5月の活動報告会
どうもみなさん、と罰です。
いや……逆に、と罰ではありません。決して。
むしろ皆さんがと罰です。受け入れてください。
最近は何が何だかですよね。生きているだけで時間が過ぎ、やがて死んでいくのがあなた達ですが、私の場合はずっと西部の世界で人を撃ち殺しているというもんですから、いよいよもってアウトローな日々です。
私はこれのチャンピオンでした。
で、このnoteではいつもいつも活動報告をしていますが、はたしてそれで良いのかと。生活の当たり前を見直すことこそが、新時代を生きる我々の価値観ではないのか。月間報告なんてもうとっくに古臭くて誰もやっていないのではないか。そうやって時代遅れの慣習をこれまで続けてきたからという理由だけで脳死に行うのはリソースの無駄使いではないのか。タイパが悪いのではないか。このままではこのジェンダーレスの時代に女だ男だと繰り返しているフェミニストの様にステレオタイプな差別主義者になってしまうのではないか。そもそも、報告する内容に価値があるかどうかを誰が判断しているのか。その基準は、時代錯誤のパラダイムに囚われた旧態依然とした考え方に基づいているのではないか。我々は、自己満足のために活動報告を続けるのではなく、もっと本質的な部分に目を向けるべきではないか。現代社会において、本当に重要なことは何かを見極める力を養うことこそが必要なのだ。しかし、日常の慣習やルーティンに囚われることなく、常に新しい視点を持つことは容易ではない。だからこそ、我々は時には自己を問い直し、現状を批判的に見つめる勇気を持たなければならない。現実を直視し、自己満足に陥らないためには、不断の努力と鋭い洞察力が求められる。ここで、例えば「無駄」とは何かを考える。無駄とは、エントロピーの増大に寄与し、システム全体の効率を低下させる行為である。そう考えると、無意味な活動報告や、形式だけのコミュニケーションは、社会的なエネルギーを無駄に消耗するだけであり、真に価値ある生産性を妨げる障害となるのだ。一方で、現代のテクノロジーがもたらす情報過多の中で、我々は何を取捨選択すべきかを見極める能力も問われる。情報の洪水に溺れることなく、真に価値ある知見を抽出するためには、鋭い批判的思考が不可欠である。したがって、これからの時代に生き残るためには、単なる活動報告や慣習に囚われることなく、常に自己の価値観を更新し、時代の変化に対応できる柔軟性を持つことが重要だ。従来の慣習に囚われず、新しい視点を持ち続けることで、初めて我々は真の意味で進化することができるのだ。そのためには、しばしば意味を失った形式や儀礼を捨て去る勇気が必要である。形式主義に囚われることなく、真に価値ある内容を追求することが、我々が目指すべき道なのである。最終的には、自己満足や自己欺瞞に陥ることなく、真に価値ある行動を追求し続けることが求められる。そのためには、不断の努力と自己批判の姿勢を持ち続けることが必要だ。これこそが、新しい時代において真に価値ある生き方なのである。知性的であることがさも平等の様に流布する世界では生まれつき知能の差が考慮されておらずそれは単に暴力性の差別であり人型の生き方を一方の価値観で善悪を決めつけそれに沿わないタイプの思想を弾圧する醜い行為だといえる。そうやって作られた知性社会ではさぞ効率的で理想的なユートピアが築かれると信じられているかもしれないが、その裏には深刻な不平等と抑圧が隠されている。人間の多様性を無視し、知性という単一の指標で人間を評価することは、結局のところ、人間性そのものを否定することに他ならない。このような社会では、知能が高いとされる者たちが支配的な立場に立ち、知能が低いとされる者たちは従属的な立場に追いやられる。この構造は、新たな形のカースト制度を生み出し、社会的な移動を阻害する。また、知性を基準にした評価は、教育や環境による影響を無視しがちである。生まれつきの知能だけでなく、教育環境や家庭環境も知能の発展に大きな影響を与えるにもかかわらず、それらが考慮されないのは極めて不公平である。知性の評価が絶対的なものとされる社会では、個々人の努力や環境の違いは無視され、単なる遺伝的な要素だけが強調される。このような知性至上主義は、究極的には人間の本質を歪めるものであり、真の意味での平等や公正とは程遠いものである。人間の多様な側面を認め、尊重することこそが、真に公平で包括的な社会を築くために必要なのである。しかし、現実は往々にして、知性という名のもとに差別が正当化されるという、皮肉な状況が広がっている。そして、このような社会においては、知性を持たないとされる者たちが抑圧されるだけでなく、知性を持つとされる者たちもまた、常に競争とプレッシャーの中で生きなければならない。知性が高いとされる者たちは、その知性を証明し続けなければならないという圧力にさらされ、結果として精神的な健康を損なうことになる。