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いともたやすく行われるえげつない行為

と罰です。
先日行われたシロワニさんと鹿仲茉菜さんのコラボ配信、皆さん視聴されたことと思います。

『またシロワニさんの生放送の感想かよ』と思ったそこのあなた。配信は最高でしたが今回は感想ではなく、その中で話題に上がったスワンプマンの件について書いていくので、まぁ大丈夫かと思います。

何も知らなくてもついて行けるように哲学と思想強めでやっていきますね。

あと今回の記事は短めでやっていきます。

さてまずスワンプマンという話ですが簡単にいうと以下のような思考実験となります。

スワンプマンの話は、ちょっと不思議な考え方のお話です。
みんなが「自分は自分だ」と思うのはどうしてかな?っていうことを考えるために使うお話なんだよ。

まず、こういうことを想像してみてね。ある日、森の中に「デイヴィッドさん」という人がいました。でも、雷がバリバリって鳴って、デイヴィッドさんは消えてしまったんだ。ちょっと怖いね。

でもそのとき、森の中にある沼の近くで、雷の力で偶然「スワンプマン」という人が現れたんだ。このスワンプマンは、見た目も声も記憶も、全部デイヴィッドさんと同じ!お友だちが見ても、スワンプマンをデイヴィッドさんだと思っちゃうくらいそっくりなんだよ。

でもここで質問!このスワンプマンは、本当にデイヴィッドさんと同じ人だと思う?それとも、違う人かな?

このお話では、「見た目が同じでも、本当の意味で同じ人なのかな?」とか、「自分が自分だって思う気持ちは、何が大事なのかな?」っていうことを考えるんだ。スワンプマンは見た目も記憶も同じだけど、元々のデイヴィッドさんとは別の人かもしれないっていう考えもあるんだよ。

だから、スワンプマンの話は、「自分が自分だと思うのは、どうしてなんだろう?」とか、「人の記憶や心って、何が大事なんだろう?」っていう、ちょっと難しいけど大切なことを考えるためのお話なんだ。

まぁ色々な考え方がありますが、結局私としてはどの視点で見るかによって異なると思うんですよね。
その上で、自分がそうなると仮定した場合は、私とスワンプマンは異なると思います。私は死んでいるという認識ですね。それ以上でも以下でもなく、普通に死んだときとの違いは、周りの人間は誰も私がその時雷で死んだと気づかないだろうくらいなものです。
自分自身がスワンプマンなのだと気づいた場合は、やはり別にどうも思いません。私は記憶を引き継いでいるので私ですし、その生き方しかできないでしょう。気づいた後との違いは、沼を見るたびに母性を感じることがあるかもしれないくらいです。

他人、より親しい人がそうなったとしても、どうすることもできないでしょう。(入れ替わりの現場を)見なければ気付きませんし、もし気付いた場合も同じように接するほかないです。もちろんオリジナルの死を悲しみますが、コピーがいる以上それは仕方ないことだとも思い、なんとなく一緒に暮らしていくと思います。

ここら辺は私の死生観が大きいですが、私は自分と他者の死というものは決定的に違うと判断するからです。
どういう事かというと、どれだけ大切な人だろうと、その死が悲しかろうと逆にうれしかったり得になったりしようが、結局は他人の死は人生という大きなゲームで考えた場合の、マスに止まった際のイベントでしかなく、ゲームオーバーである自分の死とはそもそもの概念から違うと考えます。

そういう意味でいうと、自分が自分であるというのは今それを考えているのは誰?っていうことでしかなく、それがコピーだろうとオリジナルだろうと自分という点では変わりないですね。

まぁこの実験で聞きたいのはおそらく、オリジナル性の保持に必要なのは連続性なんだろうけど、全部引き継いだ場合はどうなの?ってことであり、もしオリジナルとコピーでやっぱり違うと思ったんならその違いとして全コピーの中で失われたものってズバリ何?ってところなんでしょうが、まぁオリジナルが死んでいることなども含めて経験というか実績の連続性が失われてますよね。
なんというか、少し前にグラグラするけど落ちない岩があって、それをどこかの馬鹿が落そうとして動かなくなったみたいな事件がありましたが、例えば千年くらいギリギリで落ちてない岩があって、それが何かのタイミングで落ちちゃって「あっヤベ」って思って魔法の力で戻すとしますよね。で、元の岩は完全消滅して落ちる前の岩が全く同じ状態で生成されたことで元通りになりめでたしめでたしだったとしても、なんか嫌だし個人的には千年落ちてない記録はリセットしてほしい。

