【考察】ジムシャニ 第8話中編
このnoteは、ジムシャニ第8話中編において賛否両論巻き起こる中で、個人的な考察を披露するものです。
また、合間に(色眼鏡)と銘打った超・個人的解釈コラムを挟んでいます。文字通り、”色眼鏡で見る”という意味です。
※ジムシャニ第8話中編までのネタバレあります。※
目次を以下に掲げますが、よろしければ頭から通してお読み頂ければ幸いです。
1.「アイドルの冬の時代」への理解
いきなりですが、「アイドルの冬の時代」とは、1980年代末から1990年代後半までを示します。これは現実のアイドル史観としてほぼ確立されており、またジムシャニ第8話前編のモノローグやセリフでも、
という記述があることから、八雲なみの時代はバブル崩壊後の、この年代とするのが妥当です。
ただし、90年代後半は女性ユニット「モーニング娘。」等の人気アイドルの登場により"冬の時代”の終わりを迎えますから、個人的には90年代前半~中盤ではないかと想像しています。
第8話中編のシナリオに嫌悪感を感じた人達は、まず、この時代背景が上手く呑み込めていないように感じました。もっとも、1990年代はシャニマスファンのボリューム層である20代にとって産まれていないか幼児か、という具合ですから、把握できないのはむしろ当然です。
また、「アイドルの冬の時代」を2010年代と誤認している可能性もあります。これも20代の実感としてはCD多売なこの時期が印象深いのですが、そうすると斑鳩ルカが20歳なのと整合性が取れません。時空の歪みが多少生じたとしても、八雲なみの活動時期は1990年代と見て良いでしょう。
さて、はづきさんのセリフで語られた「アイドルが恥ずかしかった時代」の女性アイドルはおよそ以下のようなイメージのようです。なお、当時のトップアイドル達ではなく、世に出ては消えていくような泡沫のアイドル達を示すイメージだということにご留意ください。
「アイドルが恥ずかしかった時代」のイメージ
アイドルとは手段を問わず「愛らしさ」を世間にアピ―ルする存在。
しかし、80年代のトップアイドル達の二番煎じでしかない。
歌唱力は必ずしもプロではなく素人同然。カラオケ感のある歌声。
自力で作詞・作曲も出来ないのに歌唱する低レベルな存在(音楽シーンにおける「バンドブームの余波」)。
流行りの音楽バンドが美男・美女の集団で、アイドルのお株を奪われた(音楽シーンにおける「ビーイング・ブーム」)。
歌唱一本で成り立つアイドルなど極一部、いわゆるバラドル要素は必須。
そもそも歌唱を度外視したセクシー路線を打ち出すグラビアアイドルが流行し始める。
同年代に勃発した写真集ブーム、特にヌード写真集ブームの影響。
歌番組が激減し、落ちぶれたアイドルはヌードやセミヌード写真集の出版等を余儀なくされるパターンもありふれていた。
芸能界から脱落しないよう過酷な競争を強いられる芸能人(アイドル含む)が裏で何をしているか知れたものではない、という憶測と一部の現実から成り立つスキャンダルの応酬。
このような「アイドルが恥ずかしかった時代」の解像度が上がれば、プロデュ―サー・天井努の敏腕ぶりと、それでもなお”合わない靴”を八雲なみに強制する背景、そして八雲なみのアイドルへの拒否感、八雲なみの友人の心情に一層の理解を深められるかと思います。
また、第8話中編で八雲なみは内緒でドラマのオーディションに繰り返し挑戦したが、一度も受からなかった様子が描写されています。
”自身の夢への回帰”を願うが才能不足を痛感するばかりの日々、そして”合わない靴”でアイドルとして踊らされるという現実が、八雲なみにとってどれほど重圧であったか。
時代こそ違えど、似た境遇にあえて飛び込んだ七草にちか(WING編)との差が想起されますが、とにかく八雲なみ個人の苦悩を深く描写するには、この時代背景へのこだわりは絶対に必要だったのでしょう。
※日高舞の時系列について
この手の話題で”日高舞”の時系列が話題に上がりますので触れたいと思いますが、長文なので読み飛ばして頂いても大丈夫です、話の本筋がよく分からなくなるので。
日高舞は2009年のニンテンドーDSソフト『アイドルマスター ディアリースターズ』でメインアイドルの一人である日高愛の母親であり、また過去に13歳でアイドルとしてデビューし、トップアイドルに君臨しながらもわずか3年あまり、16歳で芸能界から引退しつつ娘・日高愛を出産し、作中で伝説と化したアイドルというキャラクターです。
この日高舞に関連して、2018年のコミカライズ『朝焼けは黄金色 THE IDOLM@STER』では”日高舞の引退後、アイドルの冬の時代が到来した”という旨の描写がなされています。
