「私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち」(藤本由香里)を読んで考えたこと

藤本由香里著の「私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち」を読みました!

インスタに感想として投稿した文章が4千字近くなってしまったので(ふたつに分けてまで投稿したかった自分…)「つまみよみ」にも置いておくことにしました。

しかも内容の感想というより、読んで考えたことが中心(インスタで4千字(キャプションの制限文字数2千×2)に収めるために感想部分をかなり削ってしまったため)の文章になってしまったので、インスタでは削ってしまった感想も盛り込んで書き直そうか迷ったのですが・・・
その場合本書を読んだ「感想」と読んで「自分が考えたこと」とを分けて記事にしたほうが絶対いい。でも「感想」を字数制限なしで書き続けたら自分は本書の『面白い!』と感じた各章、各段落にいちいちコメントを入れたくなってしまう…!そんな素人の合いの手など、だれか読む必要があるであろうか・・・(藤本由香里さんの論考を読んでもらえればそれで十分じゃないか) と、思い止まりました。。


以下、転載です。


藤本由香里
私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち

引用元:藤本由香里「私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち」(2008、朝日新聞出版)

“すべては無駄かもしれない。人の世に救いなどないかもしれない。どこにも意味などないかもしれない。でも、ただそこに…祈りがある。どうしても捨てきれない祈りがある”
p391

今年少女漫画を遡って読み始めたので、先行研究を調べたいなーと思って読んだ本。
60年代末から90年代末をカバーしてるのですが、すごい!!!少女漫画って、、、こんなに色んなことをシビアに描いてきたんだ!と率直に思いました。
なんでかというと自分は平成生まれなので、90年代末以降の既にもうセオリーが確立してまあまあ均質に商業化された少女漫画で育ってきたし(あとアニメとかゲームとか対抗娯楽の存在感のほうが世の中的に強かったし、漫画の世界はオタクの比重のほうがすでに高かった)、レディースコミックも読まなかったので『女の現実を女性コミックや少女漫画で考えよう』みたいなものを自分は読んでこなかったからです…


いちばんびっくりしたのは、以下引用

少女たちがいかに切実に「他者による自己肯定」を求めてやまないか
p260
この、自分の力と周囲の状況のバランスをとりながら物事を進めていくという発想は、今までの女性には薄かったのではないかと思う。(中略)ここへ来てようやく、彼女たちは他人の手を読むことをも覚えたように思える。
p329

とあり、自分が少女漫画から感じたこととまったく逆のことが書いてあるーーー👀ということでした。(少女漫画のストーリーにはエンパシーと自己実現が織り込まれているなあ、という感想を過去に書いたことがあったから)

でもやっぱり自分は自分が好きなストーリー漫画しか読んでこなかった(し、好きな話でなければ記憶に残らない)から、そう考えたんだろうな…と思いました。
それくらい藤本由香里氏のカバーする作品数は多く、時代も幅があり、この実感は膨大な作品群が証明しているんだ…!と思いました。

昨年末(※2021年末のこと)読んだ山崎まどか「女子とニューヨーク」で印象に残った言葉(「大衆小説でこそ本当の女の生き方を描き出すことができる」)に通ずるように思ったのが下記、

真に優れたものはやはり深いところで時代の精神を共有するところから生まれてくるのだ
p438

…というあとがきの言葉に、やっぱり今生きている人間が書いたものを読み、ものを想うのはとても大切なことだ…!としみじみ感じました。。


気になったのは
名香智子が数々の作品で描くパートナーシップとか、槇村さとる「おいしい関係」ってこういう話だったんだ!とか、一条ゆかりはやっぱりすごいなとか、くぼた尚子「明るい家庭のつくり方」(「ウチってクライ家庭だったんだ……」(p112)←なんかこのセリフ知ってる気がする…有名なのかも)とか、
深見じゅん「悪女(ワル)」の、最終的に「かつてのメンターと全面対立する」(p346)にはちょっと燃えました。。


「超微弱コミュニケーションの時代」(p409)のあたりから分かる領域に入ってきて、樹なつみ「八雲立つ」、田村由美「BASARA」、羅川真里茂「赤ちゃんと僕」、山田南平「オトナになる方法」、やまざき貴子「っポイ!」、吉田秋生「BANANA FISH」、清水玲子「輝夜姫」…うんうんうん、という感じ。

特に立ち止まってしまったのはレズビアン論です。以下、面倒くさい文章を書き、投稿をふたつに分けました↓(※インスタ投稿時)


レズビアンについての『女であることを愛せるか』の章と『明るいレズビアン』の章では女性性について考え込んでしまいました。
女性が女性性を否定するのは成熟や生理や生殖の否定だろうと思うのですが、それだけでは安易な発想で実際にはその先があり、自分の女性性をひとまず認めたその後も女性性について悩み続けるから女性性を否定してしまう…ということに着眼しなくてはならない気がします。