結局死んだ人間は死んだ人間だし、落ちた岩は落ちた岩なんですよね。その後にどう戻ろうとも。

まぁ後、何でこんなにこの話が魅力的というか人気があるのかというと、人が本能で感じる自己と他者との識別の境界線を曖昧にしてしまうからだと思います。
上で述べた人生ゲームの様に自分と他人は違うものというのが当たり前ですが、自分を完全コピーしたスワンプマンが現れて自分の代わりに社会に溶け込むことでそのあたりの認識が崩れることが面白いと感じるのではないかと。

結構前にシロワニさんが話題にして、まうしさんやらも考えていた面白さについての考察、そのうちの一つとして私は、
『人は自分が信じていた価値観が問いかけられるような、考えさせられるような形で破壊される』のも面白いと感じる要素なのではと考えています。

因みに私も最近ようやく面白さについて自分でも納得できる仕組みというか理論を考察し終えたので、いつか公開してやりたいと思います。楽しみにお待ちください。

で!

ですよ。今回したかったのはスワンプマンの話が本題ではなく、いやまぁそこからの流れというか派生ではあるのですが。

皆さんはジョジョの奇妙な冒険第七部『スティール・ボール・ラン』をご存知でしょうか。

……なるほど全員知っていると。では続けますがそれは最終戦、ブレイク・マイ・ハート ブレイク・ユア・ハートでの話。

友人であるジャイロから受け継いだ鉄球を馬に撃ちこみ、蹴られることで発動した完全なる黄金の回転エネルギーを大統領にぶつけ、無限の回転で生き埋めにし続けるジョニィ。一方大統領は二度と這い上がれないことを悟り最後にジョニィに取引を申し出る、というシーン。

やめろ…もういい…その「無限の回転」…………

…………………………わたしの『敗北』だ………
「完全敗北」もはや勝てない●●●●●●●……「勝者」は…おまえだ……

だが生きている●●●●●「次元の」ジャイロ・ツェペリ』もいる
ここからは「取り引き」だが……
わたしならこの場所へ●●●●●●●●●●「ジャイロ」を連れて来れる
可能なのはわたしだけだ●●●●●●
もし わたしがこのまま『死ぬ事』になるなら……

それは もう永久に失われる事になる●●●●●●●●
ジャイロはもう二度とこの場所に戻っては来ないぞ
………どおする?

スティール・ボール・ラン22巻 #87 ボール・ブレイカー その⑤より

一応説明すると、このヴァレンタイン大統領はスタンドの能力『物と物の間に挟まる』ことで別の次元の、平行世界に行く事ができます。
その能力で死んだ友人を連れて来てやると言ってるんですね。
そして長々と取引について話し出しますが、ここでは議題となるその一部分を引用します。

「ジャイロがここに戻って来るというのか?」

約束する🔒」

「無事で無傷のジャイロが………!!」

約束する🔒」

「そしてそのまま僕とジャイロを逃がしてくれるというのか?」

約束する🔒
誰にも報復はしない…………

全てを無かった事にすると誓う
今後君らに決して手は出さないし行きたい所へ行けばいい
賞金のためレースを続けたければ続けるといい
わたしは「遺体」だけ手に入ればいい………
ただのそれだけ●●●●

「ハァーッ
ハァーッ
ハァーッ
ここに戻って来るというジャイロは…
もう同一人物じゃあない…
違う異次元世界』の……………『違うジャイロ』のはずだッ!」

「ジョニィ・ジョースター…
未来の事なんかわかる者がいるのだろうか?
違う心で違う過去のジャイロが来たとしても…あるいは君と友達でないジャイロ・ツェペリが来たとしても
これからのジャイロ・ツェペリはジャイロ・ツェペリの道を行くのだろう………………『重要なの』はこのわたしたちの世界で生きている事なのだ●●●●●●●●●

