さまよえる式内社? 大棚中川杉山神社
孟母もビックリ!大人の事情で4回もお引越し?
数ある杉山神社の中でも、式内社の有力候補と言われる大棚中川杉山神社。しかし、現在地に至るまで遷座を繰り返す数奇な運命をたどりました。
今回は、その変遷も含めて散策していきます。
そもそも…杉山社の式内社問題は長らく放置されていたのですが、江戸時代に入って急に取り沙汰されるようになります。その理由として、社会が成熟していくにつれ、村々が自らのアイデンティティを確立する「村おこし」的活動として取り組んだことが考えられます。熱心に活動した村の社が、論社になったという側面もあるようです。
現在の大棚中川杉山神社
センター北駅の西側、区役所通りに面したニュータウンの中心。
現・大棚中川社は、駅近の大変便利な場所に鎮座しています。
早速、お参りしてみましょう。
御祭神
主祭神 日本武尊 五十猛命
配神 伊弉諾命 伊弉冊命
元は日本武尊が御祭神でしたが、遷座するに当たって、杉山神社と所縁が深い五十猛命の霊璽を、和歌山県の伊太祁曽神社から拝受したそうです。
式内社を意識して、杉山神社に共通の御祭神を新しく迎え入れたのでしょうか。同じく論社である近隣の茅ヶ崎社は、天照大神が主祭神です。
由緒
【ご参考】こちらのサイトに石碑の原文が掲載されています↓
この石碑は、幕末の大棚村の名主で氏子総代の栗原恵吉が自費で作ったもの。彼は百姓の傍ら勉学に励み、『大棚根元考糺録』を著して大棚社が式内社であると主張しました。栗原家は白川伯家(神祇官を世襲していた公家)に働きかけて扁額・式内社証状を拝領し、さらに恵吉は儒学者河田迪斎に石碑を書いてもらいました。
石碑には「昔は祠は山の上にあったが罹災して山の下に移った」「かつては祭田を有していたが、失ってしまった」「別当寺の龍福寺に神璽があったことから、白川伯家にお願いして社号の扁額を頂いた」のような事が書かれています。
大棚社式内社運動のリーダー 栗原恵吉
Web小説サイト「カクヨム」に、床崎比些志さんが「式社の森(幕末杉山神社騒動)」という作品を掲載していらっしゃいます。(無料で読むことができます)
主人公の栗原恵吉は、長く荒廃した大棚社を式内社として認めさせようと、家業を犠牲にしてまで活動に没頭します。無関心な村人たち、ライバル社の氏子たち、武蔵国総社の猿渡父子、恵吉の活動に無関心ながらも寡黙に支える妻などが描かれています。
歴史系創作を史実とみなすことはできませんが、背景を丹念に調べていて参考になります。また、何より時代の空気感も伝わってきます。
まだ完結していないので、早く続きが読みたいです。
大人の事情で何度もお引越し
石碑などの古さから、大棚中川社は長くここに鎮座しているように思えます。しかし実際は、平成6年(1994年)に移転してきました。
同社は今までに三度ほど遷座しており、現在は四代目の場所。
近い距離ではありますが、結構動いてます。
それでは、遡って行ってみましょう。
その前にあった場所(三代目)
1983〜1995年まで鎮座していたのは、現・吾妻山公園にあった旧吾妻神社の跡地です。吾妻神社は戦前、杉山社に合祀されています。
2代目の場所が地下鉄建設計画地だったので、一時的に遷座したようです。
そのまた前にあった場所(二代目)
1912〜1985年まで鎮座していたのは、横浜市歴史博物館の周辺だそうです。
明治の終わりに遷座し、ここには70年ほど鎮座していました。
今昔マップで見ると
吾妻山の北西あたりに林が切り開かれた場所があるので、そこが神社だったのかも知れません。1980年代中頃には、既にニュータウン建設が始まっていて、大塚遺跡は半分に切断されています。
旧跡から遷座した理由は、明治政府が発令した1村1社令による合祀。郷社・杉山社は名前こそ残りましたが、神明社、八幡社、吾妻社など近隣社を合祀したため、新しく村の中央に置かれたようです。氏神様がなくなる地域に配慮して、どの社にも縁のない場所を選んだのかもしれません。
ここで、なつかしの都筑まもる君と再会!