藤本由香里氏は女性たちが男性を介在させずに自分の性を受け入れていくことについてこれらの章で論じており、女性が求めるものを女性どうしの繋がりの中で見出していくことはできるのだろうかという、多くの人に当てはまるような答えが簡単には出ない内容を書き綴っていて、とても読み応えがありました。

そして上記の切り口で論じなくてはならなくなるのは、少女漫画がレズビアンを性的指向として描いたというより、「なぜ愛するのか」を重視して作品にレズビアンを採り入れたからなのではないかな…と思います。

自分は、女性であることを受け入れられているか?の以前に、そもそもフィクションや世が提示する女性性の範疇に収まらなかろうと「女性」でいいよね?ということをいつも考えている気がします。

男性も女性性を細やかに描く作品や少女小説が好きな人は好きなのですが、自分はいつも「男性は当事者じゃないから女性心理小説や少女小説を気楽な立場で読めていいなあ」とつい思ってしまっていました。

女性性が女性だけのものでなく男性性が男性だけのものではないことや、立場を越境してフィクションを味わう愉しみがあることももちろん分かっていたのですが、
自分自身が「女性という当事者」か否かということはやっぱりそのフィクションが自分という存在にとってクリティカルかどうかを大いに左右すると思うんですよね。。

つまり、自分が女性であり女性性の当事者であるにもかかわらず、フィクションの中で提示された女性性や少女性と自身の性質が合わないことだって普通にある…その場合、自分という存在や自分の感覚が宙に浮いて回収されないような気分に陥るのです。
フィクションが提示する女性性と対峙した結果、女性である自分が振り落とされるかもしれないという緊張感。それに男性は身構えなくていいから、いいなーと感じたのだと思います。

しかも致命的なのは、フィクションで提示された女性性や少女性が取り零す部分にこそ、たいてい自分のアイデンティティが有る気がするんですよね。。

むしろ10代の頃は、フィクションが自分のアイデンティティをカバーしていないのは当然だ、だってフィクションの方が時代遅れなんだからそんなものだ(若さ…)と思って特に気にしていなかったのですが、それもきっと恐らく10代には向き合う力がまだ備わっていない問いだったからスルーしただけだな、と今となっては思います…

あと女性性で女性を縛るのは、女性たちでもあったりします。女性にもいろいろいて、女性性が自分の内にあることを素直に肯定できるタイプの女性もいるんですよね。そういう人たちは女性性がこちら(女性)に差し向けてくるあの特有の疎外感を恐れないんです。疎外感?そんなのあるの?同じ女性なんだからわかりあえるよ〜ってスタンスとか。私はそういう分かり合えるよ〜同じだよ〜という囲い込みに疎外感を感じまくるタイプで、そもそもほんとうの相互理解って、誰にでも開かれているものなのではないかなあ…と囲い込みに違和感を覚えてしまいます。


女性性との対峙は常にジレンマで、世の中の広告や映画やドラマや小説で提示される女性性について「当てはまるところだってあるし、当てはまらないところだってある」。そんなの当たり前なんですよね。男性だって男性性に対して同様だと思います。
でもその当たり前さを頭では分かっていつつも結局こういうプレッシャーを逐一感じとってしまう答えは疎外感なんだと思います。
女性のなかでも女性性の程度や考え方が各々違っていて、お互いを認め合うことをしなければそこも結局疎外感の場所になってしまうんだと思います。
でもそもそも人の性質はばらばらなんだし、疎外感を感じる必要もほんとうは無いんだと思うんですよね。。

『私たちは同じである』という囲い込みが、共感や共有という救いにもなれば、『自分もあなたも同じ道』という呪縛にもなり得る。それはちょっと違うというか…
共感や共有はゴールではなく、その先の『お互いに違った意味で女性である』ということをゆるしあったり認め合ったりする段階が我々を待っているのではないか…と思うのです。

フィクションの世界はすでにそういう女性のあり方の多様さを採り入れた作品が多く発表されていると思います。でも人間って生き物だから実際に生きている人たちが女性性の定義からすぐに自由になることは難しいと思うんですよね。

そんなときにハッと目が覚めるような思いがするのは、やはり萩尾望都の「マージナル」で描かれた女性という性の無くなった世界…(本書p378より作品解説)。
圧倒的だな…と思いました。
自分たち女性が女性性から自由になって個人であることを目指し、生殖を引き受けなくなっていったらこの先一体どうなるのだろう…
みたいな漠然とした問いを「自分が持っていた」ことに気づかされる。

壮大すぎてもうまとめきれないのですが、
自分たちが今生きている自分の感情をとらえるには、今思っていることを創作にこめなくてはいけないし、今まさにものを思っている人が作った創作を読んでいかなくてはいけないな、と感じたし
一方で女性について向き合ってきた少女漫画の蓄積があるからこそ、そこに立ち戻れば彼女たちが精一杯出した答えや辿った過程がいつもある…ということにも気づかされました。


冒頭の引用は石塚夢見「愛のように幻想(おど)りなさい」の一節で、本書で紹介されていました。

少女漫画よ、ありがとう!

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