カタシロ 思考実験について

この前、カタシロというクトゥルフ神話TRPGのシナリオを回してきた。やっぱり、人の意見が聞けるのは楽しい。

カタシロを回して、カタシロの配信を何本も見て、思考実験にたくさん触れるうちに自分でも考えてみたくなった。ちなみに私はカタシロはプレイヤーとして回ったことは無い。

今回はカタシロ、カタシロアナザーに出てきた思考実験についての感想を書くので、分からない人は各自で調べて欲しい。


まず囚人のジレンマについて。

これは2人がどういう間柄なのかによって答えが違う。初対面で犯罪のために集まっただけの間柄なら相手のことは考えない。だから自分が得するほうを選ぶ。この場合は自白。

相手が仮に自分がよく知る人物で、尚且つ好意的に思ってる人だったなら、相手のことを信じて黙秘にする。お互い黙秘を選んでれば2年の懲役で済む。これなら一緒に牢獄へ入って同じだけの罪を重ねられる。片方の罪が多かったり少なかったりするのは信頼関係において良くないんじゃないか?と思う。平等であるべきだ。

自分がよく知る人物で、尚且つ私が相手のことをあまり好意的に思っていなかったら、私は自白をとると思う。自白をとったら、もしかしたら0年の刑期になるかもしれないから。

私は相手によって態度を変える。きっとそう言う人間だ。人間はきっと自分本位で自分勝手だ。きっとそういうものだと思う。

それが悪い訳ではなく、生きてる以上は自分のことが1番大事だし、自分に少しでもメリットがなければ人は動かない。


次にテセウスの船について。

これは難しい話だけど、私の考えとしては全部のパーツが置き換わったとしても周りの人々や自分自身がテセウスの船だと認めれば、それはテセウスの船になるんじゃないかと思う。

例えば、私の大好きな人が見た目と声が変わっていたとしよう。そしてその人物が私の前に現れて「もう君の知っている○○ではないよ」と言ってきたとしたら、私は「はいそうですか」とはならない。話をして考え方を聞いて、それが私の大好きな人と同じで、私がその人だと認めるなら、例え姿かたちが変わっていようと私が好きな人に変わりはない。

だから大事なのは見た目や形ではなくて、考え方とか思いとか信念とか思い出とかそういう見えないところにあるんじゃないかと思う。


次に臓器くじの話。

これも状況によって答えが変わる。もし選ばれるのが自分だったら、この話は不公平だろうと思うし殺されることを否定すると思う。

それは、自分の命を見ず知らずの人に差し出すことが嫌だからだ。私は大切な人のためや自分のために生きたいだけで、他人のために生きてるわけじゃない。くじで公平に選ばれたからと言って身を差し出すことは出来ない。

これが、私の知っている人で尚且つ好意的に接している5人のためだったら話は違ってくる。この場合は私は望んで命を差し出す。

傍から見れば「やさしい」と思われるのかもしれない。でも違うんだ。これはその好意的に接している5人に恨まれるのが嫌だからだ。怖いと思っているからだ。だから優しくない。人のために自分が犠牲になるのは、誰かに優しい人間だと認められたいから。そして、恨まれるのが怖いからだ。

私はただ単純にその人の為にと命を投げ捨てることが出来るような、勇気のある人間ではないんだ。

でも、そういう自己犠牲ができる人に心底憧れている。自分もそうだったらこんなに自己評価が低くなってないだろう。もっと生きやすかったかもしれないといつも考えている。


次はカタシロアナザーで出ていたカルネアデスの板について。

まず、私がこの事件を第三者視点で見ていたとしたら、自分の命を優先して他者を結果的に殺すことになってしまった人を責めれないと思う。限界の状況下においてその人のとった行動は、正解だとも不正解だとも言えないけど、間違いなく責めれることでは無いと思う。

私が当事者だった場合は、相手がどんな人かによって対応が変わる。もし赤の他人だったらカルネアデスの板の漂流者のように板を奪い取ってしまうかもしれない。

これが私の大切な人だったら、その大切な人のために自分を犠牲にしたいと思う。その人の命を優先したいのではない。私が板を譲ることで相手に私のことを良く思って欲しいからだ。感謝されたいからだ。

きっと私はこういう人間だ。

認められたい、賞賛されたい、見てもらいたい。そんな思いが根底に強くあるから、大好きな人に対してはいい顔をしたいんだろう。その行動をすることによって認められたいと思っている。

もしこの状況で、大切な相手が自分に板を譲って「私は体力に自信があるから泳いでいく。君はこれを使って」と言われたとしよう。その場合、皆はどうする?結構意見が別れると思うんだ。