したがって、このような知性至上主義に基づく社会は、表面的には効率的で理想的に見えるかもしれないが、その実態は不平等と抑圧、そして人間性の否定という問題を孕んでいる。真の意味での平等と公正を追求するためには、知性という単一の指標に頼るのではなく、人間の多様な側面を包括的に評価し、尊重することが不可欠である。このような視点から見れば、知性至上主義に基づく社会は、単なる理想郷ではなく、むしろディストピアであると言えるだろう。それは、人間の多様性を否定し、単一の価値観に基づいて人間を評価するという、本質的に歪んだ世界なのである。そして、このような社会においては、真の意味での人間の幸福や成長は決して達成されることはない。まぁ、結局のところその歪さで割れた社会内部からは陰謀論者や無敵の人、社会の周縁に追いやられた者たちや選挙に行かないノンポリ等の反知性層によって彼ら『賢い』お偉いさん方が追い詰められているのは笑うしかない。ポリティカル・コレクトネスもそうだが、一見正しさを生む行動が文化窃盗などの言いがかりでさらに混沌を生むのは知性主義VS反知性主義の様相で面白い。アジア男性を主役に据えたくない場合は都合よく書き換えた黒人を主役にすればよいのだ。どうせ『私たち』の目線の中にアジアの猿はいないのだから歴史文化なんて適当でもバレないからな。そもそも多様性を攻撃に使うというチンパンジーすら呆れる先進的社会ではその狂った価値観でさらに自己矛盾を深めている。このような社会では、ポリティカル・コレクトネスが本来の意義を失い、単なる表面的な装飾や自己満足の道具となっている。多様性の尊重という名のもとに、実際には特定の集団や価値観が優先され、他の多様な視点や背景が無視される。これは、知性至上主義がもたらす一種の自己欺瞞であり、結局のところ、真の意味での平等や公正からは程遠い。文化窃盗という概念も、元々は文化の不適切な利用や誤用を指摘するためのものだったが、現在ではしばしば過剰に適用され、文化交流や相互理解を阻害する結果となっている。これにより、文化の多様性や豊かさが失われ、単なる排他主義や分断が助長される。さらに、アジア系の人々やその他のマイノリティが映画やメディアで適切に描かれない場合、それは単なる無知や偏見の産物である。しかし、その一方で、特定のマイノリティを表面的に扱うことで、多様性の尊重という建前を満たそうとする行為は、逆にそのマイノリティの存在価値を軽視することになる。このような現象は、ポリティカル・コレクトネスが本来の目的を失い、形式的な取り繕いに終始することによって生じる。つまり、多様性の尊重や包摂という理念が、実際には特定の価値観や視点を押し付ける手段となってしまっているのだ。これにより、社会はますます分断され、対立が深まる。さらに、先進的とされる社会では、知性主義と反知性主義の対立が顕著になる。知性主義は、理性や論理に基づく判断を重視し、一見すると合理的である。しかし、それが過度に推し進められると、人間性や感情、文化的な多様性を軽視する結果となり、逆に不公正を生み出す。一方、反知性主義は、知性主義の限界や矛盾を指摘するものであるが、これもまた極端に走ると反知性的な暴力や無知の正当化につながる。これらの対立が激化することで、社会はさらに混沌とし、真の意味での多様性や公正が実現されることはない。特定サイトでのクレジットカードの利用停止や制限もそれにあたるだろう。一方的な判断で経済制裁を課すことで、企業や個人の自由を制約し、経済的な圧力をかける行為は、知性主義的な傲慢さと反知性主義的な反発の狭間で揺れ動く現代社会の縮図とも言える。これらの措置は、しばしば「正義」の名のもとに行われるが、その背後には複雑な利害関係や権力構造が隠れている。特定の思想や価値観に反する行為を取り締まることで、社会の秩序を保とうとする意図がある一方で、その実態は多様な意見や自由な発言を抑圧する手段となっている。クレジットカードの利用停止や制限といった経済的制裁は、経済活動に直接的な影響を及ぼし、特定の企業や個人を狙い撃ちにすることができる。これは、経済的な自由を剥奪する強力な手段であり、対象となった者にとっては深刻な打撃となる。しかし、その一方で、このような制裁が一方的かつ不透明なプロセスで行われることが多く、正当な手続きや透明性を欠くことが問題となる。こうした経済的制裁は、知性主義的な理論に基づいて正当化されることが多い。つまり、合理的であるとか、社会的に必要であるといった理屈で正当化される。しかし、実際にはこれが権力の濫用や一方的な価値観の押し付けに過ぎないことも少なくない。これにより、社会はますます分断され、対立が深まる。反知性主義的な視点から見ると、これらの制裁は既存の権力構造やエリート主義に対する反発を引き起こす。