しかし、日高舞の年齢はゲーム発売時の2009年の時点で29歳、そこから逆算してアイドルデビューは1993年頃(13歳)となるのですが、これではジムシャニにおける”冬の時代”の真っ只中で時系列の整合が取れません。
他方、日高舞の年齢設定に準拠したケースでは1996年で引退してアイドルの冬の時代へ突入し2009年頃に復活となりますが、こちらも現実のアイドル史観から外れますし、先ほどの「”アイドルの冬の時代”を2010年代に誤認している」ケースとも外れてしまうのが、時系列の考察において混乱の原因になっています。
そもそも日高舞は、DSゲーム本編でのエピソードは70年代のトップアイドル・山口百恵に酷似しているかと思えば、代表曲「ALIVE」が1990年代の女性ソロアイドルのミリオンヒット曲と同じジャンルのバラードであるなど、とにかく現実のトップアイドル達のエピソードの集合体として構築されています。すなわち、時代設定がぼかされたキャラクター設計なんです。メインキャラではなくボスキャラだからでしょうか。そのようなディテールだからこそ、色々なアイマス作品に出没出来るのですが。
更に厄介なのが、根拠としての『朝焼けは黄金色 THE IDOLM@STER』というコミカライズ作品が、2005年・2007年のゲーム『アイドルマスター』および2011年のアニメ『アイドルマスター』の過去エピソードでありつつも、1970年代~2010年代まで、どの時系列を採用しても破綻しない、柔軟な構成を仕掛けていることです。
ジムシャニは明確な時代背景の解説があるので時代を絞れるものの、『朝焼けは黄金色 THE IDOLM@STER』では曖昧な表現に終始しています。
もっともらしいモチーフが頻出しつつも、しかし”作中のキャラがレトロ趣味や物持ちが良いだけかもしれない”という可能性を払拭し切れないという具合で、例えば、音無小鳥が”MD”(90年代までの音楽再生機器)で音楽を聴いているかと思えば、音無小鳥の同級生の親は”19年前の失踪したアイドルのCD”を所持している(CDは少なくとも1980年代からの媒体、復刻盤の可能性が大だが、しかし作中では芸能界から消されたアイドルとも言及されていてあやふや極まりない)等、時系列を徹底的にぼかして時代に捕らわれない作品を懇切丁寧に作り上げています。
時代が掴めない日高舞のキャラクター設定と、時代背景を徹底的に秘匿するマンガからの断片的な情報提示をベースに年表を構成しようとすると、いくらでもパターンが発生する上に、「これは”アイマス時空”なのでは?」というパラレル主義も同居して、これにて真相は闇の中です。
個人的な結論としては、DSの2009年を終点としつつ各作品の時系列を採用して、「音無琴美(70年代)」→「日高舞(80年代)」→「アイドルの冬の時代(90年代)・八雲なみ・音無小鳥」→「本家アイドルマスター(天海春香)(00年代)」→「ディアリ―スターズ(09年、日高舞の復帰)」とするのが妥当だとは考えています。日高舞の年齢設定を無視すれば、ですが。
2.アイマスにおける芸能界の描写
時代背景は再確認できましたが、「それでも、シャニマス世界・アイマス世界では現実での負の側面は存在しないか、描かないのが原作準拠では?」という意見もあるでしょう。が、少なくとも芸能界の描写についてはその限りではない、というのは明らかです。ここはさらっと記載します。
シャニマスにおいては、あえて例を挙げるならアンティーカの「ストーリー・ストーリー」や小宮果穂のPSSR「【フルスロットルエイジ!】小宮果穂」が該当しますが、芸能界は過酷で辛辣という一面を全く反映しないようなファンタジーな世界観では作品のディテールが瓦解してしまいますから、シャニマスシリーズでは必要に応じて、きちんと調整された適正なレベルで芸能界を明暗込みで描写しています。
また、アイマス世界についても同様で、どのシリーズ・媒体であっても程度の差こそあれ、芸能界は完全に健全、という描写はしていないように思えます。
代表的な例として、2011年のアニメ「アイドルマスター」では如月千早が961プロの妨害活動により、プライベートの家庭問題をマスコミに暴露されてショックで歌えなくなる一幕がありましたが、あれは961プロという内部キャラクターの工作!という切り分けは可能ではあっても苦しいかなと。やはり一定程度はリアリティを含めて暗部も描写しているというのが妥当です。
ちなみに、アイマスシリーズにおいて多大な貢献をされた坂上陽三・元総合プロデューサーが2021年に自身の書籍『主人公思考』を発売した際のインタビュー記事において、以下の発言を残しているので引用しておきます。
さて、ここからが本題です。
ジムシャニ第8話中編における一連の描写は、しかしながら適正な作劇範囲を逸脱してしまったのでしょうか?
