*荘とすみえ 第3巻*【共同生活であったらちょっとよいこと・もの】
こんにちは。すみえです。今回は『荘』にて2年と4ヶ月の間、荘民と共に暮らしを営んできて感じた
【共同生活であったらちょっとよいこと・もの】
を一挙大公開致します!(拍手)
書いていて思ったこと。
それは...
「共同生活」に限らず、生きているうえであったらよいこと・ものだったということです。
ということで
「こんなこと・ものあったらいいな――――――!!!」
ということをまとめてみました。
はじまり~はじまり~
と...思いきや。前段に共同生活に関する抱いていた価値観について。
ゼロ. 正直、「共同生活なんて絶対できない」と思っていた...
そんなことを思っていた私ですが…やってみたら案外できてしまいました。
シェアハウスなんてできない!そう思っていた 理由 と、
→実際に暮らして見ておもったこと を以下にて。
①ものの所有欲がある
料理の道具やお気に入りの器、グラス、趣味のものなどを所有する欲があり、他の人と共有することに抵抗がありました。
→実際、荘で暮らしている時は、共有したくない物は個室に持ち帰るという選択を自然としていました。むしろ、珈琲ミルや電気ケトル等々…わざわざ自分では買い揃えない物を共有できたという合理性の方が結果勝りましたね。
②ひとり籠れる時間が必要
ひとりで籠って本を読んだり、手芸したり、何かしなかったり、何かしたりするのに、物理的・心理的な距離が必要な人間です。誰かと一緒に暮らしたら必然的に一人の時間が減るのかな、仮に一人になったとしてもひとつ屋根の下に他者がいることで心理的に休まらないのかなあなんて漠然と考えていました。
→実際に、誰かと一緒に暮らして思ったこととしては...
「バランス」を自分で調整すること
が大事だなということです。気を遣って誰かの行動に合わせたり、自分以外から発せられる音に発狂しそうな時もありました(正直ね)。でも、その外的な要因に振り回されている様じゃ、
—————まだまだ自分おこちゃまだな——————
—————あ、自分の時間は自分で調整しないと。——————
このまま周囲に流されていたら、自分の人生じゃなくて、
—————他人の人生を生きていることになる。——————
と、あるときに気が付きました。
当然、暮らし・人生の一部を他者と共有していることから、何かに巻き込まれることもあれば何かに巻きこむことも、好きなコトに出会うこともあれば嫌なコトに遭遇する可能性は、ひとり暮らしよりは高くなるはず。
沢山の選択肢が舞い込んでくる家に暮らすことでさらに気が付いたこと
それは
—————自分にとって最善の選択を取る—————
ということだけだと思いました。
当たり前の様だけれども、案外頭の端っこに追いやられがち。その追いやられていた言葉が引き出しから出てきました。その瞬間の開放感たるものや。
実際に私は、ドミトリー(二人で一部屋)で、自分のプライベートの空間を布で創り出してみたり、個室に移動するという選択を取ったりしました。なんなら、自分の暮らし、ライフスタイルに合わなければ、他者と共に暮らさずに一人で暮らすという選択もあるよな~と緩く構えながら暮らしていました。
そんなこんなで...
他者と共に暮らすことに抵抗があった私、また暮らしながら直面した様々な葛藤をなんとか乗り越えて(?)乗り越えずに逃げたり(?)きて感じた
「他者と共に暮らすにあたり、こんなことあったらよいな~」
をまとめていきます💪(やっと本題です)
Ⅰ. 「他者」を理解しようとする心持ち
一番大切なことは
心持ちです。
理解しようが、してまいがどちらでもよいかと思います。
他者の行動・言動に理解を努めるというよりも、
—————そもそも他者は自分と出会ってきた人、経験してきたことが違うんだから【違う】よね—————
という前提の下で理解しようとするゆるめの努め、それを心持ちと表現をしました。
その心持ちを持っていたら、例えば、家事レベルが違くて汚いことに対して不機嫌になる(私が共同生活を始めた頃は露骨に不機嫌になっていましたね…ごめんなさい💧)
のではなく!
