連載小説 | 春、ふたりのソナタ #9 《完結》
この作品は #創作大賞2024 応募作品です。
最後の学校が終わった。
扇ヶ谷の家に戻ると、玄関にスーツケースが並べられ、お手伝いさんが私を出迎えてくれた。
「お嬢様の荷物ももうこちらにまとめてございます。寂しくなりますが、また帰ってきた時はご連絡くださいね」
「ええ、今までありがとう。きっと連絡するわ」
慌ただしく階段から降りてきた母が、私の存在に気づく。
「あと1時間後に空港に向かうわよ。あなたも早く支度して」
「はい、お母様」
そう言って早々と廊下の奥へ去って行く母。その背中をじっと見ていた。
これからウィーンに行くというのに、何の感情も湧かなかった。
私の心はぽっかりと穴が空いてしまったようだ。
クラスメートたちは私が帰る時、泣いてお別れを言ってくれたけれど、何の悲しさも私には湧かなかった。
すでに、私の感情も涙も、今朝の時点で使い果たしていたから。
今朝、真名に告白された。私が転校する前に間に合うように小説を書き上げてくれた。きっと一生懸命書いてくれたんだろうなと思って、嬉しかった。
読んでいくうちに、なんとなく私に似たルナというキャラクターが登場して、その人物に感情移入しながら読んでいった。だんだん、ルナとつくしの関係はまるで私と真名のようだなって思っていって……。
途中で真名の私への感情に気付いた。
……本当は、前からなんとなく気付いていた。
母に愛されない私は誰にも好かれないと思っていた。
母が私に関心がないと気付いてから、私は母の興味を引きたくてピアノを頑張った。苦手なコンクールも出続けたし、週末も遊ばずに厳しいレッスンに耐えた。
そんな私を見て私を好きと言われても、それは私に対しての好意じゃないと感じた。学校のみんなも結局、上辺の私しか見てないんだって思った。
一年の終わり、先輩から鍵を渡されて、準備室で一人でピアノを弾いた。
初めて自由を感じた。あんなに小さな部屋の中にいるのに、広い世界へ解放された気分になった。無理して弾いていたピアノも、本当は嫌いじゃないことに気付いた。
むしろ、音楽が前よりも好きになった。
誰も知らない場所にいるのはなんて居心地が良いんだろう。
私は一人でいる方が好きなんだ。そう思った。
でも真名と会って、だんだん変わっていった。
『さっきの曲、すごくきれいで、まるでこの桜みたいな曲だった』
『……凄い。 作曲もしちゃうなんて。やっぱり月代さんは凄い人なんだね』
『私、あの曲すごく好き』
真名はとても繊細で、私の作った曲を理解してくれた。
私がありのままで作った曲を、好きと言ってくれた。
初めて誰かに「私」を認めてもらえた気がした。
私は真名に会いに学校へ行くのが楽しくなった。
私は一人ぼっちだから、友人に好かれる真名が素敵だと思った。
仲良くなりたくて、音楽準備室へ初めて他人を招き入れた。
一緒に過ごすうちに、私の中で「特別な人」に変わっていった。
真名も私と同じ気持ちでいるような気がしてた。
でも真名の気持ちが本当かどうか確かめたくて、いつも試すようなことばかりしていた気がする。
帰国してから、母の様子がいつもと違った。
「私の演奏を見たい」と言ってきたのだ。
今までそんなこと言われたことなかったから驚いたけれど。
もしかしたら、母は私に興味を持ってくれ始めているんじゃないかと期待した。
でも、いざ母に見られると私の指は石のように固まって、動かなくなった。
緊張と焦りでいつも通りに演奏が出来ない。母の顔は怖くて見れなかった。
ため息と一緒に、母はこう言った。
「……いいわ、私の選ぶ先生をつけてあげるから、もっと練習に励みなさい」
そう言って、週末は母の知り合いに頼み、レッスンを付けてくれたのだ。
でも私は、自ら約束を破ってしまった。
叩かれた時に感じたのは、いつも凪のように静かな母だけど、本当は嵐のような大きな感情が渦巻いているのだということ。そういう人だと初めて知った。
本当に傷つけてしまったのかもしれない。
そう思って、とても申し訳なくなった。
でも、母から「私をウィーンに連れていく」と言われて、真っ先に思ったのは真名のことだった。
真名と離れるのは嫌、と思った。
でもこれ以上逆らって、母に見捨てられるのが怖かった。
だから、嫌って言えなかった。
真名が告白してくれた時、嬉しかったのと同時に、勇気があってすごいなと思った。
自分の気持ちに正直にいようとする真名を見て、私はどうなのか考えていた。
私は真名のように強くなれない。
そんな情けない私が、真名の隣にいる資格、あるのかな?
