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連載小説 | 月の体温 #2「月の光に導かれて」(2199字)

〈あらすじ〉
鎌倉にある私立小町女子高等学校に通う月代光子(17)は才能あるピアニストとして知られるが、人間関係には興味がなく、唯一の友はピアノだった。ある日、失恋で泣く氷川ゆい(17)と出会う。光子の奏でるピアノはゆいの心を癒やし、以後ゆいは頻繁に顔を出すように。そんなある日、光子の気に入っていたピアノが故障ゆえに撤去され、光子はショックを受ける。ゆいはピアノを取り戻す計画を提案し…。

※この物語は『春、ふたりのソナタ』の番外編となっています。先に本編をお読みいただくと、より一層お楽しみいただけますが、こちらだけでも十分にお楽しみいただけます。

一話はこちら


第二話「月の光に導かれて」

 
 私は立ち上がり、音楽室のドアの前へ行き、引き戸を引いた。
 ドアの裏に座り込んでいる女生徒の姿があった。
「うっ……ぐすっ……ぐすん……」
 私の存在に気づくと、彼女は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をこちらに向けた。
「……」
「……ぐすん」
 状況を上手く飲み込めず、私は静かに引き戸を閉めた。
「ちょっと! ひどい!」
 ドアの裏から彼女の雄叫びが聞こえた。


「それでね、今日やっと心を決めて告白したの……! そしたらね、『女子校だからって、女はちょっと……』って……」
 目の前に座る彼女は再びわんわんと泣き始めた。私がティッシュを渡すと彼女は「ありがとう」と言って鼻をチーンとかんだ。

 ちょっと落ち着かせて、すぐ帰ってもらう予定だったのに……。なぜか私は今、ピアノの前で対面して座り、延々と彼女の恋愛話を聞かされていた。そして、一向に落ち着く気配がない。
「もう、本当に本当に辛くて、この世から消えちゃいたいって思うくらい辛くて……」
 そんな大袈裟な、と思ったがあまり刺激するようなことは言わない方が良いのだろう。私は人付き合いは苦手だけれど、空気が読めないという訳ではない、恐らく。
「でもね」
 そう言って、彼女は顔を上げて私を見た。
 その瞳は涙のせいか、きらきらと星のように煌めいて見えた。
「すごく綺麗な音色が聞こえたの。それこそこの世のものじゃないんじゃないかっていうくらい美しい音色。真っ暗だった私の心の中を、優しい光で照らしてくれるような、そんな音色が私をここまで連れてきてくれたの」
 彼女のまっすぐな瞳から溢れおちる雫は、私の胸の中の水たまりに一粒落ちて小さな波紋を作った。
「あなたにはそう映ったのね」
「え?」
 私はただ、自然風景を音で描写しただけにすぎない。
 なのに人間は、美しいものを観た時に、それに意味を付けたがる。ただの月の光は、観た人の感性によって、状況によって、悲しみにも、優しさにも、絶望にも、希望にも映る。
 芸術とは、きっとそういうものなのだ。
「ドビュッシー、月の光」
「え?」
「この曲のタイトルよ」
 そう言って、私は鍵盤に向かい、音を奏で始めた。
 甘く柔らかな和音たちが、教室に響く。
 横目で見ると彼女は目を瞑って、音の一粒一粒を味わっている。
 誰かといるのにとても静かで、まるでここは澄み渡る氷の城の中のように思えた。


 最後の音を奏で終わる。
 目を開いた彼女は、私の隣で急に立ち上がるので、私は思わず肩をびくっと震わせた。
「すごい! すごい!」
「まじですごすぎ!」
「もうプロじゃん! やっば!」
 口を開いた途端、彼女は小鳥たちが囀るように急に騒がしくなった。
 さっきまでの静けさはなんだったのか。
「ねぇねぇ! もっかい弾いて━━」
 言い終わる前に、私は彼女の飛び跳ねる肩を抑え元の席に着席させた。
 きょとんとした彼女に、私はひとつため息を吐いて尋ねた。
「━━それで、あなたは一体どこのどなたなの?」
 彼女は目をぱちくりさせて、私の顔を覗き込む。
「ひどい! 同じクラスの氷川だよう。氷・川・ゆ・い! もうクラス替えして二週間経つのに覚えてないの?」
 確かにどこかで見たことのある顔かもしれない。
「なんとなく……」
 昔から私はクラスメートの顔を覚えられた試しがない。三年の新しいクラスになって、もう二週間になるというのに、誰一人として覚えていない。
 基本的に人にあまり興味がないんだろう。
「私は覚えてるよ、月代光子さん、でしょ? 有名だもん♫」
 氷川ゆいは私の顔を見て、ふふっと笑った。
 彼女の少しカールがかった前髪が揺れる。
 さっきは涙と鼻水のせいでわからなかったが、改めて見ると彼女は可愛らしい顔をしていた。肩の長さで少し内巻きになった、ふんわりした薄い茶髪。いたずらっぽく吊り目がちな大きい目に、にやっと笑うと見える八重歯。その笑みには、どこか無邪気な、しかし少しばかり計算されたようなあざとさも感じる。
「あなたって、世渡りが上手そうね」
 ふいに、無意識のうちにそんな言葉が出てしまった。
「えっ、それどういう意味?」
「別に。……少し羨ましいわ」
 私がそう言うと、彼女は訳がわからないというように眉をへの字に曲げた。
「ふーん……、ところでさ、みっちゃんは毎日ここでピアノを弾いてるの?」
「みっ……ちゃん?」
 突然のあだ名呼びに思わず思考が停止してしまった。
「そう、光子だから、みっちゃんでしょ? 気に入らない?」
「気に入らないとかでなく……」
 彼女の犬のように無邪気な強引さに、なんだか調子を狂わされる。
「じゃあみっちゃんて呼ぶね、月代さんって長いんだもん」
 私はひとつ長いため息をついて答えた。
「……好きにしたら」
 色々面倒になってしまった。
「みっちゃんは毎日ここでピアノを弾いているの?」
「そんな訳ないでしょう。吹奏楽部が休みの日だけよ」
「ふーん、何曜日?」
「水曜日」
「へぇ! うちと一緒だ。テニス部も水曜休みなの」
「へぇ、そうなの」
 私は聞き流すように答えた、が。
「よかった〜また聞きに来れる🎵」
「……え?」
 聞き流せない一言を彼女は発した。
 私が何か言う前に彼女は立ち上がり、私の顔を見てニッと笑った。
「話、聞いてくれてありがとうね! じゃまた来週🎵」
 彼女は足取り軽く、音楽室から出て行った。
「また来週……?」
 私は呆気に取られたまま、一人ぽつんとピアノの前に残された。

《続く》

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紡ちひろ
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