「うう…う
うう……
ハァーハァー
ハァーハァー」

スティール・ボール・ラン22巻 #88 ブレイク・マイ・ハート ブレイク・ユア・ハート その①より

まぁここまでの流れで私の言いたいことはわかるでしょうが、
昔、このシーンを読んだときは正直何言ってんだコイツっていうか……。
あんたがジャイロを殺したんだろ?知らん奴を連れてこようとすんなよ』くらいの気持ちでしたが、改めて今読みなおすと
「これからのジャイロ・ツェペリはジャイロ・ツェペリの道を行くのだろう………………『重要なの』はこのわたしたちの世界で生きている事なのだ」
っていうセリフがやけに沁みますね。納得したわけじゃないけど。

歳を取ると耄碌するというか、『この世に存在する』という事自体に救いを見出してしまうのは、子供のころにはわかっていた真実がだんだんとぼやけてきたことの証左なのでしょうか?

頭のおかしい話をしますが、例えば同じように命乞いで『お前の好きなキャラクターを現実に連れて来る』と言われたらどうします?
『原作から抜き出して連れて来ると「朝起きたらとなりでルイズが寝ていた。」ってことになるから、全く同じキャラとして現実に存在していたことにしてやる』って言われたら?
それでもし街を歩いていたら完全にわかる形で目の前を歩いていたら?
……
私はテンションが上がると思います。
物陰から眺めていると、話し方やしぐさや立ち振る舞いが好きなキャラそのままとしましょう。

しかし、もちろんですが原作と同じ体験はしてません。あくまでこの世界に同じキャラとして生まれているだけです。扱いとしては現パロみたいなもので、キャラクターの原作再現度が完ぺきな二次創作みたいなものですね。

私の知らない人生を歩んできたのだろうし、その分の差異も少なからず出てしまうでしょう、でも、キャラは同じなのでテンション感は変わらず原作のノリで私も属する同じこの社会を生きてきたんだなぁと思うわけです。

それって多分、満足しちゃうと思うんだよな~私は。
だって目の前にいるんですよ?私は全く興味ありませんでしたが2.5次元ミュージカルのようなものも根強い人気があるので、これは私の頭が単純に腐ってるわけではないはずです。まぁあれは一応原作通りに進むのでしょうが……。

妙な話ですが皆さん異常者ならばついてきてくれているでしょう。
それで話を戻しますが、もし家族が死んだ際に、流石に連れて来るのはどうかと思いますが『別の世界ではまだ生きてるけど会ってみる?』と聞かれた場合は?
はだしのゲンという漫画では姉や弟が死んだ後にそっくりの別人が登場しますが、ああいうのも気持ちが分からないわけではないですよね。

逆に自分が死ぬ場合はどうですか?
スワンプマンの話題と交差しますが、自分が死にかけている際に神様から『お前のコピーは無理だけど別世界のお前のコピーなら連れてこれるよ』と言われたら?
残されたものを考えると、それでいいかとも考えてしまいますね。家族のことも考えたら、やはり子供も親がいないよりいた方がいいだろうし。
あと自分に対する信頼もあるかも。連れてこられた場合は帰りたくなりますが、コピーだよと言われると、なんかすんなり受け入れてその世界で生きていきそうなんですよね私の性格から考えると。

……。

本当はこの先も五億年ボタンとか地球から来た男とかの話も交えてホラーっぽい展開にしてメタ的な話題に落とし込んで一つのnoteとして綺麗な構成の記事にしようかとも思ったけど。

飽きたからやーめた


まぁでも、哲学的な話題もたまには面白いですね。下手するとゲーム配信よりも需要無くなるかもしれないけど、これからもシロワニさんにそういう感じの話をしてもらいたいと思いました。

因みにここだけの話、私は毎秒全身全てのアポトーシスが起こっているため、過去一切の責任から逃れる事ができるんですよ。
これで露悪的なイラストを描いても不謹慎な動画を作っても引用で誹謗中傷しても異性の臭いについて言及しても世間一般のゴミ共とは違い炎上せずに生きていけるというわけです。いやあ良かったなぁ。新品の体万歳!連続性なんて糞だよな。まぁ貴様らみたいな中古品は精々過去に縋りながら言いたいことも言えずに常に監視の目の中せせこましく生きていてくれたまえ。

以上新品のと罰_備忘録_反映ver_こっちを使ってください(6)(7)_絶対変えるな!(3)_修正版(1)_反映ver_仮案(6).psdxでした。

えっそんなクソファイル名みたいな個体管理の仕方なの!?


こんなオチでいい?え、本当?ありがとう!

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