育ってきた・出会った環境が違うんだから違くて当たり前だよね
—————「でも、自分にとっては不愉快だから」—————
①○○は最低限やってほしいなと直接かメッセージで伝える
②○○気になるから一緒にお片付けしよう
例えば...「お掃除会」やら「どこかの大改造の日」的なきっかけを作り・・・そこで大量にある段ボールをまとめることを頼んだり、住人数名で掃除を分担したり工夫をしていました。
③自分でやる
「○○に対するキレイさ基準は、ただの私のこだわりや好みに過ぎないから自分でやろう。」と腹をくくれるようになると、お掃除が気持ちよくなりました。
気が付けば、上記の3つの作戦を実行していました。
↑明らかに誰か生きていて発生した汚れは、ある期間ほったらかしにしてみたり、構わず「汚れているよ」(的な言い方だったかなあ?)と伝えたりできるようになっていましたね。初めのうちは、違う住人に汚いんだけどと遠回りに伝えていたり、泣きながら無言で掃除していたり(長期不在にしていて久しぶりに帰った時...悲惨すぎて泣きましたね…)、不機嫌になったり・・・と、書いていて恥ずかしいぐらい嫌な奴だったし、自分でもそんな自分が嫌いでしたね…。
シェアハウスやら共同生活に限らず、世帯家族との暮らし等々…
自分以外の誰かと暮らす上で、 「他者」を理解しようとする心持ち は本当に大事だと思います。(いや、たとえ一緒に暮らしていなくても大切ですね。)
その心持ちを持つ前段階として 他者と、そして自分と向き合う覚悟も必要になってくるのなとひしひしと感じました。
Ⅱ. おすそわけ精神
日常の中で ”何か ”を共有する心の温かみは何にも代えられないです。
朝ご飯、食後のフルーツ、おやつの時間、持ち寄りのご飯…
たくさんおすそわけをもらい…
影山さんの言葉をお借りすると、「健全な負債感」を感じるわけです。
「もらってしまった…💧」
ではなく、本当に日常の中の些細なものだから、
遠慮せず、素直に「ありがとう。頂きます。」
となります。
そして自然と、次いで贈与したくなる感じです。
その前提として、世帯、つまり生計を別にしていることが寄与していると断言します。
ー共有出来て当たり前ー
となっていないから、ありがたみが増します。頂いたら嬉しい、そしておすそ分けをして喜んでくれたら嬉しい。そこに義務感のようなものは生まれないから、尚更に心地が良いんです。
Ⅲ. 自分の声を聞くこと
Ⅰ の他者を理解しようとする心持ち を持つ準備として 他者と、そして自分と向き合う覚悟が必要なのではないかという論点をもう少し深掘りしてみます。
他者と向き合うためには
自分とも向き合う必要があると思います。必要というか...自然と向き合わさってしまうのではないかなと思っています。
自分以外の人と関わる機会が増えるほど、その他者との間で生じる、ある事柄に対する思うことの率直な声が脳内に漏れ出しやすくなってきたように感じます。
その脳内に漂う声が自分という人間を形成しているなと。
自分はこういう人間だからよろしく。
自分はこういうことが好きだよ。
自分はこういうところが苦手だから...予め伝えておくね。
と、自分という生物の特性を知る、そして相手に伝える(?又は言葉と行動で徐々に伝わってしまう)。武装無しの状態で、ありのままの状態で他者と生きる。
それが活動だけでなく、「日常」という生きる部分の営みの中でできるようになった時の心地よさ。共同生活の1年半過ぎた頃からその心地よさを感じはじめたかなあ(結構時間がかかりました。)
Ⅳ. Air pods のノイズキャンセリング機能
な!なんや!
急に物理的なものがやってきましたね(笑)
ノイズキャンセリングの仕組みにさらっと触れますね。
つまり、音の波として人間の耳に入り込むはずであった音、つまり消したい音と逆位相の音の波をエアポッズちゃんが発して音を打ち消しているという仕組みだそうです。
違う音同士がはもり合いそうな気もするけれども…お互いが音を打ち消し合うという!なんとびっくりな時代ですね。
これは、もう。日本家屋の壁の薄い家屋での共同生活において大活躍です。
隣のお部屋で誰かがお話ししていても、
ま~~~~~ったく聞こえません。
一気に自分の世界に入り込める優れモノなんです。
集中したいとき、静かに本を読みたいとき、隣の居間でご飯会をしているけれどもリモートの会に参加するとき、、、etc、大活躍です。
オワリニ. まとめ
絶対にできないと思っていた共同生活
自分なりに試行錯誤して
人間らしく、順応したようです。
こうやって言葉にして書いてみると、
自分以外の他者と共に暮らすことって奥深くて
生活を共にするということは、ほんのすこしでも人生の一部を共有すること
そうであるから、人生を創り出す要素として 住まい が持つ影響力はとても大きいなと感じました。
そんなこんなで、今回の会はお・わ・りです:)
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