3.ジムシャニという作品への理解、第8話への違和感
前提として、『アイドルマスター シャイニーカラーズ 事務的光空記録(ジムシャニ)』は、”シャニマスのディテールを徹底的に汲み取り、かつエモーショナルに演出しているコミカライズ”です。
脚本には原作のエッセンスが散りばめられており、キャラ描写やセリフ回しは徹底した原作準拠を感じつつも、マンガという媒体を存分に活かしたエモさ満開の構成が、多くのシャニマスファンを魅了して止みません。283プロの7つのアイドルユニットを順繰りに描写しつつ、どの回においてもクオリティが高止まりしたまま描き上げる作者・夜出偶太郎先生の突出した技巧には、連載更新日の隔週・土曜日深夜には賞賛の反応が多数送られている様子です。
しかし、エモには”明るいエモ”ではなく、”暗いエモ”も存在します。
そもそもエモとは一概に感動のみを対象とはせず、哀愁や感傷などダイレクトな情念全般を範疇としていますが、この文章ではあえて”暗いエモ”と表現します。
ジムシャニが”明るいエモ”と同様に”暗いエモ”を描写する事を決して蔑ろ(ないがしろ)にしないのは、読者であれば満場一致の解釈かと存じます。個人的には、ストレイライト回の283プロに落ちた少女が印象深いですね。
原作シャニマスが”暗いエモ”を取り扱う事にも真剣であるように、原作のディテールを丹念に汲み取るジムシャニもまた、手を緩めずに作品に落とし込むのです。
しかし、そういった”暗いエモ”も、原作エピソードを下敷きにした描写や、物語において”明るいエモ”に昇華されれば、読み手は納得感を得られて解消出来るのですが、この筆致でお気づきのように、件の第8話中編は原作エピソードを下敷きにした描写や明るいエモへの昇華が”一見して”存在しないように見えてしまいます。
それだけの単純な理由で、読み手たる私達はこれまでの読後感との差に動揺しますし、しかもネガティブな感情に囚われれば作品全体への否定にまで容易に連結してしまいます。根底に”暗いエモ”を抱えたままの状態であるからです。”暗いエモ”とは途方もなく扱いづらいものなのですね。
しかし、第8話中編にも原作エピソードを下敷きにした描写を発見する事は可能です。シナリオ自体はコミカライズオリジナルであり、舞台が過去の時代なので分かりづらく、しかも原作ゲームではテキストのみで描写されるので、これだ!という確信を作品側から明示されずに読み手自身で脈絡を見つける必要がある為、難解で不確かな物ではありますが。
具体的には、アイドル・八雲なみの所作や葛藤、プロデュ―サー・天井努の振る舞いや感情の機微、あの時代に”合わない靴”で踊るということのリアル、これらに思いを馳せれば”暗いエモ”の合理性を感じられる筈です。
加えて、個人的に最も印象深いのは、終盤のショッキングな「友人から冷たい飲み物をかけられる」までのシーンにおいて、斑鳩ルカとの対比が凄まじいという点です。
シャニマスの2023年のスペシャルコミュ『ジ・エピソード』において、斑鳩ルカが全てを拒絶して部屋に籠ったとき、それでもシャニPはルカマネージャーから以下のように伝えられています。
”この世界でやる熱が残ってる”。
この世界、有り体に言えば芸能界の、そしてアイドルとしての情熱が、燻っていてもまだ消滅していない。
そして、シャニPはルカの部屋へ通う事を止めなかった結果、土壇場で衰弱したルカを部屋から連れ出し、283プロの事務所へ移動して、はづきさんの看病と適切な対応で快方させるのです。
だからこそ、ジムシャニにおける八雲なみは途方も無く悲しい存在です。
あの日、プロデュ―サー・天井は八雲なみを追いかける事ができませんでした。
八雲なみも一度は立ち去ったものの、天井の呆然とした表情を思い出し、理由がなんであれもう一度対話しようと試みましたが、携帯電話も普及していない時代ですから、公衆電話が混雑しているという理由だけで連絡も叶いませんでした。
そして、八雲なみは居合わせた同業者の友達に対して、セリフから察するに、おそらくは”引退した”ではなく”引退しようと思う”と、偶像である自分にしか存在価値が無いと胸中を吐露しつつも、友人からはそれならばアイドルとしての立場を丸々代わってほしいと迫られて「…ごめん…なさい…」と謝絶しました。自身の発言が、相手に対して如何に軽薄だったかを後悔しつつも、八雲なみもまた、斑鳩ルカのように”この世界でやる熱が残っている”のです。だから身分を手放せない。
そして、
