師岡熊野神社と師岡貝塚
前回の続きです。
熊野神社市民の森マップ
市民の森から尾根筋を歩いて、熊野神社の脇の道に出てきました。
いの池
熊野神社の前には大きな池が。周りに木々が茂っていて、炎天下での散策の疲れが和らぐ憩いの場所。
この地域は古くから稲作の盛んな場所で、「市の坪」の地名には条理制が存在していた証と見られている。
「片目の鯉」の言い伝え、「い•の•ちの池」の存在も興味深い。現在「ち」の池は埋められて公園になっている。詳しい内容ははまれぽさんで。
池の中央には水神社。
参道
さて、一息ついたので参拝に行こう。
横断幕で拝殿が見えない。
社殿が見えた。あぁ…スゴい階段だ。
境内
登り切ると立派は拝殿がお出迎え。
古い部分と新しい部分が混在している。平成17年に大改修が行われたそうだ。
師岡熊野神社の縁起・由緒
ご祭神
こちらの御神籤は「凶」が出ると運勢が良いのだそうです。
熊野神社について
熊野神社とは、熊野三山である熊野本宮大社(本宮)、熊野速玉大社(新宮)、熊野那智大社(那智)の祭神である熊野権現の勧請を受けた神社。全国に3000社ほどが分布。三山のほかに長野/群馬(碓氷峠を挟んで)と山形に主要な社があり、愛知・静岡・神奈川・千葉・東京に数多く存在。
有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野に成立した熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて皇族・貴族の参詣によって、信仰と制度の確立(中世熊野詣)。承久の乱で皇族・貴族が没落した後、鎌倉時代に地方の武士が参詣者となり、15世紀ごろには一般民衆の参詣が最盛期を迎えた。
熊野三山で異なる祭神を祀っているためか、各社で祭神が異なっている。伊邪那美尊(いざなみのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)の主要三神の他に、伊弉諾尊、素戔嗚尊、日本武尊など多様である。
なぜ、古い時代にこの地に熊野神社が建てられたのか?
同じ自然信仰の杉山神社と関係があるのか?
なんとなくのイメージだけど、古代の南武蔵地域にヤマト王権から疎外されていた出雲氏族、紀伊熊野氏、阿波忌部氏が、挙ってあるいは手を取り合って入植しようとしていたのだろうか?
社殿裏
神職がいらして本殿を撮影するのがためらわれたので、そのまま裏に回った。裏山があり水が豊かに流れている。
一段上がった所にいろいろな神様が祀られていた。開発に伴い移転して来た神様だろうか。
「の」の池
熊野神社創建の地である「の」の池。旱魃でも大雨でも枯れることも溢れる事もないそうだ。大昔の人は、高台の中腹から湧き出す泉に霊験を感じたのだろう。
年占行事でこの水を使い、お粥を炊くのだそうだ。
はまれぽさんが、熊野神社の失われた神事について書いています。
この2つの神事は、近隣に農家が少なくなったことや、稲わらが手に入らなくなったことで途絶えてしまった。
この記事中に、熊野神社が創建された真の目的が見え隠れします。ここは地形的にも水理的にも鶴見川から用水を引くことが難しく、下末吉台地から湧き出す谷戸水を農業利用していたので、干ばつ時には広大な農地を支えることが難しかったのではないだろうか。その一方で、鶴見川は暴れ川で度々氾濫を起こしていた。
豊かな水の恩恵を願いつつ、台風や大雨による水害が起こらない事を祈る。自然の繊細なバランスの中で生きていかねばならない人々にとって、注連縄は竜神であり水の守護神。強い信仰の対象だったのでは...。
権現山
奥に権現山の登山口があります。
みくま通りという道。結構な急階段でかなり登ります。
四阿が見えて来ました。
山頂の権現山広場。
木が茂って風景が見にくいですが、高さがあります。標高42m。
師岡貝塚
案内板がありました。
ここは縄文中期前半の貝塚で、ハイガイを主体にハマグリ、アサリなどの海水性の貝類が出土したようです。
ここは縄文時代、大倉山岬(仮名)の付け根あたり。
遠浅の海で良い漁場だったに違いない。(前回の図の使い回し)
ズームアップした図。権現山が標高42m。熊野神社境内が20m。
権現山に降った雨が地中に浸み込み、崖下で湧き出して「のの池」「いの池」になったのかな。縄文時代から良い漁場である海沿いで、山腹から水が湧き出で、木々が茂っていて…まさにJOMONウォーターフロントハイランド物件。
真夏に訪れたのですが、木々のドームの下、まるで自然のクーラーボックスの中にいるようで涼しかったです。
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