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桧原湖 福島ジオ巡り旅(3)

君は…覚えているかい?
1年以上も前に福島ジオ巡り旅(1)(2)が投稿されていたことを…

早く後続記事を書き上げたかったんですが、なんやかんやで間が空いてしまいました。この度、鶴見川遺跡紀行が一段落した(?)ので、ボチボチと福島の記事を書いていきます。

桧原湖

この日は土湯温泉から出発。
115号線から459号線に沿って進むと、湖が見えて来ました。

大きな木がお出迎え
駐車場にはコスモスが満開

ここで、予約していた湖畔を巡るカヌー体験をしました。
お迎えのボートに乗って対岸のキャンプ場に到着すると、説明を受けて、ライフジャケットを着て、いざ、カヌーでGO!

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ちょっと曇りがちです。正面の山が隠れてしまっています。
キャンプ場の入江から出て、湖畔に沿って進みます。

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向かい波で漕ぐのが大変。

なんだか雲行きが怪しいけど、波はそれほど高くありません。

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島や湖畔の水辺近くを見ると、岩がゴツゴツしていますね。

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別の入江の中に入ってみました。外に比べて、波や風が穏やかです。

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こちらも岸辺は岩だらけ。多数の入江が、袋小路のようになった地形です。

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長い入江に入ると、徐々に狭くなってきました。前に吊り橋が見えます。

私の後ろ姿です

波風が無ければ、キャンプ場の近くの湖畔を自由にカヌーで巡れます。ちょっとしたアドベンチャー体験ができて、とても楽しかったです。終了後は、ご主人が淹れたてのコーヒーと熟れたアケビをご馳走して下さいました。とっても美味しかったです。

当時は子ども連れのご家族がキャンプを楽しんでいましたが、ご時世なので子ども会や少年スポーツ団などの団体客のお客様が減ってしまったと、ご主人はおしゃっていました。早く元通りになって欲しいです。


さて、湖畔巡りをした場所を地図で振り返ってみます。

多分、黄色で囲ったこの辺りだな。

航空写真で見てもツブツブした感じです。

何でこんなにツブツブしているのでしょうか?
その理由は、下にスクロールすると分かります。

(航空写真はこれより南側がありません)

何か流れたような斜面…これは?

↑赤いところが山頂部

磐梯山です。(先ほど写真にも写っていましたが…)


磐梯山の噴火でできた湖

桧原湖は磐梯山の噴火によってできた湖です。でも、カルデラ湖ではありません。一体、どんな仕組みでできたのでしょう。

まずは、磐梯山の火山地形分類データを見てみましょう。

やはり、湖のところがツブツブしていますね。この薄ピンクの地域は1888年の磐梯山噴火時に発生した岩屑なだれの堆積地で、濃いピンクはその上にできた流れ山(小丘状の地形)です。

磐梯山の北山麓に沿って流れ出た岩屑なだれによって、長瀬川の上流河川の桧原川、小野川、大倉川、中津川などがせき止められ(黄色く囲ったところ)、桧原湖、小野川湖、秋元湖や五色沼などが形成されたそうです。

1888年7月の噴火直後から水が溜まりだし、翌年には雪解け水もあり満水状態になりました。ダム湖と化した湖は、その後洪水時の決壊などで、度々2次被害を引き起こしたそうです。

流れ山について

↓こちらのサイトに噴火前と噴火後の地形の変化が見れます。


1888年磐梯山噴火

1888年って結構最近だな…えっ、明治21年

1888年(明治21年)7月15日に発生した磐梯山の噴火である。噴火に伴い山体崩壊が発生し、磐梯山を構成する成層火山の峰の一つであった小磐梯は全面的に崩壊し消滅した。そして北麓に岩屑なだれが流れ下り3つの集落が埋没した。その後、岩屑なだれは水分を含み泥流化して長瀬川流域に大きな被害を出した。更に磐梯山東麓を襲った火砕サージによる爆風、土石流によっても被害が出た。この噴火によって477名が死亡したとされ、これは明治以降の近代日本において最も多い犠牲者が発生した火山災害である。

Wikipediaより

小磐梯山の水蒸気爆発山体崩壊を引き起こし、北側は岩屑なだれで、南東側は火砕サージと泥流で被害が発生しました。

https://www.vill.kitashiobara.fukushima.jp/docs/2017032100019/files/BandaisanVolcano_HM_02.pdf


