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「小説太宰治」檀一雄著:「日高新報」6月28日付け掲載ブックレビュー

太宰治が死んだのは昭和二十三年六月十三日である。今年も桜桃忌の季節がやってきた。
 本作品を読んでいると多くの文学者が登場してくる。例えばこうだ。
 中原中也は、
ー雪が夜中の雨にまだらになっていた。中原はその道を相変わらず嘯くように、
 汚れちまった悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 と、低吟して歩き、やがて、車を拾って、河上徹太郎氏の家に出掛けていった。-
 また、佐藤春夫邸に出向くと、檀の小説の表紙を太宰と二人で頼んだ。
ー「ああ、いいだろう。描いて見よう」と佐藤先生は気軽にそう云われた。
 「何を描くかな? えー花筐と」(中略)
 「花だから蝶。蝶を描こう」
 こうして「花筐」の表紙は決まったのである。ー
そして、太宰の自死の日。
ー「新聞の模様を見ると、すぐ側の玉川上水に飛び込んでいるでしょう。その上女連れだ。若し遠ければ思い返す機会が無いとも限らない。それから太宰一人だったら思い返して、それがすぐに実行にも移せる。しかし、二人では今度は駄目ですね」
 と、私はまた言ったー
 檀一雄は、哀切の念を込めてこの小説を書いている。
 筆者が大学一年の時である。三鷹・禅林寺で行われた「桜桃忌」に出掛けて行った。
 始まると司会の方がどんな挨拶をしたのかはまったく思い出せないが(もう四十年も昔のことだ)、これだけは覚えている。
 「皆さん、今日は太宰治賞の発表を楽しみにしている方もおられるかと思いますが、まだ決まっておりません」
 わたしは、-ほう、太宰治賞って文学賞があるんだー、と思って感心していた。その当時のわたしは芥川賞・直木賞くらいしか知らなかった。その日誰が来てどんなことが話されたのかも分からなかったが、ただ檀一雄だけはよく覚えている。まだ娘の檀ふみが女優デビューする前である。
 和服であった。確か、薄黄紗織りの着物に濃茶色の野袴だったような気がする。ほう、これが文学者なんだと畏敬の眼で眺めていた。
 この桜桃忌には会費が要った。理由はお弁当とお酒が付いていたからである。お腹が空いていた私は知り合いも誰もいないので(当然だが)太宰所縁の人々が団欒し太宰を懐かしんでいる横で弁当を必死にパクパクと食べていた。薄目使いに檀一雄だけは見て。
 ただ、神々しいかった。檀一雄はわたしと違って弁当には一切手をつけず、やたら大声を出してお酒だけを呷っていたように思う。酒を飲まずにはいられないような理由がそこにはあるように思えた。
 

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