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連載小説 | 月の体温 #1「氷の女王」(2325字)
〈あらすじ〉
鎌倉にある私立小町女子高等学校に通う月代光子(17)は才能あるピアニストとして知られるが、人間関係には興味がなく、唯一の友はピアノだった。ある日、失恋で泣く氷川ゆい(17)と出会う。光子の奏でるピアノはゆいの心を癒やし、以後ゆいは頻繁に顔を出すように。そんなある日、光子の気に入っていたピアノが故障ゆえに撤去され、光子はショックを受ける。ゆいはピアノを取り戻す計画を提案し…。
※この物語は『春、ふたりのソナタ』の番外編となっています。先に本編をお読みいただくと、より一層お楽しみいただけますが、こちらだけでも十分にお楽しみいただけます。
第一話「氷の女王」
「好き……です……」
目の前にいる少し薄茶がかったウェーブヘアの女生徒は、祈るように組んだ両手を震わせながら、私にそう言った。彼女は下を向いているから、本当に私に言ったのか疑いの気持ちもあるけれど。誰もいない校舎裏に私たちふたりきりなのだから、私に対して、ということで良いのだろう。
「だから?」
私が強い口調でそう答えると、彼女は意表を突かれたようにばっと顔を上げた。目は丸くうるうると涙ぐみ、紺のセーラーカラーについた毛先がくるんと揺れる。まるで怯えた小動物のようだ。
「え……っと、だから……その……」
しどろもどろする彼女。これじゃあ埒が明かない。
「じゃあ」
そう言って、私は立ち去ろうとすると、
「ま、待ってください……!」
今までよりほんの少し大きな声で彼女は私を制止した。
「あの、まだ、光子先輩に話したいことが……」
私はひとつ長めのため息をついて、振り向いて言った。
「このあとピアノのレッスンがあるの。私にとって、それ以上に大事なものはないわ。無意味なことに時間を使わせないで」
「は、はい……」
蚊の鳴く声を背中に受けながら、私はその場を立ち去った。
面倒くさい……。
一年の夏の終わり頃からだ。面倒になり始めたのは━━。
うちの高校、私立小町女子高等学校は大正時代に古都・鎌倉に創立された七十年を超える歴史ある学び舎である。谷戸という自然に囲まれ、神社仏閣の多い神聖な土地に立つこともあり、紺青色のセーラー服に身を包む、賢くお淑やかな女生徒たちの通う品位ある学校だと思っていた。
入学当初は、私も問題なく過ごしていた。
ところが、私がピアノで全日本コンクールを優勝してから、周りの態度が急変した。私を特別扱いし始める先生、話したこともないのに友人面するクラスメート、通りすぎると黄色い声をあげる知らない生徒たちの集団。
静かな学び舎が途端に騒がしい場に変わった。
だんだん面倒になってきて、全部無視するようになってから、少しは落ち着いたのだけれど━━。
「月代さん、なんで試合出ないの? 一人足りなくて困るんですけど」
ある日の体育の授業のこと。クラスの女生徒が私に苦言を呈してきた。
この日はハンドボールの授業で、最後に練習試合があったのだけれど、私は特別に休ませてもらった。
「手を怪我したくないの。私はここで見てるわ」
白いラインの外で体育座りをしている私に、女生徒は続けて文句をつけた。
「ああ、大事な大事なピアニスト様の手だものね。自分だけ特別なんだって思っちゃってる訳ね」
言い方に棘しかない。
「そう思っていただいて結構よ」
「その話し方も癇に障るんだけど……」
感情を昂らせた彼女が私の腕を掴んだ瞬間、
「まぁまぁ、いいじゃん。私が二人分動くからさ」
一人のクラスメートが止めに入った。彼女はその生徒に宥められ、私はなんとか事なきを得た。
こんな具合に、敵もまた増えてしまったのだった。
周りのひそひそ声が耳に入る。
「あんなに冷たく言わなくてもね」
「まるで氷の女王様みたい」
それなら氷の城を作ろうかしら。寒くて誰も入って来れないように。
私は静かに過ごしたい。ただ、それだけ。
放課後になると、私は足早に職員室へ向かい、先生から鍵を借りた。
二階へ続く階段を登り、右手の廊下、突き当たりの部屋へと向かう。
そこには音楽室がある。
毎週火曜は吹奏楽部がお休みで、その日は決まって音楽室に寄っていくことにしている。
私は音楽室の鍵を開け、引き戸を引く。
がらんとした広い部屋、入って正面の壁には歴代の音楽家たちの肖像画がずらりと並ぶ。左手を見ると大きなグランドピアノが一つ。その背後の窓からは、満開の桜たちが顔を覗かせている。校庭沿いに咲く桜並木がここから見えるのだ。
窓を開け放つと、春風に誘われて一片の花弁が舞い込んできた。
ひらりと舞い降り、黒塗りのグランドピアノの蓋に静かに落ちる。
私はこの、古く美しいピアノを気に入っていた。
高校の音楽室にあるピアノとしては似つかわぬ、チェコ製のペトロフのグランドピアノ。聞けば、音楽を愛した前学長が愛用していたものを、惜しげもなく寄付してくれたのだという。
椅子に座り、鍵盤に触れる。
優しくまろやかな音色が室内に響く。
私が毎週音楽室へ通う目的は、このピアノだ。
自宅でいつも弾くグランドピアノとはどこか違う。
学校の人間関係、厳しいレッスン。
そんな日々に疲弊した私の心を、いつも癒してくれた。
鍵盤に両手を置く。
和音が響く。ペダルを踏み込み、優しく次の和音を奏でる。
重なり合った音たちが誰もいない空間に響き、優しく交わり合う。
ドビュッシーの「月の光」。
目の前に広がるのは、深く蒼い水面に映る白い月の光。
ドビュッシーは印象派音楽の先駆者と言われている。印象派とは、絵画でいうモネやルノワールのような風景の印象を光や色彩で大胆に捉え描く絵画表現のことをいう。
この曲は感傷的な心象風景を音にしているという解釈もあるが、私はただ淡々と、目の前にある静謐な風景を音で描写しているように思う。
そう、愛やら悲しみやら面倒な人間的感情を描いた曲ではない部分が、私は気に入っている。
「……うっ……うぅ~……」
音色の合間に誰かのうめき声が挟まれることに気付いて、私は演奏の手を止めた。後ろを振り返ると誰もいない。額に収まったモーツァルトと目が合う。
まさか、巷で言われる心霊現象とでもいうのだろうか。
自分で考えておいて、私は少しおかしくなって笑ってしまう。
仕切り直そうと、鍵盤に手を戻すが、
「ううう~……」
私は立ち上がり、音楽室のドアの前へ行き、引き戸を引いた。
《続く》
第二話
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