「週刊少年少女組」藤臣柊子

4月に少女まんが館へ行って読んだ漫画の感想です。

🌼「週刊少年少女組」藤臣柊子

表紙を一目みて めっちゃ80年代っぽいなーと思い読んでみた漫画。

書誌情報:藤臣柊子「週刊少年少女組」(1987、セブンティーンコミックス、集英社)
収録作品:「週刊少年少女組」「埴輪なやつら」「パーティーは終わりだ」「俺達のあいうえお」


青春群像劇とか仲間内で終始する話って自分は苦手なのですが、ついつい手に取って読んでしまいました。なんだかいろんなことを考えました…

「パーティーは終わりだ」「俺達のあいうえお」の内容がほとんど思い出せないのですが、記憶をたよりに思ったことを↓


「週刊少年少女組」「埴輪なやつら」

登場人物と設定が同じの連作。
発表順は「埴輪なやつら」→「週刊少年少女組」のようです。(※とコミックスに注記があった気がするのですが話の時系列は前後しているので忘れてなければ今度確認しよう。。)
同じ高校に通う女の子たち・美穂、千秋、ふたりと仲良しの男の子たち・大島、飯田の4人組の話。

「週刊少年少女組」は主人公・美穂に彼氏ができて、付き合うのが初めてな美穂は案の定、浮かれてデートを優先してしまい千秋ら3人との交友がおろそかに。しかし彼氏が自分と付き合うことを仲間内の賭けにしていたことがわかり幻滅。千秋ら3人の友情に感謝する…という話。

「埴輪なやつら」は時間軸としては「週刊少年少女組」のあとの話?実は4人組のうちの大島は美穂のことが好きみたいで、その不器用でわかりにくい優しさと、それに対する美穂の鈍感さを描く話。あと千秋の家庭の離婚騒動もこっちの話に描かれてたかも。。(あやふやですみません)


話としては地味なのですが、彼女たちは学校のなかでたぶん浮いているんだけど、恋愛にうぶで、友情とか青春とかそういうものをたぶんすごく愛していてだからこそそこが弱点で、自分の置かれたモラトリアムな状況に自分で酔っている、なんというかすごくフラジャイルな感じの青春ものでした。。
学校で浮いているっていうのは勉強やスポーツなど、基準が分かりやすいヒエラルキーのなかでの立ち位置が確立できていないだろうなという感じです。でも不良ってほどはみ出してはいなくて、せいぜい授業さぼりがち…くらいの気だるい生き物たちです。

周りのみんなが恋愛をしている…自分はどうしよう…気の合う友人も異性の友人もいるけれど、でも友人同士で恋愛とかかわりなく過ごせるサークルを永続的に保つには友人たちみんなとの永続的な協定が必要で、でもそんなものいつまでもこの世に存在しないことはわかっている…みたいなことがセリフとかで書かれてはいないんですけど伝わってきます。

こういう状況とか設定で長編を書くのは難しく、おのずから中短篇や一話完結シリーズものになるんだろうな、と思うのですが、なぜ難しいかというとこの日常系虚脱感を長期的に描くためには時間の流れと成長を拒絶しないといけないからだと思います。でもそれって現実にはあり得ない。少なくとも読者はどんどん年を重ねて進学したり就職したりしていきます。作者が描きたい空気感はわかるけれどその物語を書きすすめていくと絶対にどこかで主要キャラクターたちに成長を促す転機や、守られたサークルの輪を破壊する外部からの攻撃が訪れる。それがフラジャイルと感じたゆえんです。。

とはいえ「週刊少年少女組」「埴輪なやつら」というごく短い話ですらモラトリアムを邪魔する破壊設定がいくつかありました。
・恋愛の土俵に立たされる
・家庭内不和
・自分の周辺の人間関係に優先順位をつけざるを得なくなる
しかしこれらも実際たいした障壁じゃなくて、全部ひっくるめるとただの「社会性」なんですよね。
しかも上に挙げた家庭内不和は千秋の親の離婚問題だったのですが、これも最終的に千秋が両親の夫婦喧嘩を大げさに受け止めてしまった勘違い、と判明します。つまり何がどこまで深刻なのか、自力で判断がつかない幼いキャラクターたちなのです。

こういうふうにとらえたからといってわたしはこの作品をくだらないとか子供っぽいとか一蹴したいわけではなくて、むしろこの虚脱感や雰囲気が作品として形になって残っているのがわたしはすごく良いことだと感じます。そしてその作品を後になって読むことでこういった感覚をふたたびなまなましく再生できるのがおもしろい、、と思うのです。