斑鳩ルカは図らずもシャニPと七草はづきと283プロに支えられて、燻ったアイドルへの情熱を絶やすことは無く。
八雲なみは燻ったアイドルへの情熱に、同業者の友人から冷たい水をかけられるのです。
再確認すべきは、シナリオはあくまでシャニマスのジ・エピソードが先行で、ジムシャニが後発だということです。八雲なみのエピソードが作者・夜出偶太郎先生のアイディアであるのは自明ですが、一般的にコミカライズには監修が入るでしょうから、このエピソードもまたシャニマス監修チームによって精査されていると見るべきでしょう。
4.第8話は「斑鳩ルカ」の為の物語
これまでの考察で、第8話が如何に斑鳩ルカの”解像度”を上げる為に必然的に用意された話であるかを想像せずにはいられません。
ただの宣伝効果狙いか敢えてなのか、ジムシャニ公式アカウントは第8話の告知の際、8という数字を塗りつぶして過去編であるのを強調していましたが、脚本の順番的に考えても、第8話はシーズに引き続いて加入した斑鳩ルカの為の物語に思えます。
シャニマス本編での斑鳩ルカの『ジ・エピソード』では、思えばルカ本人の独白による描写が連発されつつも、何故あれだけ拒絶していたルカが曲がりなりにも283プロへの所属を決断したのかはそこまで丁寧に説明されていません。シャニPの行動も一般常識的には不可解な程にルカに真摯ですし、なにより母親・八雲なみがルカを庇護せず見守る部分については「あの人なりの考えがあって」という具合に開示すらされませんでした。
しかし、ジムシャニにおいて八雲なみのエピソードが描写されることで、飛躍的にジ・エピソードの、ひいては斑鳩ルカへの理解が高まる構成となっています。
斑鳩ルカが敬愛し、自身のアイドル活動の原動力でもある、”お姫様”八雲なみの実像がいかなるものであるか。
そして、斑鳩ルカと八雲なみにおける様々な差異について、それは時代、才能、支援者のスタンスのあり方、そしてアイドル活動破綻の分水嶺での出来事とその結果。
シリアスな描写の数々は、”アイドルの冬の時代”・”アイドルが恥ずかしかった時代”のディテールを高める為の必然性から生じるとともに、八雲なみのエピソードを嘘偽りなく描くことを主眼に置いているからですが、それはつまるところ、現代の斑鳩ルカを間接的に描写する所作でもあります。
また、”アイドルの冬の時代”をゲーム本編でのテキストノベル形式で描写するには、どうしても描写の限界を生じかねないところで、マンガという媒体を選択したように思えます。何故、本編でこれをやらないのかという疑問も当然ですが、端的に、最も適した方法で読み手に届けるというシンプルな理由ではないでしょうか。
後書き
私の考察にお付き合い頂き、ありがとうございました。少しでも満足いただけたでしょうか。
この考察noteを書くきっかけは、X(twitter)で”ジムシャニを見限る”という旨のつぶやきをされている方を見かけたからです。
確かに、これだけの重厚な時代背景を持った作品を考察するには、Xのつぶやき程度の情報量では作品理解への解像度が絶対的に不足してしまいます。”時代に翻弄される”とはどのような有様なのかを測りかねる中で、ショッキングな描写に見舞われたら”私には合わない”で切り捨てるのも共感できる光景ではあります。
しかしながら、これだけはっきりとテーマが示されているなら、手元のスマホでただ一言、「アイドルの冬の時代」と検索して、Xの枠から飛び出して様々な備忘録に当たればよいのです。
このnoteを書いた私自身、手探りから始めてアイドルの冬の時代に関する知見を若干ですが、獲得出来ました。
今回の考察で参考としたブログ・動画のうち、特に分かりやすかった物へのリンクを貼っておきますので、興味があればぜひ目を通して頂ければと思います。
八雲なみのエピソードはシャニマス本編においてほとんど決定付けられています。それが決してハッピーではなくとも、正真正銘の”TRUE END”として。
であるならば、後編を待たずにジムシャニを見限るのではなく、八雲なみのストーリーを最後まで通読してから、批評を下せば良いとは思えないでしょうか。
私は”暗いエモ”を好む者です。しかし、”明るいエモ”を切望する者でもあります。だからこそ、両方を精緻に扱う作品群が大好きです。
”暗いエモ”に囚われ過ぎれば、”明るいエモ”も見逃してしまう。それが同じコンテンツを楽しむ者としてどうしようもなく勿体無く、熱を帯びた作品には相応の熱で応えてみようじゃないか、と発信する次第です。