私は断る。相手に板を譲る。それはさっき書いていた「人からよく思われたい」という感情もあるし、大切な人が居なくなってしまったら自分は生きていけないからだ。

どこまでも他者依存で生きているから、その人がいなくなったら生きていけない。誰に認めてもらえばいい?誰に賞賛してもらえばいい?誰に見てもらえばいい?誰に?そんな考えが頭に浮かぶ。

私にとって大切なのは、他者からの肯定だ。こんな醜い思いが奥底にあってした行動は、果たして素敵な事だと言えるのだろうか。

第三者から見たら私は大切な人に板を譲って自分が犠牲になったと思うだろうし、私は大切な人を救った英雄に見えるかもしれない。でも私は、大切な人を救いたいと1番に思ったからそうした訳じゃない。よく見てもらいたいから、1人になりたくないから。そんな子供じみた考えだ。


次に水槽の脳の話。

今見ているこの世界は実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢なのではないかという仮説についてだけど、私はいまいちピンとこなかった。何故かって、実際に私は今自分の意識の中で動いているし実在することを知っている。夢の中ではないと自覚している。なのにどうしてその根底を覆そうとするんだろうと思った。

そもそもなんで脳なんだろう。別に心臓でも手足でも良かったのでは?と考えたんだけど、カタシロ アナザーというシナリオの配信で「別に脳じゃなくても良かったはずだ。でもこの説を提唱した人は脳を選んだ。だから少なくともこの人は自分という個人が作られるのは脳であると思っているはずだ。」と言っていた。

なるほどと思った。分かりやすい。その人は続けてこう言っていた。「自分とは何なのだろう?君は何が自分だと思う?」と。

自分を指で指し示してくれと言われた時、どこを指さすのか。何をとって自分を自分だと言えるのか。それを問われていた。

私は、誰かが認めてくれれば私だと思っている。だからこの質問には答えられなかった。「これが自分だ。これがあるから自分に間違いない」と私は言えないんだ。それは、どうしても他者依存が根底にあるからだと思う。

誰かに認められることが、私が私である証明なんだ。

テセウスの船について話したことに絡めて言うんだったら、私の感情、考えていることそれらが自分を自分と言える事なんだろうか。でもきっと私は自信が無いから断言は出来ないんだと思う。誰かが私の話を聞いて「うん、君は希和とつらだね」と言ってもらえなければ自信が持てない。

自信を持つことは難しいことだ。胸を張って言うことはそれに対しての責任が伴う。


周りからの評価がなくなって、誰からも見向きもされなくなったら、誰からも必要とされなくなったら、自分が生きている意味がわからない。だから自分が自分だと言えるものは決めれない。

自分の中に自分はない...のかもしれない。ジグソーパズルで外堀を全部埋めてもらって、最後の1ピースをみて「これは自分だ」と言える。配信の人はそう言っていた。その通りだと思う。他人に自分がどういう人間なのかを決めてもらって、これがあなただよと言われなければ、私は私じゃない。

だから評価に依存している。自分が自分につける評価じゃなくて、他者が自分に決めてくれる評価に。


私がこの世界の最後の1人になったとしたら、迷わず自死を選ぶ。周りに誰もいないなら私が存在する意味は無いから。愛されたい、認めて欲しい、自分のことを考えて欲しいから、1人で生きていける勇気なんてない。1人は寂しいんだ。


最後に、ミニョネット号事件の話。

私は食べることは出来ない。それは、その人のことが大切だから食べないのではなく、「死体を食べてしまった」という罪悪感を背負って生きていくのが嫌だからだ。

その人が、「自分のことを食べてどうか生きながらえてほしい」と頼んできた場合、私はどうするだろう。多分それでも食べないと思う。その人の最後の言葉を裏切ることをしてしまうと思う。でも、罪悪感を背負って生きるのは怖いし恐ろしい。

罪悪感は背負って生きていくには大きすぎる。トラウマと同じくらい大きい。トラウマは脳にこびりついて離れないと知っているから、きっとこう思うんだと思う。


こういう風に自分の考えを掘り下げるのは好きだ。自分がどういう人間で、普段考えていることの根底が何なのかを知ることができるから。

大事にしている考え方は、全て過去が影響していると思う。だから考え方の根底を知ると、自分のどの過去が大きく影響しているのかが分かる。

この過去があったから自分の考え方が変わって、今こうなっているんだ。自分の主軸はこれなんだとわかる。自分への理解が深まる。

だからおもしろい。

私は他者依存で生きている。誰かに認めてもらいたいから、見てもらいたいから、この活動をしている。それが自分の原動力だ。

思考実験は本当にいろいろなことを考えることが出来て面白い。全人類の回答聞きたい。


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