車は高速に入り、私と母を乗せて国際空港へ向かう。
車窓から、黄昏時の街並みが凄い速さで目の前を通り過ぎて行く。
誰かと過ごす時間は有限なんだと知った。
もっとたくさん話したいことがあった。今気づいても遅いけれど。
国際空港の第二ターミナルに到着する。
空港内は各国へ向かう便の案内のアナウンスが響き、本当に日本を出るんだなと感じた。
「行くわよ」
母はチェックインカウンターへ向かっていく。
「はい……」
私は母の後を追って歩き出そうとした時だった。
チャリン。
空港の床へ鍵が落ちる音が響いた。
音楽準備室の鍵だ。慌てて準備したから荷物に紛れ込んでしまったようだ。
私が持っていてももう意味ないのに……。
会った時に真名に渡せばよかった。そうしたら……。
その時、真名があの部屋で一人、寂しそうに座っている情景が浮かんだ。
あそこから見える、校庭の桜を一人見ている真名の姿が目に浮かんだ。
表情は分からなくて、でもその背中は寂しそうだった。
その時私は、急に真名が書いた小説の結末を思い出した。
《春の国に平和を取り戻した後。トンネルがつくしのいる世界に通じるようになった。しかし、今すぐトンネルを出ないと次に開くのは十年後になってしまう。つくしを送り出そうとするルナ。つくしは帰りたくない、と話す。ルナは「ここにずっとは居たらダメ、つくしは自分の世界へ戻って。またいつかきっと、会いましょう」と、つくしと約束をする。泣きながらトンネルを抜けるつくし。振り返ると、トンネルはもう閉じていて、春の国へはいけなくなっていた。悲しみに包まれるつくしだったが、ルナと過ごすことで勇気を得たつくしは学校へ行き、友人を作ることができるようになった。それから時が経ち、十年後、大人になったつくしは例のトンネルの前に立っていた。トンネルの中から春風に乗って、桜の花びらがつくしの顔に落ちてくる。おわり》。
私はハッとした。
もしかしたら、真名はずっと待っているつもりかもしれない。
私が帰ってくるまで、それこそ十年の月日が経ったとしても。
その間、真名はずっと一人で桜を見るのかしら。
そんなことないわよね、きっと違う人が隣にいて……。
その時、私の胸はきゅうっと締め付けられた。
ああ、嫌だ。待っていてほしい。他の人を選ばないで欲しい。
わがままかもしれないけれど。
真名の隣は私でいたい。
「有希子? なにしてるの? 早くこちらへ来なさい」
母が立ち尽くす私に気づき、呼びかける。
「……」
「……有希子、早く」
私は母の声に怯え、震える手をぎゅっと押さえつけた。
そして、母をまっすぐ見た。
「……お母様、……私行けない」
「……どういうこと?」
「……私、自分の生き方は自分で決めたい」
「……」
母は静かに驚いたような目をして私を見た。
「私、お母様に嫌われたくなくて、言えなかったけれど、ずっとピアノを弾くのが苦痛だったの」
「……」
「でもお母様の後を追いかけなきゃって、じゃなきゃ置いていかれちゃうって思って、ずっと不安だった。だから、私頑張らなきゃって思って続けていたけど、でもだんだん辛くなってきて……」
母は黙って聞いている。何を思い聞いているのかはわからない。
「今年、先輩から鍵をもらって……、音楽準備室の鍵で、そこでこっそり弾くようになって。誰も見ていないから、すごく気が楽になって、ピアノが楽しいんだって初めて気づいて。それで好きに、自由に曲を作って弾いていたの」
「……」
母は少し何か思うような表情をした。私は続けて話す。
「音楽準備室で自由に弾いている時間が大切なの。私の曲を好きと言ってくれる人がいるの。その人と過ごす時間が、私にとって今すごく大事なの……だから……っ」
「わかったわ」
「……え」
聞き間違いだろうか。母は確かに今わかった、と言ったんだろうか。
母は表情を変えずに続ける。
「私、あなたを一人にしてしまったことに負い目を感じていたの。だから今度こそ側で面倒を見ようと思ったの。でも、それも私の勝手だものね」
「……え」
意味がわからなかった。だって、母は……。
「私のこと、どうでもいいんじゃないの……?」
「……この間もそういうこと言っていたけれど、そんなことないでしょう。あなたは私の娘なんだから」
「……だって、私見たの……。お母様がインタビューで『家族よりもなによりピアノが好き。私はピアノにしか興味が持てない』って……」
「……そういうこと」
母は納得したように深くため息をついた。
「そんなのを気にしていたのね」
「気にするわ……、お父様だって……」
父と聞いて、母は少し寂しげな表情を浮かべた。
「……きっと私がいけないのね。あまり二人との時間取れなかったから……。でもね、そのインタビューは違うわ。私、そんなこと言ってない。『今は、家族との時間よりピアノに集中したい』とは言ったと思うけれど」
そんな……、じゃあ私はずっと勘違いをしていたっていうこと……?
