死と向き合う。
今年の3月の話。私の大好きな祖母が亡くなった。
祖母は、カラオケに行くのが好きな人だった。自分用にカラオケの番号ノートを作っては、一人で近所のカラオケへ足を運び、数時間楽しむ。また別の日はお隣さんと行ってきた、と楽しそうに話す祖母が、とても好きだった。
祖母の作る料理は、どれも美味しかった。週末になると、必ず祖母の家へと向かい、事前にリクエストしたご飯を頬張る。トンカツや、ハンバーグ、茶わん蒸し。どれも大好きだった。そして、帰り際にこっそり手に握らせてくれる500円玉で、貯金をするのが唯一の楽しみだった。
孫は、全部で6人いた。私は最後に生まれた孫であり、それでいて唯一の女だった。まだ生まれて間もないときに祖母の腕に包まれる私の姿がビデオに撮られていて。愛おしそうに私の名前を呼ぶ祖母が、印象的だった。
祖母の家で飼っていた犬と祖母は、毎日散歩する仲だった。元々孫の犬だったが、とある事情で祖母の玄関へと住み始めた。犬は嫌いと言いつつ毎日日課のように散歩に連れて行ってたのは祖母だった。
祖母が痴呆症だと確信したのは、私が学生を卒業する少し前からだったと思う。些細な事から始まって、どんどんと酷くなっていった。私の成人式の前撮りで、着物をきたまま祖母宅へ行ったとき、化粧のせいもあったとは思うが、一瞬、思い出すのが遅れた。そのときがきっと、祖母が初めて私を忘れた瞬間だと、今振り返って思う。
私は地元を離れて、一人暮らしを始めた。それまで毎週のように行ってた祖母の家にもいかなくなってしまった。でも、それでいいとも思ってしまった。正直、痴呆症の進む祖母を、見たくないというのが私の本音だった。
祖母はそのうち、カラオケへ行かなくなった。料理ができなくなった。老犬となってしまった犬は、先に天国へと旅立ってしまった。一人では何もできなくなってしまった、と、母との電話で聞く症状の悪化に、私は、頷くことしかできなかった。
年末年始や、まとまった休みの度に地元に帰り、祖母の家に行っていた。もう私のことを思い出せないのは受け止めてはいたが、私はおろか、母のことも忘れていた。何度も自分の名前を言い、分かる?娘よ、と伝えている母の声を、ただ聞くので精いっぱいだった。
何度忘れられてもいい、私はその度に名乗ろう。そして、『知らないお姉ちゃん』でも、何でもいいから、祖母の記憶に残ろう。そう思って、祖母の家に行くたびに自分の名前を名乗り、膝だったり、背中だったりを摩り続けた。何も言わない祖母だったが、嫌がりはしなかった。ただそれは、長くは続かなかった。去年12月に会ったときにはもう、笑うこともせず、会話もせず、不機嫌そうに私を見ていた祖母。何をしても嫌がる祖母を見て、そりゃあそうだ、なんて思った。知らない人にいきなり声をかけられ、話続けられ、去っていく。私だって知らない人にそんなことされたら嫌だ。でも。それでも私からすれば彼女は祖母なのだ。きっとこれは、私のエゴだろう。何度も思った。けれど、それは見ないふりをした。見ないふりをして私はその日も、じゃあまたね、おばあちゃん。と去ったのだ。
そして今年の一月。祖母の状態が急変したと連絡があった。
少し前から入院し始めたとは聞いていたが、あまりにも心の準備が出来なさ過ぎて、怖かった。ダメかもしれない、なんて言葉、見たくなかった。すぐに地元へ帰り、祖母の病院へ向かったが、12月と同じ反応だった。いや、もっとひどかった。もう私を私だとは認識するわけもなく、知らない人へ向ける目で私を見た。喋ることも出来ず、ただ宙をみてうわ言を言ったり、苦しそうに咳をする祖母を見るのみだった。いつの間に祖母は、こんなにも『知らない人』になってしまったのだろうか。と、そう感じた。