経済的な自由が一方的に奪われることに対する反発は、しばしば過激な形で現れる。これは、社会の安定を損なう要因となり、さらなる混乱を招くことになる。さらに、経済制裁がもたらす影響は、単に経済的な損失にとどまらない。これにより、制裁対象となった者たちは社会的に孤立し、ますます過激な思想や行動に走る可能性がある。経済的な制約が精神的な圧力となり、その結果として社会全体に不安定さが広がることになる。このように、特定サイトでのクレジットカードの利用停止や制限といった経済制裁は、表面的には合理的で正当な手段として正当化されることが多いが、その背後には複雑な問題が潜んでいる。そもそもその規制の理由としてアメリカの一州の判例に過ぎない点も問題だ。知性主義と反知性主義の対立が深まる中で、経済制裁は新たな分断と対立を生み出す手段となっている。したがって、このような制裁を行う際には、透明性と公正さを確保することが極めて重要である。単なる権力の濫用や一方的な価値観の押し付けに陥ることなく、真に公正な手続きに基づいて行われるべきである。そうしなければ、社会はますます混沌とし、真の意味での平等や公正は実現されないだろう。このように、ポリティカル・コレクトネスや知性主義の名のもとに行われる行動は、一見すると正義や公正を追求しているように見えるが、その実態は自己矛盾や分断を深めるものである。多様性を真に尊重するためには、単なる表面的な取り繕いではなく、各々の文化や背景を深く理解し、尊重する姿勢が求められる。最終的には、知性主義と反知性主義の対立を乗り越え、真に包括的で多様な社会を築くためには、人間の多様な側面を認め、尊重することが不可欠である。そのためには、ポリティカル・コレクトネスの表面的な実践に留まらず、根本的な価値観の転換が必要である。そうでなければ、我々は永遠に自己矛盾と分断の中でさまようことになるだろう。
◆◆◆
さて、ここまでの長文をすべて読んだあなたなら気付いたかもしれません。
これら一見何の意味もない長文の頭文字を取り、アルファベットにして全て並べると……
OMANKO
そう、オマンコである。
これこそが反知性の究極であり、常日頃から私が唱えている呪文でもある。本当は常にこれくらいの長文を書きたいところではあるが、私と同じ三行以上の文章を読めない反知性の皆さんのために抑えているというのと、知性至上主義者とは違って暇ではないので、簡潔にこうやってオマンコと言っているわけだ。これにより、あらゆる主義主張が伝わるだけでなく、皆さんのアーキタイプに直接訴える語句はスペクトラムな思想を共有でき、この先進的ネオテニー社会では畏怖の対象として存在するだけでなくプロテスタント然とした様相の発露と化して酩酊を孕んだ謬見に対処できる汎用性の高い一手ですね。
は?
さて、今月の活動報告を始めます。
今月は特にお見せできる何かをしてはいなかったですね。
それもそのはず、単純に忙しかったのです。4月とは違って、今度は通常業務に加え他の対処にも追われる日々を送っていたせいで趣味には時間を使えませんでした。まぁ、最近は収まりつつあるので6月からは何とか色々と作っていきたいなぁ。
これが今月の動画です。五月病ネタを使ってしまったので絶対に今月出さなくてはなりませんでしたが、間に合ってよかったです。
言っておくこととしては……
コメントで目聡くレコちゃんの新立ち絵に気が付いてくれた人がいましたが、あれはダダダダ天使のMADを動画に使用し、そのままいつもの実況画面に移行する予定だった時のドヤ顔腰当てポーズなのですが、結局その展開は没にしたのでMADはXに投稿し、立ち絵は動画で適当に使ったという裏話があります。
他に言う事は無いですね。
後は自分の動画ではないですが、シロワニさんの突発的雑談配信でのアレを描いたので少しだけ。
『幸せなら手をたたこう』と言って叩いた手拍子の音がノイズとして消されているのは最高にクールだと思いました。
ここからは他人の動画を褒めるコーナーに移りましょう。
まうしさんの『オホ声格付けチェック』です。一体何の格付けになるのかといった感じですが、私は正解してしまいました。
しかし、正解したからといってあ、そうなんだ……くらいの確信度であるため私がオホ声判別師として活動するわけではなく、何がチェックされたのかそれすらわからない、そんなとても面白い動画でした。
並べて聞くと結構違うのに、一つ抜き出して喋らせたら分からないものだなぁ。
そうなんだ……よかった。
あとまうしさんはいくつか記事も書いていて、気になったものがあったのでそれについても話していきます。
投稿時間に関しては特に気にしていないので言う事は無いですが(ライブ放送ならともかく動画なら私レベルの底辺動画はいつ出しても変わらないため)音声スタイルに関しては考えていたこともあってなるほどなぁと記事を読んでいました。