「記事なんてね……、ほとんどは嘘ばかりだと思ってるわ。どうしても、気を引くようなことを誇張して書かれてしまう。だから私は、あまり気にしないようにしてたんだけど。有希子たちは、そうじゃなかったのね……」
そんな……。
「でも、この間私のこと叩いた……」
私は頬の痛みを思い出して、頬を手で抑えた。
「それは、ごめんなさい……。あなたから『私のことなんて、どうせ興味ないでしょう』って言われて、びっくりしたの。私はこんなに愛しているのに、伝わってないことが悲しかった。でも、私はこんなにも自分の気持ちを伝えられてないんだって気づいた。だから、やっぱり側に置かなきゃいけないんだって思ったのだけど……」
「……」
愛しているって言った? 私のこと。
「あなたは子供の頃から、親に気を遣って、自分の気持ちを言わない子だった。でも、いつのまにか、有希子も大人になっていたのね」
母は私に近寄り、私の頭に手を置いた。こんなに温かい手……。
「愛しているわ、本当よ」
その瞬間、私の頬に大粒の涙が溢れるのを感じた。
声を上げて、私は母の胸で泣いた。
母はそんな私のことを優しく抱きしめてくれた。
私の世界が、光で満たされて行くのを感じた。
母は私の涙を拭って、少し微笑んだ。
「それに……」
「……?」
「準備室のピアノ、まだ残っているのね」
「え……」
私はきょとんとして、母を見た。
「あのピアノは私が直したのよ」
「えっ……うそ……」
一人目のピアニストって、まさか母のことだったなんて……。
「あのピアノは私のお気に入りでね、あなたと同じようにレッスンが辛い時は、音楽室に行って好きな曲を好きなように弾いていたわ」
「……お母様もそんなことを思うのね」
「当たり前でしょう。誰だって辛い時期はあるわ」
「……そうだったのね」
私は少し母に親近感を持つことが出来た。
母も最初から完璧じゃなかったのだ。
「年代物だったから調子が悪くて、ある時に準備室に仕舞われてしまったの。それが悔しくって、こっそり忍び込んでピアノを直してたわ。それだけじゃ面白くないから、この準備室をピアニストたちの秘密の隠れ家にしようって思いついたの。音楽が好きな後輩たちの助けになりますようにって……。まさか今でも続いてるなんて思わなかったけれど」
私は手に握っていた鍵を見た。
この鍵は、母の代から巡り巡って私の元へ引き継がれたんだ。
「ふふっ」
「なにがおかしいの?」
母はキョトンとして、私を見る。
「いえ、別に……」
やはり私と母はどうしたって、ピアノを通して繋がっているのだ。
有希子がいなくなって、一月が経った。
私はあれから、心の中にぽっかり穴が空いたようで、ぼうっとすることが増えた。
どうやったら、この穴は埋まるんだろう……。
春は過ぎ、梅雨がやってきて、しばらく憂鬱な日々が続いた。
そんな中、文芸コンクールの結果発表の日がやって来た。
千景、やまちゃん、姫子には私がずっと小説を書いていたことを話した。
三人とも見せて見せてと盛り上がっていたが、さすがに恥ずかしくて読ませなかった。
みんなで結果発表の載った掲示板を見に行った。
なんと、私の小説は佳作を獲っていた。
「嘘でしょ……」
最初、目を疑ったが、確かに私の名前が書かれていた。
みんなで顔を見合わせる。
「すげぇ!!」
ハイタッチして、やまちゃんたちも一緒になって喜んでくれた。
頑張ってよかった、心からそう思った。
掲示板の下に貼り付けてあった作品講評の所には一言、陽河ユイ先生からの言葉が添えられていた。
《技術全般はまだ未熟ですが、作者の強い想いが物語全体に一つの強い光を放ち、私の心に強く響きました。私もこんな素敵な恋をしてみたいな。》
私は嬉しくて、思わず顔がニヤけてしまった。