あと、すごく特徴的なのは絵です。(アマゾンには書影がなかったのでこちら
ツンツン頭とかファッションは80年代の流行りだったと思うのでいいんですけど、この極端な垂れ目はなんだろう。
自分は90年代の少女漫画から読み始めたのですが、目は縦に大きく、ヒロインは垂れ目であることが主流だった気がします。当たり前すぎて意識すらしなかったのですが。。

でも藤臣柊子さんのデフォルメはめちゃくちゃ極端ですよね。でも講談社で出てる初期の絵とそんなに変わってないから元々こういう画風なのだろう。。
すごく勝手な推測なんですけど、なんかやっぱり垂れ目って『自分は敵対しませんよ』と相対する者に示す記号な気がするんですよね。
意志をもった大人としてあなたに対峙することはありませんよ、その代わりこちらにもすこしは良くしてくれるとうれしいです、こっちはこっちで好き勝手やっているので、…という、世の中に対しての態度みたいに思えます。
87年って自分生まれてないのですが、景気よかったんじゃないのかな。この覇気のなさと倦怠感ってどこからきたんだろう。
この作品みたとき、このすかした感じが80年代っぽいなーと特に理由もなく感じたのですが、80年代の虚脱感・倦怠感(と自分が勝手に思ってるもの)をほかのどの作品から感じたことがあるのかもうすこし調べてみたいと思います。


あと青春群像ものとして比較できるものが自分の脳内ライブラリーに全然ないのですが、かろうじて吉田秋生の「櫻の園」(1985~)や「河よりも長くゆるやかに」(1983~)、矢沢あいの「ご近所物語」(1995~)、いくえみ綾のなにか← くらいで…

「ご近所物語」は主人公がひたむきに夢を追ってますから倦怠感どころじゃないですよね。これは小学生の女の子が対象作品だったりするので、次の世界に踏み出せない躊躇いについてはもっと読者が大きくなってからでよさそうです。
吉田秋生はハイティーン向けで、かつ絵がスタイリッシュなのではるかに大人度が高いのですが、上に挙げた作品は80年代前半の発表作なので絶対同業者にも広く読まれたと思うんですよね… wiki読んで気づいたけど「河よりも長くゆるやかに」ってけっこう設定重いので、吉田秋生は『答えは出さないけど現実派』なんです。吉田秋生の描く世界になれなかったのが、この藤臣柊子作品のような日常系虚脱感を描く作品なのではないでしょうか…

そしていくえみ綾ですが、「週刊少年少女組」を読んでいて、なんとなくいくえみ綾っぽいな…と思う瞬間が何度かありました。
「パーティーは終わりだ」は先生と不倫する話だったと思うんですけど、「潔く柔く」(2004~)の梶間と森のやりとりとか場面とか…をふと思い起こしました。だから藤臣柊子作品のメンタリティの後継者はいくえみ綾なのかなーと思ったのですが、そしたらいくえみ綾のほうがデビュー先でした…!でも1,2年しか違わない。。
いくえみ綾はふつうの高校生を描くのがとってもうまいのですが自分がそう感じ取ったのは2000年代以降の作品だし、初期のいくえみ綾(少女まんが館で読んだ「女の子ラプソディー」(1982)など)を読むといくえみ綾って大島弓子とかが好きだったのかもしれないな(憶測です)と思う感じで、80年代においては藤臣柊子とはタイプの違う作家だったんじゃないかなと思います。
でも80年代の虚脱感(とわたしが思っているもの)が同時代の藤臣柊子にもいくえみ綾にも染み込んでいて、時期はずれているけど作品に昇華されているってことなのかな… もうすこし調べないとわかりません。

でもウーマンリブの波が去って、とくに目標もなく生きたっていいじゃないか、英雄でなく名もない者として平凡に、日々の些末なことで一喜一憂して生きたっていいじゃないか、という刹那的な感覚ってたぶん80年代に生まれたものなんじゃないかなと(しつこいですが)思いますし、
そういう感覚を投影する日常系の漫画って少女漫画界で体系立てて語られることがあまりないので、これからも意識して読んでみたいと思います。


少女漫画を読むと、ときどきふと「ここに描かれているこの感覚って、時代のどこから生まれたんだろう?」「この時代のどんな思いが投影されているんだろう?」と考えることがよくあるのですが、自分のなかに材料となる資料が少なくて考えるのが難しいです。
長い文章になってしまいましたが、ここまで読んでくださった方へ、ありがとうございました。

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