この帰省の時。私は一つ覚悟を決めた。危ないといわれた祖母だったが、持ち直したということもあり、私は次の日の夕方の飛行機で帰ることになった。ただそうなると、次に会うのはきっと、もう祖母がこの世から去ったときだ。だから、生きている祖母に会うのは、これが最後だ、と。悔いの残らないように、笑って別れを告げよう、と。そう思った。
空港へ行く前にまた、最後に祖母へ会うためにまた病院へ足を運んだ。変わらず苦しそうにしたり、宙に手を挙げたり、寝たままの祖母は全く目を合わせなかった。覚悟を決めたはずなのに、かける言葉が何も見つからなかった。ありがとう、も、愛してるよ、も何も。言おうとする度、喉の奥がぐっと詰まり、目頭が熱くなる。ただ祖母を見つめることしかできなかった。
そろそろ時間だ、と母が病室を先に出た。私は最後だから、と祖母に近づき、唯一言えた言葉は「じゃあ、私帰るね。またね」だった。なんの変哲もない、ありきたりで、日常の言葉しか出てこなかった。けれど、最後に笑って別れの言葉を告げた。
その時。私が祖母の傍を離れる、その時に。
祖母が笑った。
私を見るたびに、知らない目を向けて、怪訝な顔をしていた祖母が、私の知っている祖母に戻って、笑ってくれたのだ。数年ぶりに、私へ向けられたあの大好きな祖母の笑顔だった。
私の最後の記憶の祖母が、笑っている。それでいい。苦しそうな祖母も、知らない目で見てきた祖母も、私の中の祖母の最後の記憶じゃない。嬉しかった。ただただ、嬉しかった。あの笑顔を向けてくれた祖母は、その瞬間だけは、彼女の中に私はいただろうか。いればいい。居たに違いない。そう思い込むだけでも、私は救われた。
それから、3月。大好きな祖母が亡くなった。
親戚の子の相手をしながら、久々に集合する従兄たちと会話をして。次はお祝い事で集まれるといいよね、なんて泣き腫らした目で笑った。みんな祖母が大好きだった。それぞれの記憶の違いはあれど、みんな祖母に愛されていたし、祖母を愛していた。こんなおばあちゃんになりたい、と思った。
火葬場にて母が泣き叫ぶようにいった、「もう二度と会えないんだよ」という言葉を、未だに鮮明に思い出してしまう。死んだら、二度と会えない。そんな当たり前なことが、どうにも憎くて、苦しくて、辛い。母は、出棺のボタンを押すのを拒み、叔母たちと、ひ孫が押してお別れをした。次に会うときは、とても小さくなっていた。一緒にいれたお花と、祖母の大好きだった人形たちは、跡形もなく消えていて。一緒に天国へ行けただろうかと想像する。そして私は、人生でまだ少ない、人との別れを体験した。
祖母は、幸せだっただろうか。
私は半年以上たった今でも、そう考えてしまう。けれど、それは本人以外知りえないことであり、死後の世界だって不確定だ。天国へ行った、なんていうのも、生きている人間の、心の拠り所だったりするものだと思う。けれど、もし本当に天国があったとするならば。
祖母はきっと、先に旅立った祖父と一緒にいるだろうし、そこには飼っていた犬もいるだろうし、今頃仲良く2人と一匹で散歩してるに違いない。
私は、昔から死ぬのが怖かった。死んだらどうなるのか、今私が私だとわかっている自我というのはいつまで続くのか、そういうことを考えるだけで、死にたくないと思ってしまうし、恐怖でしかない。それならば、少しでも夢を見てもいいのではないかと思う。
だから、また遠い未来で会えたら。そしたら、久しぶり、なんていって笑って抱きしめてほしい。そして、あの時言えなかった言葉を言わせてほしい。
今までありがとね、おばあちゃん。大好きだよ。