をします。
前回は、長~い参道を経て境内にたどり着き、社殿を見て回りました。
今回は、神社の後ろを見ていきたいと思います。
裏参道と神池道
社殿の北側に裏参道があります。
この先に行ってみましょう。
中腹付近に「神池道」の碑が出てきました。
門の奥へと進んでいくと…
神池
見る限り、こんこんと水が湧いている状態ではありませんが、水溜まりという感じでもありません。今は雨が降らない時期なので、最低限の水が静かに満たされている状態だと思います。
諏訪神社と蛇
ここは、諏訪神社の神蛇 (しんじゃ)を祀るための神池だそうです。
山田地域には、他にも蛇にまつわる伝承が残されています。
観音寺は諏訪山の号があり、(山田神社に合祀された)諏訪神社とも縁の深いお寺。そんな逸話が残っていたからか、妙見社の後方斜面の中腹に池を作って、諏訪神社をお迎えしたのかも知れません。
裏参道に戻り、山を下りてみると
参道の入り口に、お社がありました。
こちらは、堀之内稲荷と石像石碑です。
山田神社の地形
神社は、どのような地形の上に鎮座しているのでしょう。
ここは下末吉台地で、最高点の標高は40m強。
ただ、開析が進んでいて台地上の平坦地が少なく、周縁部が多摩丘陵的な斜面地だそうです。
社殿は北側の丘の頂上に位置し、南を向いています。
参道の起点は、厚木街道へ続く側道と中原街道が交差する「宮ノ下」。
さらに、社殿の西からも厚木街道へ続く尾根道が存在します。
神池は、台地北東部の二股に分かれた尾根の間に作られています。
地形的にも雨水が集まりやすく、透水層からの湧水もありそうなので、言い伝え通り水が絶えることは無いのでしょう。
妙見社の御神体
前記事では、山田神社の御祭神の中に、前身の妙見社の祭神が見当たらないと書きました。神仏混淆の時代は妙見菩薩を祀っていた可能性もありますが、実際に山田神社に登ってみると、別の考えが浮かんできました。
妙見社の真の御祭神は、北極星かもしれない
北極星は拝殿の背後に、いつも存在し続けます。
夜の山田神社に行ったと仮定しましょう。階段を登り、木々で覆われた長い参道を経て、たどり着いた境内には北天球が広がり、その中心には北極星。
(現在の境内は木々で取り囲まれていますが、かつては星を読むことができたのではないでしょうか?)
現在も行われている山田神社の冬至祭は、北辰妙見信仰の名残りです。
ところで…気になる事が一つ。
かつての山田村の村社・神明社の地を捨てて、妙見社より古く由緒があるはずの諏訪社の地をも捨てて、この場所に村内の全ての神社を合祀した理由。
それは、一体何だったのでしょう?
「やまた」の地名
それを論じる前に、まず、この地の呼び名が「ヤマダ」ではなく「ヤマタ」であることを考えてみます。
定説では「実際に山田があった」説が有力です。
しかし、それなら、敢えて「やまた」と呼ぶ意味が分かりません。まず最初に「ヤマタ」という音があり、当て字として「山田」が使われた可能性が高いと思われます。
「ヤマタ」という音は何を表しているのでしょうか?
それを知るために、この地域の地形を見てみましょう。
まずは、現在の地理院地図の色別標高図から
山田富士近くの富士谷戸から流れる小川と、牛久保から流れるてくる小川が、山田神社の付近で合流していたように見えます。
ニュータウン開発で地形が変わっているかもしれないので、古い航空写真を見てみましょう。
やはり、現地形よりも西側まで谷戸田が広がっています。
台地の外周には無数の小谷戸が存在し、まるでシダの葉状に切れ込んでいます。
江戸時代は矢股村だった?
江戸時代の書状では、この地域を「矢股村」と記していたようです。
二つの谷戸に挟まれた地形から、(先が2つに割れた)鏑矢の矢じりの形をイメージしたのではないかという説です。
さらに、発想を膨らませてみましょう。
写真にあったシダ状の複雑な地形…もしかしたら、「ヤマタ」は矢股ではなく八股ではないのでしょうか?
珍説?ヤマタノオロチ由来説
さらに飛躍して、ヤマタノオロチ伝説を思い出してみました。
国学院大学の先生による伝説の解釈では…
ヘビや龍が水の神であることは、よく知られています。
水田がクシナダヒメというのは初めて聞きました。
すると、鉄剣が鉄製農具の象徴で「用水路や堤防などを築いて水流を制御する」=「水の神を鎮めた」とも解釈できそうです。
ヤマタノオロチが表すものは
この地域は、早渕の高台に遮られて川が屈曲する(早瀬が滞って渕になる)場所。大雨時には、谷戸からの水と早渕川が合流して氾濫が起きやすかったと思われます。(だから広い氾濫低地が出来上がった)
「ヤマタ」地形が引き起こす水の流れ。それは、田畑を潤す恵みでもあり、同時に氾濫を起こす元凶でもあったのです。
大昔は谷戸田で細々と行っていた稲作が、中世から近世にかけての新田開発で、急斜面沿いや早渕川沿いでも行われるようになり、より災害を被りやすくなったのでしょうか?
前述の観音寺の伝承を思い起こしてみましょう。
黄色い息は「新田開発で木々を伐採した為に発生した土砂崩れ」、光る息は「貯水池であったため池や沼地を埋めた為に発生した水害または渇水」と解釈できないでしょうか?
逸話の数々は、災害原因を比喩的に後世に伝えるために作られたのでは…
そう考えると、山田が「ヤマタ」であった理由が分かるような気がします。
山田神社の存在とは
妙見社に近隣社を合祀したことは、「街道沿いのアイコニックな場所に、村内の神社を集めて山田神社を新設した」という単純な話ではないと考えます。
「暴れ川」早渕川を鎮めることを願いつつ、万が一の時の防災拠点(河川監視場所、緊急避難場所)とするために、山田神社を新設したと考えた方が合理的な気がします。
それは、前身の妙見社の時代から、この場所にその役割があったからだと思うのです。
諏訪社の神蛇のために神池をつくったことも、
妙見社の鐘楼を半鐘代りとして廃仏毀釈や戦時供出から守ったことも、
全てが、人々が地域の平安を願って力を尽くした結果なのです。
最後は、この地域のお祭りを紹介しましょう。
伝統のお祭り「虫送り」
南山田で江戸時代から続くとされる「虫送り」は、稲に付く害虫を追い払い、米の豊作を願うために行われてきた伝統行事。
稲につく害虫をたいまつの明かりで集めて、町内の外に送り出して豊作を願うお祭り。土用の日の夜、たいまつを手にお囃子とともに子どもたちが練り歩きます。
昔は、村境の早渕川の河原で集めたたいまつを燃やし、一斉に火を消すことで他の村に虫を追いやったそうです。(他の村々も川の下流へ向けて虫送りを行い、最終的に海に送り出す)
かつては多くの村で行われていましたが、水田が少なくなった今では存続している所は少なく、祭りの目的も「人々の災いを追い払う」に移り変わり、たいまつの担い手も男衆から子どもへと変わっています。
2005年に横浜市無形民俗文化財に指定。
【ご参考】
◆戦争と開発で一旦は途絶えた「虫送り」。三笠宮崇仁親王のご来村をきっかけに一度きりの復活。その後、熱心な市職員の働きかけにより地域の人々が立ち上がり、本格復活するお話。
◆現在も続く祭りの幻想的な写真
今日も勉強になりました。さて、帰りましょう。
オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。