今の磐梯山は…?
それ以降は噴火は起こっていません。火口付近で山崩れが起こったり、火山性微動や地震が観測されることはあるようです。

それでも、観測を怠らず、常に注意し続けることが大切です。


近代の災害報道と社会の対応

明治期の磐梯山噴火は、江戸時代とは異なり被災状況が全国的に報道され、日本社会全体が災害支援を行なった初めてのケースでした。
これらは先行事例として、現在も研究対象になっています。

報道と噴火図

噴火に関する写真や文書、黎明期であった全国紙などのメディアが競って報道したため、その惨状は広く国内外の関心を引くこととなった。東京へ進出したばかりの東京朝日新聞は、記者のほかにパリで新技術を学んだ画家山本芳翠、版画家合田清を現地に派遣し、木口版画の 噴火図を1888年8月1日号の付録として出版し、迫真に満ちた噴火図が評判を呼んだ。

過去の災害に学ぶ「1888年磐梯山噴火災害
広報ぼうさいNo.30  2005.11


この他にも、噴火の様子を伝えようと、現地に赴いて記録した画家や版画家、写真家がいたようです。

磐梯山噴火記念館 地質ニュース600号,43 ―49頁,2004年8月
同上
岩代国耶麻郡磐梯山噴火実況之図
井上探景の錦絵「磐梯山噴火の図」Wikipediaより


磐梯山噴火之顛末

https://www.sonpo.or.jp/report/publish/bousai/yobou_jihou/pdf/ybja_ez/ybja-ez-154.pdf
https://www.sonpo.or.jp/report/publish/bousai/yobou_jihou/pdf/ybja_ez/ybja-ez-154.pdf

瓦版というか、現代の号外に近い雰囲気ですが、臨場感に溢れる内容です。この他にも、噴火の惨状を数え歌にして伝えたり、歌舞伎の演目になったりと、人々の注目が集まっていた様子が伺えます。


学術研究

この噴火の報を受けた帝国大学の理科大学教授関谷清景(地震学初代教授)は直ちに現地に入って調査を開始した。政府から命を受けた農商務省地質局の和田維四郎(後の地質局長で、理科大学鉱物学教授)や内務省地理局からも調査に赴いた。これらの当時最高の専門家がこの調査に係わったことは、政府として国家としての取り組みの姿勢を示している。関谷清景らは詳細な英文論文を出版した。当時の技術では、写真そのものを印刷することができなかったため、写真から詳細な石版画スケッチを作成して印刷掲載した。写真は調査に同行したW.K. バートンが撮影した。この論文は現在でも多くの内外の火山学教科書に引用されている。

過去の災害に学ぶ「1888年磐梯山噴火災害」より

関谷氏らの詳細な論文は、黎明期にあった火山学にインパクトを与えました。1980年のセント・へレンズ火山噴火でも同じ現象が起きたことから、磐悌山の噴火が改めて見直され、山体崩壊を伴うような激しい水蒸気爆発の一例として磐梯山型(Bandaian-type)と呼ぶようになったそうです。

当時の日本の科学者が世界に劣らぬ知識と技術を持ち、英文で論文発表していたことに驚きです。(学生時代、耳タコで鈴木梅太郎の話を聞かされ続けた…)


社会支援

災害は明治に入ってから最初の大災害で、多くの 人々の関心を呼んだ。噴火後の調査に学者が現地入りし、 学術的解説を加え、新聞で広く報道された。災害現象が科学で解明できることへの大きな期待が社会の各層に芽生えつつあったことを示した。
噴火被災者には、凶作のための農民救済制度であった備荒儲蓄金が支給されたが充分ではなかった。これを補ったのが天皇からの恩賜金と国民からの義援金であった。義援金は新聞などのメデ ィアによる社会事業活動のさきがけで、54新聞社の約6万人から、総額約3万8千円が集まった(この額は現在での約15億円に相当する)。備荒儲蓄金では金額的にも自由度の点でも、災害の応急対策に適応しきれない場合が多く、恩賜金、義援金の意義は大きかった。

過去の災害に学ぶ「1888年磐梯山噴火災害」

戊辰戦争の爪痕が、未だ人々の心に残っていたであろうこの時代。朝敵の汚名を着せられた会津の地で起こった大災害に、いち早く手を差し伸べたのは明治天皇でした。被災からわずか2日後に恩賜金3000円を下賜。使用目的が限定されていない恩賜金は、被災者の救援に大きな効果を発揮したといわれています。