最初の方は、私の動画ではナコちゃんもレコちゃんも『れいせい』『ノーマル』がデフォでしたね。スタイルの切り替えも、叫びシーン等以外では極力変えないように意識してました。
この時はまだキャラで攻めるより、掛け合いとかそういうネタの強さだけで勝負したがっていた時期だったので、基本的に淡々とした態度の実況だったかなと思います。
ナコレコの可愛さに本格的に虜になってからは立ち絵を増やすのが楽しくなってきて、そこでまたやり方が変わった感じですね。
二人はボケとツッコミで役割を分担していますが、これはそもそもの掛け合い動画を作りたいという願望を意識したもので、異常者のボケと冷静なツッコミというある意味王道なコンビは常に私の心にあるアンビバレンツを表現していると言えます。
そういった都合から立ち絵もボケ側が多くなり、ナコちゃん10枚にレコちゃん20枚とか、ダブルスコアの差がつくこともありました。これは役割上仕方のないことですが……。そして主にMANAさん側にスタイルがたくさん追加されたこともあり、立ち絵がなくとも感情の表現が豊かになったことでその差はより開いていくことかと思われました。
しかし、MANAさんのごきげんスタイルが可愛くて、ナコちゃんのデフォ音声を一時期これにしていた影響で、ナコちゃんのキャラとかレコちゃんとの関係も少しずつ変化していきました。ナコちゃんのツッコミは多彩な感情を立ち絵でも表現するようになり、レコちゃんからナコちゃんへの矢印も強調されより分かりやすい関係性が動画の描写へ反映されるようになりました。
その結果、今ではレコちゃんが23枚なのに比べ、ナコちゃんの立ち絵が31枚という大きな差につながりました。
つまり何が言いたいのかというと、音声スタイルによるキャラの変化は私の動画の場合自作立ち絵という事もあり、その時の調子に合ったオーバーな動きを付けられる他、動画の作りにおけるキャラの役割の変動などにも対処できるため比較的違和感なく見れるのではないかという考察です。
実際どうなんですかね。自分の動画なんて見返さないからなぁ。
何はともあれ、シロワニさんはもちろん音声提供者の方々には多大な感謝を述べると共に、作ってるのがあんな動画ですみませんといった感じです。
で、立ち絵の流れからここで言いますが、ピクリエで開催されるコエイロパレード2024に私も参加したいと思います。
開催は7月ですが、一か月に一度新しいことをやる例のアレをこれで達成としてよいですかね。
いや、今月は曲を完成させたので来月分に回させてもらおうかな……別にこんな義務感でやるようなことではないとは思うんですが。
コエパレでは立ち絵を配ろうと思います。ギリギリまで出るかどうか悩んでいましたが、せっかくこういうお祭りがあるなら乗っておきたいというのと、立ち絵のまとめとかがめんどくさいので一生配布ができないと思っていたところにいいきっかけができたということと、無配のみがOKだったので賑やかしとして場を荒そうかという考えですね。配るとしたらboothになるかと思います。当然無料です。
後は時間が空いたら漫画とか描くかもしれませんが、描かないかもしれません。時間がない……今はともかくな。
そうだ、マシュマロの回答もやってしまいましょう。
先日とある質問をされていたんですよね。
これは後で描くと言っちゃったので描きます。
以前は全ての回答をnoteでしていましたが、どうやらそれでは相手に通知がいかないようで、回答されたかどうかが分からないんですよね。
なので基本的な回答はXの方でしつつ(マシュマロの私のページからまとめて見れます)、イラスト添付のものはここで行います。
で、質問の件ですが、パッと思い浮かんだものはこれです。
あとこれは一度言っておくべきかというところで、マシュマロに関しては今も絶えず誰かしらかが送ってくださっているようで、毎度毎度最高にうれしいですねぇ。
明確に活動のエネルギーになっており、私自身積極的に他の人にメッセージを送る方ではないので催促はしませんが、やはり何かしら言葉にして送ってもらえるのは大変喜ばしく思います。
なかなかすぐに返せてはいませんが、それぞれに大切に向き合って返答出来たらなと思いますので、これからも気が向いた時で構いませんので何かしら、怪文書から脅迫、リクエストまで何でも送ってくださいね。
といったところで、だいたい今月書いておきたいものはすべて書いたかな。
最近気温も暑く湿度も増して私的にはタムリエルの北に避難したくなる時期なのですが、皆様も環境の変化による体調や精神の悪化には気をつけて、なるべく健康に過ごせるようにお祈りしています。
もしくは私と一緒に西部の世界に行って女殴りだ!
(冒頭に戻る)
書きたいこと書けて満足したので今月はおしまいまた来月。