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さあ、旧跡を目指して、先へ進みましょう。
元々あった場所(旧跡)
自転車にとって狭く危ない県道13号を走って、大棚社の旧跡に着きました。
大棚町公民館
ここに旧跡の石碑が残っています。
碑文の内容はこちらのサイトに掲載されています。
今昔マップでみてみると
赤で囲った部分が鎮守の森だったと思われます。遷座した後も、神社は3年間ほど残っていたようです。
論社という割には、由緒に関する情報がほとんどありません。新編武蔵風土記稿には、「拝殿3間2間、本殿2間四方」といった情報だけです。先ほど登場した現・大棚杉山社の(栗原恵吉が建てた)石碑にも、詳しい由緒はありませんでした。
そういえば…
あの石碑は、元々ここに建っていました。
石碑には「又聞昔者祠在後山一旦罹災因徙之於山下」(また昔聞く者あり、祠は後ろの山にあったが、一旦罹災によりて山下に移ったと)とあります。
ということは、神社が一番最初にあった場所は、さらに別の所なの…?
一番最初にあった場所は?
公民館の脇の道を、山の方に登ってみました。
この右にあるのが、
大棚杉の森ふれあい公園です。
谷戸筋に花壇や菜園があり、その奥の山には竹林が広がっています。
とりあえず、森の広場へ向かって山を登ります。
少し下って、視界が開けた場所に行ってみましょう。右に見えるカラフルな遊具は、公民館の隣の幼稚園です。
公民館から、丘陵の尾根がスッと通っています。
大棚社が最初に鎮座していた場所は不明ですが、「杉山神社考」では旧跡のある公民館の背後の丘としています。他には、別当寺である龍福寺近くの丘という説もあります。
実際に見た感じ、この丘の頂上付近は、いかにも杉山神社がありそうなロケーション。麓に神社が移った理由は、火事があったからと伝わっています。
大棚の由来は?
ちなみに「棚」は階段状の地形や、滝が流れるような崖を意味するそうです。ここは「大棚」という地名にピッタリな地形ですね。
神社にとって重要なこととは
ここまで、人の都合で遷座を余儀なくされた大棚社の歴史を見てきました。
本来、神社はその土地の主を尊敬(畏怖)したり、その土地の危険なものを鎮める目的で建てられるので、土地から切り離すことは出来ません。産土神(うぶすながみ)という考え方は、古来からあるものです。
いくら有力候補でも、遷座を繰り返した末にたどり着いた場所で「ウチが式内社です」って言われても…と思ってしまいます。
しかし、現代ではそんな事も言ってられません。神社を中心としたコミュニティを運営するのは地域の人。支える人がいなれば荒廃するだけなので、人の望む所に神社を建てるのも仕方のないこと。
新しい街の精神的基盤としての役割を担った氏神様。
それが、現在の大棚中川杉山神社なのかもしれません。
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現在の大棚中川社を見たら、栗原恵吉はどう思うのだろう?
何だとぉー
俺たちの氏神様を勝手に動かしやがって!
よりによって、杉山社を蔑ろにしていた奴らの所じゃねぇか。
しかも、それから2回も遷座させたのか。
なんてバチ当たりな!
でも…
広くてきれいになったし、
たくさんの人たちが拝んでくれるようになったし、
何より、みんな熱心に式内社推進活動をしてくれた。
氏神さまを大切に思う気持ちは、俺一人だけじゃなかったんだ。
俺がやってきた事は無駄じゃなかった。
時を越えて一つに繋がったんだ。
よかった、よかった…
オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。