新政府軍と旧幕府軍との戊辰戦争、明治政府と不平士族との西南戦争。国を二分する二つの戦いを経て、ようやく日本という国家の形ができ始めたこの時期に、不幸にも起こった大災害。幕藩体制のような小さな共同体ではなく、近代国家としての日本の在り方を問う事件でありました。

遠くの見知らぬ人のために、貧しいながらも積極的に義援金を寄せた、当時の日本人の社会意識の高さに驚きます。もちろん、これには、新聞報道などが重要な役割を果たしていたのでしょう。


桧原湖畔に住む

ここで、「福島ジオ巡り旅」を連載しようと思ったきっかけをお話しします。

ボートから見た眺め。正面が磐梯山。

体験が終わってボートで送ってもらう際、キャンプ場のご主人が「お時間があるなら、簡単に湖を案内しますよ」とご提案くださいました。

その時、色々とお話を伺いました。

ご主人(60後半〜70代?)のご先祖のお家は、湖の中に沈んでしまったそうです。お話によると、ご主人が子どもの頃から、地域では磐梯山噴火の悲劇を教訓として語り継いでいるようです。

不躾にも「火山の近くに住むのは怖くないですか?」と伺ったところ、次のように答えてくださいました。

磐梯山は宝の山という歌があります。

確かに噴火は怖いですが、私たちに多くの恵みももたらしてくれます。こうやって、キャンプ場を開いているのも磐梯山のお陰です。

人は何でも思い通りにできると驕っていますが、荒々しい自然を目の前に生きていると、どうしようもないことは起こります。だから、注意深く観察しながら、共存していくしかありません。むしろ、町の人は自然の恐ろしさを忘れてしまって、災害の時、避難が遅れて被害が大きくなります。

だから、私はここで起こった悲劇を話すことで、少しでも自然の偉大さや怖さを知ってもらえればと思っているのです。

福島県の火山ガイドブックhttps://www.thr.mlit.go.jp/fukushima/panf/pdf/kazan_fukudokuhon_ver2.pdf

福島県国交省福島河川国道事務所では、中学生向け副読本として、詳細な火山ガイドブックを配布しています。地域を挙げて啓蒙活動に取り組んでいます。

磐梯山周辺の災害伝承碑

↑国土地理院のTwitterは地形や歴史、地名のトリビアなども紹介しているのでフォロー推奨!


桧原湖に沈んだ宿場町址を探る

ところで、つい最近、こんなニュースが飛び込んで来ました。

会津・米沢街道の宿場として栄え、磐梯山噴火の影響で桧原湖底に沈んだ「 檜原宿 」(福島県北塩原村)について、海洋研究開発機構(JAMSTEC)などの研究チームが本格的な潜水調査を行うことになったそうです。

檜原宿とは

檜原湖北端にある檜原地区は標高が800~900メートルの高地で、かつては湿地が広がっていた。稲作には適さず、原木から器などの下地を削り出す木地師が集まって暮らしていたとされる。戦国時代には城館が造られ、江戸時代には金や銀を産出する鉱山が栄えた。会津と米沢を結ぶ街道として宿駅も設けられた。
 =中略=
(桧原湖の形成により)同地区に約70戸あった世帯は移転したが、家屋は水没したままだ。現在、湖の水位はダムによって管理されており、渇水期には、湖底にある神社の参道などが部分的に出現する。北塩原村教育委員会が今年3月にまとめた渇水期の陸上調査の報告書によると、鍋や陶器など、当時の生活をうかがわせる遺物が湖底から発見されている。


会津米沢街道とは

“会津・米沢街道ー桧原峠越”が 文化庁「歴史の道100選」に!(福島県北塩原村HP)より
https://www.vill.kitashiobara.fukushima.jp/docs/2019092900011/

会津藩内本街道五筋の一つで、会津若松から米沢までの約56kmを結ぶ。戦国時代にも、蘆名氏領の会津から伊達氏領の米沢までの往来として利用されていたそうです。


桧原宿跡・桧原湖湖底遺跡研究
東海大、京都大、高知大、JAMSTECなどの共同研究チームが、湖底の遺跡を調査しています。


ご主人のご先祖のお家も含め、遺跡の全容が明らかになると良いですね。
そして、この地の魅力を高める、新たな観光資源になって欲しいです。



次は…


オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。