じわじわと受賞の喜びを噛み締める。
でも……。
ああ、有希子もこの場にいたら良かったのに……。
どうしても、そう考えてしまう……。
いや、有希子もウィーンで今頃、頑張ってるんだ。
私だけいつまでも元気がなかったら有希子に心配されてしまう。
そうだ、早く次の作品を書こう。
創作に打ち込んでいたら、きっと有希子のことを考えなくて済む。
「いってきます」
今朝まで降っていた雨が止み、通学路のあちこちにできた水たまりがきらきらと光っている。それを飛び越えるように、私は学校へ向かう。
久しぶりの早朝の教室。
窓の外からは、気が早い蝉たちの鳴き声が聞こえてきた。
私はノートを広げ、さぁどうしようかと考え始めた、その時。
ピアノの音が聞こえた。
華やかな春の音色が窓の外から聞こえてくる。
私は顔を上げ、まさか、と思いつつ、窓から、音楽準備室を見た。
窓が開いていて、誰かの影が見える。
私は急いで教室を出て、落ちそうになるくらいの勢いで階段を数段飛ばしで飛び降り、誰もいない廊下を走り抜け、ピアノの音が響き続ける音楽準備室へ向かった。
ドアを開けた。
そこには確かに、楽しそうにピアノを奏でる有希子の姿があった。
「有希子!」
私の声に、有希子は演奏する手を止めた。
「なんで……」
有希子は私の方を見て、口を開いた。
「……びっくりした?」
そこにはいつもと同じようにいたずらっぽく笑う有希子がいた。
私は一気に気が抜けたように、大きく息を吐いた。
「びっくりするに決まってるでしょう……」
有希子は嬉しそうに「ふふふ」と笑う。
「それで、どういうこと?」
有希子は優しい目をして言う。
「……母の気が変わったの」
「お母さんの?」
「一ヵ月前の出発の日、私が駄々を捏ねたの。私はこの部屋で過ごす時間が大切で、真名といる時間がなにより大事なんだって」
「……」
……今、私といる時間が大事だって言った?
「そう言ったら母が、あなたの好きにしなさいって」
「……」
「真名」
有希子が私の元へ歩み寄って言った。
「私もあなたが好き」
「……」
有希子は私の返事を聞く前に、私にキスをした。
有希子の柔らかい唇が触れる。
一瞬のような長いような時間が流れる。
有希子の優しい香りに包まれ、私はくらくらして倒れそうだった。
「大丈夫?」
有希子は私の腰を抱き止める。
「う、うん……」
有希子のきれいな顔が近くにあって、余計にくらくらした。
「待たせてごめんね……」
少し申し訳なさそうに微笑む有希子。
「ううん……、ってそうだよ!」
私は我を取り戻し、有希子に噛み付くように言った。
「こんな一ヶ月も連絡よこさないで……! いたなら言ってよ……! 私がどれだけ……」
そこまで言って、私は長いため息をつく。
どうせ有希子のいたずら心なんだろう。
「ふふ、ごめんね。違うの」
「え?」
有希子は私の手を引いて、ピアノの前まで連れて行く。
ピアノの前に座り、有希子は置いてある楽譜を指差した。
「昨日まで、ずっとこの曲を作っていたの」
「え……」
私は拍子抜けしたような顔をしてしまった。
「曲……? もしかして、一ヶ月この曲を作っていたの?」
「そう。……真名が私のために小説を書いてくれたでしょう。すごく嬉しくて、だから私も一生懸命、真名のために曲を作ろうって思ったの」
私のための、曲……。それをずっと……。
「有希子……」
「真名」
有希子は私の手を優しく取って、隣の椅子に座らせた。
「来年もまた一緒に、桜を見ましょう」
そう言って、有希子は美しい指先で、鍵盤を優しく弾き始めた。
初夏の音を掻き消すように、有希子の生み出す春の音色は大きく私の心の中に暖かな光となって広がっていった。
この曲のタイトルは『春、ふたりのソナタ』。
《おわり》