清潔のペルソナ
(創作小説です)
これは、とある清潔星に棲む妖怪牛男の手記である。
私は、20代で心身が不調になり、妖怪戦線を退いた。
その後はリハビリと労働を繰り返すこと二十年近く。
若星である『地球』という現世で今は過ごしている。
最近『不惑』を越えた私が、惑い惑いこの年になって気づいたことは『清潔』の大切さであった。
清潔に対する汚れとは「気づかないことである」と思う。
自分の部屋が散らかっている。
床に埃がたまっている。
そんな気落ちする淀みや汚れを好むモノがいる。
牛男の天敵、蜘蛛男だ。
蜘蛛男はじわりと捕食網を広げ、手足のように汚れた色を牛男の生活スペースに伸ばしていった。
そう、汚れには色があったのだ。
私は汚れの色に気づかず、全く視えていなかった。
視えていないから、ますます汚れていく。
そんな蜘蛛男の進撃を止めるべく、転機となった冬枯れの日。
蜘蛛男が汚した色に気づいたのは、牛舎への帰り道だった。
馴染みすぎた牛舎という働く職場が、その日はひどく気になった。
歩みを変え、いつもと違う場所に立ち、牛舎を眺める。
イメージ通りの牛舎がイメージ通り古ぼけて見えた。
でも、ひとつ気づいたことがある。
良い職場は古くても汚れていないのだ。
付け加えるなら床がきしみ、天井がたわんでいたとしてもである。
そのことに気づくのに私はかなりの時間を要してしまった。
だが、私は後悔はしていない。
私は膨大な未知草を反芻し、咀嚼していたのである。
だから、決して人生の放牧などしていたのではないのである。
(ここ大事っ!)
そ、そうっ!
私は日々を浪費したのではない。
必要としていたのだと今は思っている。
ちょっと脱線したので話を戻します。
そして、私は牛舎の掃除をはじめた。
まず、汚れやすい水回りからやってみた。
やってみて気づいたのは、こびりついた水垢は取れにくいだった。
取れにくいのは、決して年月を経た汚れだったからじゃない。
視ていなかった汚れている場所に気づくことに、更に時間が必要だったからだ。
そして、水垢だったと思っていたのが実は黒カビという別の存在で、
今使っている洗剤では取りづらいと知ったときの勘違いなども、今となってはよき思い出である。
更に時が過ぎ、冬将軍の気が晴れはじめた頃、ようやく、自分で磨いた場所が清潔と感じるまでになったのだ。
そう、それが答えだった。
私が迷い惑い、回り道し続けた先の道標がようやく視えてきたのであった。
心身が汚れても、洗い続け、歩を進めて行く心持ちが私には必要だったのだ。
そう感じた時、私は初めて蜘蛛男の存在に気づいたのである。
蜘蛛男は生きるために汚れ色を作り出す。
なぜか?
気づいていないからである。
何に?
蜘蛛男は鏡の中の私だったことに……。
私はもともとマスクはしない人だった。
気がつけばマスクをするのが常となり、マスクに違和感を感じなくなっていた。
そんな私である牛男には、常にマスクをした学友がいる。
私はその友人の素顔をはっきりと見たことはない。
だからなのか不明だが、その友人と話していると、私は話し相手が、友人か知り合いか、わからなくなる。
知っているのに知らない。
あるのかないのか不明瞭で、私も友人も地に足がつかず、浮遊する幽霊のようにあいまいだった。
だからなのか、私には常に彼我の境界線を渡り歩くような奇妙な違和感が付き纏っていた。
あくまで以前の私なら、だが。
正面から鏡を見られるようになった今の私は地に足をつけている。
そして、清潔を感じ取れるようになった私はこのとき思ったのだ。
清く潔いとは、自然体で話せることではないのだろうか。
相手を自然体で『気を遣える』気持ちになれば、マスクにとらわれることはなくなるのかもしれない。
マスクをつけた牛男。
マスクを外した牛男。
マスクをつけた蜘蛛男。
マスクを外した蜘蛛男。
この全てが私である。
そんな私をとある友人は『半端者』というかも知れない。
だが、私が気づいた清潔さとは、
「半端を整える潔さ」である。
今の私は牛男である。
蜘蛛男ではない。
だから、蜘蛛男とは分かり合えない。
むしろ、ひとつしかない自分を強引に分けてはいけないだろう。
自分は自分、相手は相手。
それは紛れも無い(不純物のない)現世の理である。
でも、分かり合えないと気づくことは決して拒絶ではない。
牛男は、分かり合えないが、理解し合えると思っている。
なぜなら、牛男も蜘蛛男も友人にも『伝える口』があるのだから。
かつての私。
蜘蛛男だった私は、口は喰べるためにしか使っていなかった。
なぜか?
口の使い方を他に気づかなかったからである。
気づかなかったのだから仕方がない。
ああ、本当に仕方がないことだ。
でも、嘆くほどに理解し体験したからこそ、身に染みることもある。
私は、蜘蛛男に気をつけるようになったのだ。
私の中の蜘蛛男に気づいたからこそ、私は蜘蛛男を理解できると感じたのだ。
重ねて言うが、私と蜘蛛男は分かり合えない。
だからこそ、相手に自分を分け与えずに、相手と自分の隔たりを『ことわり』の言葉でほぐしていく。
その歩み寄りこそが、半端を整えることであり、私の裡に宿る、清潔ルールとなったのだった。
ただ、間違えてはいけないのは、牛男が蜘蛛男と分かり合えないだけであり、友人や人間と分かり合えないとは限らないのが、永遠に続く悪魔の証明のようで悩ましいとは思う。
(なお、上記は妖怪牛男のルールである為、他の方は妖怪にならない様にご注意ください)
以上、人生の道草も悪くないぞ、という食べてすぐ横になる牛男は今日も歩みを進めるのだった。(牛歩戦術じゃないよ、ホントだよっ!)